10話




 悟は“最強”に成った。任務も1人でこなす。
 硝子は元々危険な任務で外に出ることはない。
 あの子は後輩達と任務に行くことが増えた。
 必然的に私も1人になることが増えた。


 祓う。取り込む。その繰り返し――……


 皆は知らない。呪霊の味。
 吐瀉物を処理した雑巾を丸飲みしている様な……。


 祓う。取り込む……誰のために?


 あの日から自分に言い聞かせている。
 私が見たものは何も珍しくない。周知の醜悪。


 知った上で私は術師として人々を救う選択をしてきたはずだ。


 ブレるな。
 強者としての責任を果たせ。


◇◇◇


 うるさく蝉の鳴き声を疎ましく思いながら、私は本音と理性の狭間で格闘していた。
 正直言えば、近寄り難い雰囲気を出しているつもりだった。
 今は誰にも話しかけられたくなかった。


「夏油君」
「……どうかした?」


 でも、あの子は私の前にちょこんと座り込んで顔を見上げて名前を呼んでくる。
 ああ、返事をしなければ。喉に突っかかりそうな息を何とか振り絞り、力なく笑いながら問いかけた。


「いや、それはこっちのセリフだよ」
「……何もないよ」


 心配そうな顔をして覗き込んでくる。
 弱いのに人の心配ができるって凄いな。そんな考えが浮かんでくること自体滑稽だ。
 私は自嘲しつつ、答える。
 そう、話せることなんて何もないんだ。


「嘘」
「……」


 彼女は凛とした声で、真っ直ぐな瞳で私を射抜く。
 その確信的な言葉に目を見開き、今日初めて彼女の目を見た。


「嘘つきって呼ばれてたから嘘には敏感なの……何かあった?」
「………いや、何もないよ」


 眉を下げて得意げに言う。
 それは良いことではないだろうに相変わらず、ポジティブに捉えて優しさを見せる。
 それでも彼女にこの感情を口にするつもりがなかった。


「そっか……無理に聞いてごめんね」
「……聞いてもいいかい?」


 私の口振りで何となく察してくれたらしい。諦めたように肩を落とし、立ち上がると申し訳なさそうにして笑う。
 踏み込んでいいか、否かの境界線を敏感に感じ取ってくれるからこそ有難い。
 あの一件から、私はこの子の生きてきた人生は私の思っている以上に過酷だったんじゃないか。そう思うようになった。あんな猿共を見たから余計そう思うようになったのかもしれない。
 だからこそ、思わず問いかけてしまった。


「うん?」
「嘘つきって呼ばれて、その人達のことをどう思った?」


 キョトンとした顔をして首を傾げる。
 それはそうだ。言いたくないと言いながら、聞こうとしている。
 しかも、彼女が一番触れられたくない柔らかいところを私は土足で踏み込もうとしているんだ。
 なんて矛盾だろうと思いながらも、聞かずにはいられなかった。
 空気に出してしまったものはもう取り返しようがない。私はただじっと彼女を見つめた。


「ああ、信じてくれないんだなって思ったよ」
「……怨んだりはしなかったのかい?」


  彼女もまたじっとこちらを見つめ返すとゆっくりと口を開く。柔らかい表情を浮べて笑うのが印象的だった。
 それに”嘘つき”の言葉に反応して貼り付けるような仮面ではなく、私達と接する中で見せるようになったその顔に。マイナスな感情があるとは思えないその顔に、私は驚いた。
 だからこそ、次の言葉が勝手に出る。


「とても悲しかったけど、思わなかった」
「どうして?」


 ただ、彼女は眉を下げて寂しそうに言うだけだった。
 ”嘘つき”という言葉に過剰に反応を示すのに、何故恨まない?何故妬まない?何故怒らない?
 その理由が全く分からない。怒っていいはずだ。恨んでいいはずだ。妬んだっていいはずだ。
 何故、彼女はただ寂しそうに”悲しい”感情だけで留まるのかが分からなかった。


「だって、あの世界じゃ私が異端なだけだから」
「理不尽を押し付けられてるのに?」


 彼女は私の隣に腰を掛けて手のひらを見せながら、あっけらかんと言う。
 非呪術師側に居れば、痛いほど分かる。それは私だって感じていた。違う人種だから仕方ないと。
 けれど、自分勝手な虚像を作り、貶めるのは間違いなく非呪術師だ。納得できる理由が分からない。
 私は極めて平静を保ったまま、問いかけた。


「自分に見えないものを、分からないものを、感じられないものを分かれっていうのも理不尽になるんじゃないかなぁ」
「…………」


 私の疑問は思わぬ形で論破された。
 |非呪術師《かれら》はただ少し|呪術師《わたしたち》より見える世界が狭いだけだと言うことを。
 理不尽だと私達が思うように向こうにそれを押し付ければ、それもまた理不尽になるということを。
 返す言葉が見つからなくて、ただ目を見開いたまま、見つめ返した。


