「…………」
彼女の名前は安倍藤花。
目の前には五条悟というそれはそれは端正な面持ちの男が間近で彼女を見つめており、藤花はその視線から逃げようと視線を逸らした。
視線を逸らすくらいなら、逃げればいいだろう。
誰だって簡単に思いつく対処法だが、残念なことに彼女にはその選択肢は与えられていない。
何故ならば、壁に背を預けており、両脇は目の前の男が壁に手をついている。所謂、壁ドンをされている為に逃げ場所なんて何処にもないのだ。
「で、今日はどんな任務だったの?」
「別に……普通の任務よ」
サングラスの向こうには作り物のように美しい瞳が覗かせている。柔らかい印象を与えるようにしているつもりの目だが、目の奥は怒りを隠しているのがわかる。
彼は平常心を持つようにして優しく問いかけるが、藤花から返ってくるのは素っ気ない返事だけだ。
「へぇ、3級の任務でこんなに傷だらけになったんだ?」
「………」
五条の目の前にいる彼女は傷だらけだ。
かすり傷ならまだいいが、頭や手、足にも包帯が巻かれていることからそれなりに重症を負ったという証拠だろう。
そこを付くように冷ややかな言い方をして問いかければ、藤花は反論する言葉を失う。眉根を寄せて目だけを逸らした。
「正直に言いなよ」
「……特級案件だった」
「チッ、クソジジイ共め……」
全然答えようとしない彼女に苛立ちを覚えたらしい。五条が目を細めて催促すると藤花は折れたように深い息を吐いて答えた。
想像に容易い事だったが、いざそれが明確な情報として手に入れてしまったことで更に怒りが湧くのだろう。彼は少し顔を背けて舌打ちをすれば、毒を吐き捨てる。
「酒呑童子たちが助けてくれたから無事に祓えたから心配しなくても大丈夫」
「……あのね、僕はそんな心配をしてるんじゃ…」
藤花は不思議な感情を覚えた。
本当に心配してくれてるかのような声音、態度。それを錯覚してしまいそうになったが、その考えを打ち消すと冷静に事実だけを述べた。
会話は成り立っているが、解釈の意味合いが違うということを悟った五条は呆れたように眉を下げる。
「心配しなくても大丈夫だよ」
「……ったく、お前さ」
「!」
彼女はぐっと堪えるように固唾を飲むとぎこちない笑顔を向けた。
それは心配をかけないように、彼と距離を作るために被った仮面なのだろう。だが、この男を騙せるほどの仮面ではなかったらしい。
五条は顎を掴み、グイッと上げさせると自身の顔を近づけて言葉をかけた。
何度も近くで見たことのある顔だとしてもやっぱりまだ慣れないのか、藤花は目を見張る。
「自分がどんな顔してるか知ってる?」
「え?」
「それじゃ死んでんのと一緒じゃない?」
じっと獲物を狙うように見つめながら、問いかければ、彼女は不思議そうな声をあげるだけだ。
自身を守る為に無意識でやってのけていることがわかったのだろう。五条は呆れたように息を吐くと彼が感じ取ったものを口にする。
どうやら、彼女の笑みは全てを諦めた人間がするものに見えらしい。せっかく生と死の究極の選択肢を提示され、その境を乗り越えて生きることを選んだと言うのに、だ。
「……余計なお世話。それにサトの封印があることなんて皆知らないんだから、今まで通りよ」
「……誰に助けられた命だと思ってんだよ」
見透かされるその目を見たくないと思ったのか、彼女は固定された顔を背くことが出来ないことに眉根を寄せれば、視線だけ反らして言葉を返す。
しかし、その言葉は彼と出会う前と藤花の待遇が変わらないことを指していた。つまり、3級呪術師という肩書きなのにも関わらず、これから先も自分の階級より上の任務に当たらなければならないということ。
それを当たり前のように受け入れている彼女に怒りを覚えたのか、口調が変わっていた。
「サトには感謝してる。でも、私は16年その生き方しかしてきてない」
「じゃ、その生き方を捨てて新しいやり方を覚えろ」
ただ任務が一緒になっただけで自分の中にいる天狐の封印を手伝わされた人。藤花の中で五条は恩人だ。
彼に文句を言われても今まで生きてきた癖なんてものはすぐに直せるものでもない。他の生き方を知らないのであれば尚更だ。
彼女はキッと眉を釣り上げて反論すれば、横暴とも取れる言葉を投げかける。
「………自分が無茶言ってるの分かってる?」
「無茶だろうがなんだろうが、やってもらうよ」
「………話にならない」
確かに藤花は今までの生き方に拘っているようにさえ見える。だが、それは誰しもある事だろう。
それを簡単に捨てろという言葉には動揺したのか、藤花は瞳を揺らしながら、問いかけた。
しかし、五条は自分が口にした言葉を引っ込める気はないらしい。淡々と威圧的にも取れる言葉を吐くと彼女は肩の力を抜き、呆れたようにボソッとボヤいて自身の顎を固定している手を払い除けてその場を去ろうとした。
「逃げるの?」
「……怪我はしてるかもしれないけど、サトに迷惑かけてない。文句を言われる筋合いはない」
だが、簡単にこの男の拘束から逃げられるわけがない。パシッと腕を掴まれ、挑発するように投げかけられる質問に藤花は蔑むような目を向けて腕に力を込めたが、振り払えなかった。
離して。
そう、目で訴えたところで言うことを聞く男でもない。
