名前騒動




 高専の石段。そこに腰をかける二人の女子生徒いた。
 硝子はタバコを咥えている。その先端から出ている煙は風に身を任せるように流れていく。
 普通なら、高校生が吸うのはダメだ。けれど、この場にそれを止める人はいない。


「……で、付き合うことになったんだ?」
「うん……」


 肺に満たした煙をふぅ、と吐き出すと小首を捻った。
 隣に座っている清はどこか浮かない顔をしてこくっと頷く。


「クズだけどいいの?」
「………いや、どちらかというと私でいいのかなぁ?」
「……は?」


 硝子がまず念を押して確認するのはそこらしい。けれど、少女は眉を八の字にして笑って聞き返した。
 思ってもみない反応だったのかもしれない。硝子はポカンと口を開けたままだ。


「あの時はなんか言いくるめられちゃって頷いちゃったけど私でいいのかなって……」
「アイツがそう言ったんだろ?」


 清彼女は勝手に委縮してしまっているのか、無意識に肩を竦める。不安に思っていることが顔に出ていた。だからこそ、硝子は彼女とは真逆に肩の力を抜く。無駄な心配だと言わんばかりに。


「でも、私――……」
「お前が嘘つきじゃないのは私達が知ってる。言ってきた奴らなんて捨てろ」


 自信が持てないのか、今にも泣きそうな顔を晒して何かを言おうとする。それはおそらく、自分自身を卑下する何かだろう。それが分かったのか、硝子はガシッと肩を掴んで揺らした。
 少女が嘘つきじゃない。それをちゃんと分かっている、と伝えたいからこそ、声に力が入る。


「硝子ちゃん……」
「……大丈夫か?」
「うん、ごめ……みんなのこと信じてるんだけど、どうしても……囚われちゃうね」


 ハッと我に返り、肩の力を抜いた。すると、浅くしか入らなかった息が体に満たされるのを感じ、ぽつりと頼りなく、呼ぶ。
 やっと現実こっちを見た。それにほっとすると硝子は手に持っていたタバコを石段に押しつぶし、火を消す。チラッと横目で確認すれば、情けなさそうに清は固まった表情筋を上げた。


「ゆっくりでいいよ」
「……ありがとう」


 難儀な環境で育った、と思っても、硝子は口には出さない。それは踏み込んでいいものなのか計り知れないからかもしれない。人の弱い部分に踏み込むには勇気のいることだから、当然だ。
 相手のペースで少しずつ、かけられてしまった呪いを自分で解いていくしかない。哀れに思いながら、ぽんぽんと頭を撫でてやれば、少女はふにゃと笑う。


「そういえばさ」
「?」
「呼び捨てでいいよ」
「急だね……え、いいの?」


 やっといつも知る顔に戻ると撫でるのを止め、話題を逸らす。けれど、何を言い出すのかがまるで分らない。彼女はキョトンとした顔をして言葉の続きを待った。
 その顔が間抜けに見えたのか、硝子はふっと表情をやわらげて、さらりと言う。
 それに驚きを隠せないらしい。清は目を真ん丸に見開いて、聞き返すしかできない。


「思いつき。いいよ、呼び捨てで」
「……友達っぽい」
「友達でしょ」


 目を細めてもう一度、言うと少女は固まる。それはそうだ。そんな許可をもらったことがないのだから。パチパチと何度も瞬きをして、ポツリと呟くそれは硝子にとって今更だったらしい。
 膝に肘を乗せ、頬杖付きながら、あっさりと言うのだ。友、だと。


「…………」


 実は憧れていた。同級生三人の関係性に。呼び捨てで呼び合うその姿に。でも、自分が呼び捨てを許されるとも思っていなかった。そして、その勇気もなかった。砕けた口調を少しずつしていっても、そこは線を引いていたのだ。
 だけど、許しが出た。それにドキドキと鼓動が早まるのに、胸はあたたかい。