「あれ、答えになってない……?」
「あ、いや……」
「そっか」

 私が何も反応を返さなかったからだろう。眉根を寄せて不安そうに顔を覗き込んで来る。
 何か反応を返さなければ。
 内心慌てながら、言葉を探すけれど何も浮かばない。でも、そんな私を見て彼女はただニコッと笑うんだ。
 伝わっているけれど、言葉にするには時間が掛かるということを理解してくれたように。


「君は……」
「ん?」


 言葉では言い表せられない苦労をした先でそうやって笑う彼女に自然と言葉が出た。
 何を言われるのか分かっていないからこそ、彼女は瞬きしつつも反応を返す。


「強いんだな」


 そう、強いんだ。
 決めきってしまった人間だから。もうブレない位置まで行ってしまった人間だから。
 自分より弱いと思っていた人間が実は強かった事実を認めるしかなかった。


「………特級呪術師に言われると嫌味に聞こえる不思議ね」
「……フフッ」


 だけど、彼女は私の言った意図を理解してないらしい。
 それは自分は弱いと分かって、認めているからなのかもしれない。
 ジト目でこちらを睨んでは複雑そうな顔をして文句ひとつ落とす。

 本当の強さを手にした呪術師としては私に劣る彼女に力なく笑ってしまった。

 
◇◇◇



 ザアザアと降る雨の中。
 私と対峙するのは同じ一般から入学した同級生の女の子。


「……夏油君」
「やあ、久し振りだね」


 彼女は目を大きく開いて私の名前を呟いた。
 そんな顔をされるとは思わなかったから、思わず自然と口角が上がる。


「……硝子ちゃんから聞いた」
「そうか」


 ひどく傷付いたような顔をして声をかけてくる。
 それは私がしたことが本当だと聞いたことを指しているんだろう。
 言い訳も弁解もない。ただ相槌を返すことだけしか出来ない。


「夏油君……」
「なんだい?」


 一歩、また一歩と私に近寄ってくる彼女に敵意はない。
 まあ、もしその気があったとしても私は殺せる。でも、彼女は私を殺せない。
 私の方が強者で、この子が弱者だから。


「ごめんね……」
「……」


 彼女の言葉に言葉を失った。
 どうして、この子が謝ることがあるんだろうか。
 どうして、こんな今にも泣きそうな顔をして私を見つめているのか。
 分からなかった。


「……気付いてあげられなくて、ごめんね」
「…………君が謝ることじゃないさ」


 彼女は続けてもう一度、謝ってくる。
 そっと私の頬に触れる手は雨に濡れて冷たさがあるのにどこかあたたかい。そんなことを気にしていたのかと思うと本当に笑えてきた。
 どうしてそんなにお人好しでいられるのか、と。
 君は気が付いてくれていた。その手を取らなかったのは私……ただそれだけなのに。


「…………」


 雨が彼女の頬に当たり、流れ落ちていく様はまるでこの子が泣いているようにさえ見える。
 それが目の錯覚だと分かっていても、自分のために涙を流しているように見えた。


「私は呪術師の世界を作る……呪詛師こっち側に来るかい?」
「……」


 誘うつもりなんてなかった。悟からこの子を奪うつもりなんてなかったから。
 誰にも理解されなくてもいいと思っていたけれど、それでも私の見て来た世界に近いこの子なら付いて来てくれるんじゃないか。そんな思いが零れ落ちてしまった。
 ただ、彼女は驚いたように目を見開くだけで、返事はない。


「ごめんね、私はそっちに行けない」
「……行かないじゃなくて行けない、か」


 私の頬に触れる彼女の体温がどんどん雨に奪われているように感じた。でも、低くなっていく彼女の体温が心地良く感じたがそれもそこまでだ。
 彼女は私の頬から手を離して酷く悲しそうな顔をして断った。
 断られると思っていた。分かっていた。
 でも、それを理解していたにも関わらず、心が痛むから自嘲してしまう。
 それに断るにしても言葉のチョイスが独特でそれにまた笑ってしまった。


「……もし、私が呪術師を知らなければ……夜蛾先生より先に今の夏油君に出会ってたら、一緒に行ったよ」
「……悟がいるからかい?」


 彼女は続けて言う。
 もし、彼女が高専に来ることなく、あの酷く汚れた世界で生きていたら……歩むべき道を決めた今の私に出会ってくれたら、そんな未来を想像する。それは悪くないと思った。
 それを留まる理由があるとすれば、1人だけ。
 私は聞かなくても分かることを何故か聞いてしまった。