「あのさ、何のために生きたいって言ったの?」
「……」
五条はため息を付いて改めて素朴な疑問を投げかけると彼女はピタリっと動きを止めた。
素朴とは言ったが、藤花とっては素朴ではない。当たり前ではないことなのだから、当然だろう。
「あの時、泣いてまで生きたいって言ったのは?」
「………逆に聞くけど、天狐として祓われるのと人間として死ぬのどちらがいいと言われて前者を選ぶ人はいるの?」
もう一度、問いかけた。
あの時。
天狐になる前に五条に殺されるか、交わって天狐を封印して人として生きるかを選んだ時のことだ。
彼女は泣きながら、選んだのだ。生きることを。
それを引き合いに出され、薄く開けていた口を噤んでいたが、睨みつけるようにして答える。
生きてもいいと認められたような気がしたことはまるで無かったことにして。
「人間として死ぬために生きたいって言ったってこと?」
「……人間として死ねることがどれだけ幸せかも知らないのね」
藤花の選択の意図を今、理解したらしい。五条は呆れたように目を大きく見開いて聞き返せば、彼女は皮肉を言うだけだ。
生まれた瞬間からその生を忌み嫌われて来て、いつ死んでもいいと思われてきた身の上。それに天狐になってしまったら、祓われるのは確実だ。だ
からこその言葉なのかもしれない。
「とーかの封印が壊れたとしても僕が死なない限り封印は解けないんだからそんな心配する必要はないでしょ」
「でも、不安なの」
確実的に彼女の封印が解けることはほぼ0%に等しい。上には伝えていないが封印は二重に施しており、一つはこの男が手中にしているようなものなのだから。
心配する意味が理解できないとばかりに五条は眉根を寄せると藤花はぽつりと零す。
「……」
「サトは最強呪術師。それは分かってる……私はサトに救ってもらえて……宙に浮いていた足を地に付けて貰えたけれど、それでも不安はなくならない……怖いの」
弱々しく、やっと吐き出す本音。
それに彼は掴んでいた腕の力を少し緩ませ、彼女から紡がれるだろう言葉を待った。
藤花は事実だけを口にしたあと、もう一度言う。
彼女の中に深く沈みこんでいるものを打ち明けた。そんなつもりがなかったかもしれないがそれでも言ってしまうのは五条相手だからなのか、たまたまなのか。誰にも分からないことだ。
「……何が?」
「私は、私が怖い。天狐になるのが、人じゃなくなるのが怖い……」
最強と謳われているのからこそ、恐怖なんて感じたことがないのかもしれない。彼女の感じるものを理解することが出来ないからこその問いだ。
考え方が全く違う人間にどう言ったって本当の意味で伝わることはない。
それが分かっていても一度口にした言葉は引っ込めることは出来ない。むしろ、どんどんと口が勝手に動いていた。
「……だから、人間として死ねる時に無茶をするわけ?」
「……」
やっと藤花が言いたいことがわかったのだろう。
要約すれば、彼の言った通りだ。人として死ねるのなら、無茶だろうがなんだろうが出来るということだ。
しかし、その考えは馬鹿らしいと思えたのかもしれない。眉間にシワを寄せてくだらなさそうに問いかけるが、彼女からの答えはなかった。
その沈黙が肯定と捉えていいらしい。
「はあ……どうやったら不安がなくなるんだか」
「私が死ぬまで無理かもしれない………っんん!?」
想像していたよりも深く心に傷を負っていることを理解したのだろう。何度目か分からないため息を着くと藤花の肩にトンっと額を乗せて嫌味ったらしく言う。
その言葉は彼女でも分からない答えだ。困ったように笑いながら答えていると五条は肩に乗せていた額をそっと離しては彼女の後頭部に手を回し、唇を奪う。
「っ、ちょ、……サ……っんん」
脈絡のないその行為に驚いた藤花は目を大きく見開いて彼の胸板を押して抵抗をするが、離されることは無かった。
それどころか、薄く口を開いた瞬間を狙って舌を口内に侵入させ、深い口付けをする。
「…………っ、ふ……」
初めてではないにしろ、まだ慣れないのそれに彼女は目を瞑り、五条の服をぎゅっと握りしめてされるがままになっていた。
「……絶対にその言葉取り下げてやる」
「っ、いちいちキスしなくていい!」
そっと離せば、彼女は頬を赤らませて肩で息をしている。その姿に彼は口角を上げて自信満々に言葉を投げかけた。
藤花はそんな言葉より彼の行動の方がよっぽど気になったようだ。わなわなと震えながら、眉を釣りあげて抗議の声を上げる。
表向き付き合っているとはいえ、ここには二人しかいないのだから付き合ってるフリなんてしなくていいのだから、彼女の文句は当然のものだ。
「あ、それいいね」
「は?」
「とーかが不安になったら、キスしよう。うん、名案だね」
だが、それはこの男に閃を与えてしまう。
手のひらにもう片方の手をグーにしてポンと乗せて納得しているが、藤花には意味がわかることもない。眉根を寄せて首を傾げると五条はどこか楽しそうに彼女から与えられた閃で浮かんだ提案を実行する気満々になっていた。
「っ!!こ、断る!!」
ただでさえ、色恋沙汰なんてものは身に余るものだった藤花のキャパシティーは余裕で超えている。
ぶわわわっと顔を赤くさせながら五条と十分な距離を取りながら、声高らかに拒絶したのだった。