「……しょ、硝子……?」
「ん」


 ドクンドクンっと高鳴る心臓を抑えつつ、遠慮気味に呼びかけた。
 彼女の表情はかなり固い。緊張しているのが見て取れるのか、硝子はあたたかい目を向け、短く返事をした。


「硝子!」
「おっと!」


 友人に嬉しさが込み上げてきたらしい。清はガバッと抱き着きながら、もう一度名前を呼ぶと硝子は驚いたように受け止めた。


「五条君といい、硝子といい……人たらしだなぁ」
「タラシた記憶ないけど」
「……二人に貰った分返せるようになるね」


 今まで欲しかった言葉をくれた五条。友だと言葉にして認めてくれた硝子。二人の存在は彼女にとってとても大きいのだろう。目頭を熱くさせた。硝子にとって特別なことをしたつもりがないのかもしれない。彼女の表現に戸惑ったように眉を寄せる。
 どれだけの恩を返せばいいのだろう、と心が嬉しさのあまりに泣いている。でも、言葉に合わらすのは難しいのか。ぎゅっと抱きしめて決意をした。


「…………楽しみにしてるよ」
「うん!」


 抱きしめる強さに、震える手に、硝子は目をそっと閉じてぽんぽんと子供をあやすように撫でれば、元気のいい声が返ってくる。


「へー……僕のいない所で浮気?」
「っ! 五条君!!」


 とても和やかな雰囲気になった時だった。いつも通りのはずなのに、どこか低く、冷たい声が聞こえたのは。
 それに驚き、清はビクッと肩を揺らしてガバッと離れると浮気と言った声の主を呼ぶ。


「そー、浮気。羨ましい?」
「ちょっと、硝子ちゃ……!」
「硝子でいいって言ったじゃん」


 友達との抱擁を浮気と言ってしまうのは語弊がある。なのにも関わらず、硝子は否定することなく、彼女の肩を組んで楽し気に笑った。
 まさか、こんなことになると思っていなかったのだろう。少女は慌てたように硝子を止めようとするけれど、口元に人差し指を添えられる。そして、不敵に微笑んで今言わなくてもいいことを口走った。


「ちょっと待って、聞き捨てならない」
「なれないよ! 急には!」
「さっきは呼べたんだから、大丈夫だって」


 それは当然、五条にだって聞こえている。ピクッと眉を動かして怪訝そうな顔をするけれど、清はそれどころではないらしい。彼を煽る彼女にあわあわとすれば、硝子はニヤニヤとしながら、催促した。


「は? 硝子のこと呼び捨てしたの?」


 二人の会話からすると呼び捨てで呼んでいい、その許可を硝子が出したのは分かったのだろう。しかし、そういうところでは尻込みしてしまう少女がもう呼んでしまった。そういう風に聞こえて仕方ないのだろう。彼にとっては驚くべきことなのか、目を真ん丸にして問いかけた。


「え、う、うん、オッケーもらったから……」
「僕はまだ下の名前ですら呼んでもらってないのに?」


 なんと間抜けな顔だろうか。そんなことを頭の片隅で思いながら、こくりと頷けば、五条は清の手首を掴み、グイッと引っ張る。
 ふてくされてます。
 顔にはそう書かれているような錯覚さえ覚えた。


「え、五条君も下の名前で呼ばないとダメ!?」
「何この落差」


 今日はなんて日だろうか。友人に呼び捨ての許可をもらったと思えば、恋人には下の名前で呼んでもらってないと拗ねられているのだから、そう思うのも無理はない。
 あまりの衝撃に叫ぶと彼は落胆した。もしかしたら、照れながら呼んでくれるとでも思ったのかもしれない。


「恥ずかしいじゃん!?」
「硝子は呼ぶのに僕は呼べないの?」
「うっ」


 ボンッと沸騰したかのように顔を赤くさせて首を横に振る彼女に、イタズラ心が芽生えたのか。はたまた、本気で拗ねているのか。それは定かではないけれど、顔を近付けて真剣な目で問う。
 その目に、彼女は言葉を詰まらせた。押されると弱いのかもしれない。


