「ハアハア……ッ、ハア……ハッ、ア………」
まだ昼間だというのに、暗い。曇が太陽を隠してそう見せてるのは必然か。はたまた、ただの気まぐれか。それは分からない。そんな不穏な天気の中、シャランシャランという音が響く。音の元をたどれば、小さな女の子が息を切らしながら走ってる。
それは穏やかな状況でかけっこをしているのではないだろう。表情が非常に険しいからこそ、分かる。
「っ、本当に……もうっ、しつこい……!」
口の中に溜まった唾液を飲み込むと、キッと眉を吊り上げて文句を言い放つのは自身の背後。
彼女の目に映るのは、少女の体の倍もある黒い影だ。影といっても、不思議なことに中心には奇妙奇天烈な顔があるようにさえ見える。それが余計に不気味に見えるが、少女は怯えているから逃げているわけではなさそうだ。
「っ、もう……げん、かい」
女の子は後ろから、自分の足元へと視線を動かす。けれど、足がもつれそうな感覚が分かるのだろう。
顔を歪めて、苦しそうに呟いた。
「あっ!」
土に埋まった石に足を引っかかるとそのままダイブするように倒れ込む。
(もう、……会えない? 約束したのに……)
逃げることしか出来ない自分が悔しいのか、もどかしいのか。女の子は瞳を揺らして小さな手のひらで土を握りしめた。
嘆いても変わることのない現実に、諦めたかのように。少女はギュッと目を瞑った。
「全く……迷惑だね」
覚悟を決めて目を閉じたというのに、不思議と心地よい声が耳に届く。
それに驚いて、女の子は大きな目を開けて息を飲んだ。
「…………」
振り返れば、自分を庇うように立つ青年の背中がある。
彼は上下黒色のジャケットとパンツスタイルをしていたが、少女の目にはとある姿が重なって見えた。
法衣を纏った、長い髪を半分結い上げ、毛先を丸めてまとめた姿が。
「……大丈夫かい?」
ふぅ、と息を吐くとその青年はくるりと振り向いてしゃがみこむと転んだまま動かない子供に視線を合わせた。
眉を八の字にさせると、優しく声をかける。
「――……ん」
少女は唇を震わせながら、何かを言おうとするが、なかなか言葉が音にならない。
音になったのは、とても小さな、言葉というにはあいまいな響き。
「ん?」
「すぐる、くん……」
流石に青年も聞き取れなかったのかもしれない。
こてん、と首を傾げると女の子は瞳を大きく揺らし、先ほどより聞き取りやすい声で呟いた。
絶対的に、少女が知らないはずの彼の名前を。
「……どうして、私の名前を……っ!」
「あ、会いたかった……!会いたかったよぉ……!」
夏油は目を見開いて、聞こうとしたがそれは最後まで言うことはなかった。いや、言えなかった。
小さな少女に勢いよく抱き着かれたことによって。
慌てて、受け止めて横目で様子を見みれば、女の子は目から大きな涙を零していた。
そして、ただ嬉しそうに、縋り付くように言う。
「えーっと……君と私は会ったことがないと思うんだけど」
「……お、覚えてないの……?」
よしよしと、背中を撫でて慰めながらも、彼は確認すると泣いてぐずっていた声がピタリと止んだ。
ゆっくり、抱き着いていた腕を緩めると不安げな顔をして、少女は問う。
「覚えてないというより、初対面……かな」
「……私のせいであなた死んだことも?」
「……どういうことかな」
髪飾りに大きな鈴を付けた女の子を見たことがあれば、印象的で覚えているだろう。でも、頭を捻らせても、記憶にない。困惑しつつも傷つけないように答えれば、少女は顔を青ざめて肩を震わせた。
しかし、女の子の言葉はとても物騒だ。そして、いま生きている人間に言うことではない。ますます理解に苦しむ言動に先ほどまで浮かべていた笑みをスッと消した。
「……本当に、覚えてないの?」
「だから、そういってるじゃないか」
「……」
今にも泣きそうな顔をして聞く少女に苛立ちを覚えたらしい。語尾を強めてはっきりと言えば、女の子は唇を噛み締めて俯く。
(今日は厄日だな)
先程とは違う意味で泣き出す。
そう思うとどっと疲れが出たのだろう。夏油は面倒くさそうなため息を吐き出した。
「…………私を助けるために、あなたは死んだのよ……すぐる君」
ゆっくり顔を上げて言う女の子は彼が思うような顔をしていない。いや、顔どころか声も先程のように幼子の片鱗が消え去った。
年相応に見えない大人びた表情で、悲しそうに微笑みながら、告げる。
「ここは死後の世界とでも言うのかい?」
「いいえ、あなたが死んで千年待ったの」
「……は、」
馴れ馴れしく下の名前を呼ばれるのが癪に障るのか、一瞬顔を歪ませるが、声はどこまでも穏やかだ。
しかし、夏油の疑問は棄却される。それはまるでどこかの御伽噺のように思えてならないのか、ピタッと固まった。
「私はあなたに返したい。そして、返してもらわなきゃいけないの」
けれど、少女は1歩、2歩と後ろに下がると胸元でギュッと手を握りしめ、申し訳なさそうに笑う。
「ーー……君は一体、誰なんだ」
その儚げな笑みに、夏油は苛立ちも嫌悪も忘れてしまったのかもしれない。
頭で考えるよりも先に、声が空気に溶け込んでいた。