「……みんなと出会えた私を否定したくないから」
「…………」


 驚いたように目をまん丸にさせると彼女は肯定する訳でも否定する訳でもなく、穏やかに微笑みながら、告げる。
 私の問いには答えてはくれないけれど、それもまた答えなんだと気付かされた。


「嘘つきって呼ばれ続けた私を受け止めてくれる人に出会えたことを否定したくないから私は呪術師でいるよ」
「……そうか」
「うん」


 もう彼女は私以上に世界に絶望して、それでももがき足掻いて見つけたい場所が|呪術師《ここ》だった。ただそれだけだったんだ。
 そしてもう、彼女の心は揺れない位置まで行ってしまったんだ。いや、それはもう感じていた。分かっていたはず。
 ただ私の認識が思った以上に甘かったらしい。
 もうただ納得するしか術がなかった。


「もうひとつ聞いていいかい?」


 私が彼女にしてやれることは何もない。そう思ったけど、一つだけあった。
 それだけは聞いておこうと思ってじっと見つめる。


「何を?」
「君を嘘つきと呼んだ猿共を教えてくれるかい?」


 不思議そうな彼女の瞳が、曇りなき瞳が私を映す。
 そう、これだけは聞いておかなければならない。
 どこまでも純粋で自分より周りを大切にしようとするこの子を貶めていた猿共を。


「…………ははっ、ヤダよ」
「なんで断る?」
「だって、夏油君……殺しちゃうもん」


 けれど、鳩が豆鉄砲を喰らったように目をまん丸にしては笑い出す。そして、またそれは断られた。
 断られるとは思わなかった。どうして教えてくれないのかも。これが悟だったら、教えていたのか。そんなことまで考えてしまう。
 彼女は困ったように眉を下げて静かに答えた。


「当然だろう。君を傷付けた猿に生きる価値なんてない」
「夏油君は他人の価値を決められるようになってしまったんだね」
「……」


 聞いた後、私がどんな行動を移すか想定されていたのは意外だった。でも、自分の親も殺してるから馬鹿じゃない限り想像つくことなのかもしれない。
 価値ある人間を虐げる猿共を殺して何が悪い。
 私の意見を言えば、彼女は酷く悲しそうに笑った。


「それはとても悲しいことだよ」
「………」


 まるで、寂しそうに。泣きたそうに。
 その顔に私は言葉を失った。

 

「呪術師の世界を作ったとして、作れたとして………その世界で非呪術師が産まれたらどうなるの?殺すの?」
「………」


 私の描く世界を作ったあとの未来を語り、首を傾げる。
 そんなことは決まっている。答えは一つだ。
 殺す以外の選択肢はない。
 そう思っても何故か声は出なかった。


「きっと本当に呪力を持たない子が迫害されて傷付いて泣いて怨んで恨んで呪うかもしれないね。それこそ呪術師が、呪詛師が束になっても敵わない呪いが産まれるかもしれない」


 彼女の語る未来はあまりにも偏ってる。
 呪術師が束になっても敵わない呪いなんて生まれるはずがない。
 しかも、たった1人の猿の呪いなんて。


「そんなのありえ――」
「ないことなの?本当に?」
「……」


 鼻で笑ってそれを否定しようとした。
 でも、私の声に被せるように真剣な顔をして聞いてくる。
 可能性は低い。でも、絶対ないと言いきれるかと聞いてくるような声音に私は口を閉ざした。
 この世に絶対なんて約束されたものがないと知ってるから。


「憎しみ、悲しみ、痛み、負の感情は呪いになる……それがまた不幸を呼ぶ……負の連鎖は自分で気がついた時に止めないと」
「……」
「人の心は反転呪術式みたいに掛け算のようになれないから……どんなに負の感情を抱いても止めないと……繰り返されるんだよ」


 彼女は止まることを知らない。
 自身の手を苦しそうに辛そうにぎゅっと握り、肩を震わせながら、必死に私に訴え続ける。
 思い留まって欲しい。
 まるで、私にそう伝えたそうに。いや、伝えたいのだろう。


「……それが君の答え、か」
「っ、……」


 もう、交わる道はない。私達はどこまで行っても平行線。
 それが彼女の答えだということを十分教えられた。だからこそ、もう話すことはなかった。
 私は踵を返し、彼女の前から去ろうとすれば、後ろで引き留めようとしているのか、葛藤しているような声が薄っすら聞こえると振り絞るような小さな声が聞こえてくる。
 元気でね。
 とても小さな、小さな声でこの雨の中、聞える。もしかしたら、それは私の幻聴かもしれない。
 それに後ろ髪を引かれるような思いを抱えながらも、それを無視するように私は足を止めることなく歩き続けた。

 大事なものを最初に手離したのは私自身だ。
 あの三人を手放したのは私だ。後悔していない。
 けれど、これからも大事だと思い続けるのだろうと思った。



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