「てかさ、初めて全部ちょうだいって言ったよね?」
「い、われました」


 手首を握られているけれど、逃げようと無意識に思ってしまったのか。さりげなく後ろに下がろうとするが、彼が見逃すわけがない。離さない、と言わんばかりにまた一段と強く握られると少女は眉を八の字にして頷く。


「名前は?」
「……名前呼びも呼び捨てはしょ、硝子……が初めて、です」
「だよね?」


 サングラスの奥にある目は目を細めて笑ってる。けれど、纏ってる空気は笑ってない。いや、怒ってるわけでもないけど、モヤモヤしているものを抱えているのは明らかだ。
 清は問い詰められ、素直に答える。せめてものの抵抗なのか。目をそらしてはいるが、彼には通用していない。ニコッと笑って首を傾げていた。


「で、でも、……五条君、私のこと嫌ってたじゃん」
「…………」


 困った顔をして告げるそれに何も反論も出来なかったらしい。いや、それどころか、ピシッと固まっている。
 入学当初から四か月くらいは毛嫌いしていた。それを彼女から言われると、何も言えまい。


「…………さとる、君」
「……」


 あのまま黙ったまま。けれど、掴まれた腕は変わらず。困惑したまま、チラッと顔を見上げれば、いささか顔色の悪い彼。薄く唇を開けて息を吸い込むと、聞こえるか聞こえないか分からないくらいの小さな声で名前を口にした。
 その声に、五条は感じる視線に目を向けると照れて頬をほんのり赤く染めた彼女。


「ご、五条君?」
「――……い」
「え?」


 視線は動いても、反応が薄い。やっぱりやめればよかったかな。
 内心、動揺しつつも彼をいつも通りに呼びかけ、顔の前で手を振った。固く閉じられていた唇が、ゆっくり開くと何か呟く。けれど、何を言っているのかがまるで分からない。


「もっかい、呼んで」


 先ほどとは違う顔を見せる五条。いや、表情はいつも通りだ。けれど、耳がとにかく赤い。


「……悟、くん」
「…………」


 清は彼が照れていることが分かったのだろう。ふっと笑いながら、恥じらったように笑ってもう一度、呼んだ。その姿が愛らしく見えたのかもしれない。五条は何も言わずにグイッと引っ張って腕の中へと抱きしめた。


「ちょ、なんで!? 硝子もいるんだからやめて!?」
「もー、いないけど」
「本当だね!?」


 名前を呼んで抱きしめられるなんて誰が想像していただろうか。清は顔を真っ赤にさせて、彼の背中をバシバシと叩いてやめさせようとするが、その腕が緩むことはない。
 同級生がいた場所を指差して伝えると、その通りすっかり姿を消していた。それに彼女は衝撃を隠せないらしく、語尾を強めながら、バシバシと叩き続ける。


「もっかい呼んでくれたら、離してあげる」
「……悟くん」


 なんて姑息な手を使うんだろうか。どっちを選んでも五条が得るものばかりだ。
 上機嫌にニコニコと笑っている彼をじっと見つめ、前者を選ぶ。どうやら、彼女にとって抱きしめられる方が恥ずかしいらしい。
 これで腕から解放される、はずだった。


「もっかい」
「……約束は!?」


 五条はぎゅっと抱きしめて、またもや催促する。最初から約束なんて存在しなかったといっているようなもの。けれど、確認せずにはいられなくて、清は声を荒げた。


「ほら、呼んで」
「〜〜〜……!!」


 常識が通用しない男。それが五条悟という人間だ。
 目を細めて甘い声で強請る。しかし、彼女はキャパシティーオーバーだったのかもしれない。声にならない叫びを上げて必死に胸板を押して逃げようとした。けれど、逃げられるはずもない。
 彼が満足するまでその腕の中で名前を呼び続けたのだった。



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