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静寂



薙いだ一閃が敵の腕を斬り裂くと、斬り口からは、まるで小さな風船が破裂したかのように勢いよく吹き出た瘴気。

ぶわりと舞った瘴気は黒き靄となって、やがて霧散する。

人為らざる者が、耳をつんざく程の鳴き声を上げた。

彼女は、その一振りのみ刀を振るっただけで、構えを解く。

元より、彼女は脅しのつもりで一閃薙いだだけだったのだ。

しかし、構えは解いても、警戒は解いておらず、相手の様子を窺っているようだ。

右隣にある形で彼女の隣で対峙していた大倶利伽羅は、ふと、目に入った彼女の片目が、自身と同じ金色に煌めいていると気付く。

だが、彼女の反対の目は、髪と同じく黒だ。


「…おい、アンタ…?」


彼が口を開きかけたタイミングで、敵が最後の咆哮を上げた。

それ故に、彼の言いかけた言葉は聞けず終いとなる。


『苦しいか…?辛いか…?そりゃ、そうだろうな…。今まで、ずっとお前が全て抱えてきたんだもんな。でも…、もう良いんだ。お前は、楽になって良いんだ。』


敵の眼前というのにも関わらず、その場に膝を付いた律子。

皆がその行動に息を飲む中、彼女は続ける。


『元々、お前は、此処に居る付喪神達の想いから生まれた者だ。だから、お前が何故この本丸を覆うように瘴気を発していたかは、何となく解る…。皆が居る此処を、この本丸を、お前は守りたかったんだよな…?例え、お前が彼等から生まれた澱みだとしても。』


苦し気に唸り始める人為らざる者。

律子は変わらず、そっと語りかけ続ける。


『でも…、もう良いんだよ。俺が来たから…。俺が呼ばれたから。今度は、俺がこの本丸を守るよ。だから…お前は、もう休んで良いよ?』


サラサラと消えゆく黒き靄。

灰と変わりゆく異形のモノ。


『ありがとう、そして…おやすみ。』


サァ…ッ、と消えていった灰を手に、ゆっくりと腰を上げた律子。

辺りは、漸く静けさを取り戻したようだ。

穢れの大本を浄化された本丸に流れ始めた空気は、今や清々しいものだった。


「ったく…、飛んだ無茶するぜ、アンタ。」
『薬研…。』
「何だ、既に知っていたのか。なら、紹介する手間が省けたってもんだな。ところで…、アンタも傷だらけじゃねぇか。人は脆いんだろ?なら、早く手当しねぇと……って、オイ、聞いてるか…?なぁ?」


すぐ側まで来ていた彼と会話していると、今まで張り詰めていた全ての緊張が、本丸の危機を脱したのだと理解した途端に解け、何とか保っていた状態の意識が揺らぎ始める。


「ちょ…っ、大将…!?大丈夫か!?」
『ご、め…っ、もう、保ってられな………っ。』


全身の力がずるりと抜けた瞬間、倒れそうになる律子。

それを支えたのは、意外にも、先程まで闇堕ちしかけていた大倶利伽羅だった。


「栗原様ァーッ!!」
「…それが、コイツの名前なのか…。」
「あ、いえ…名前ではなく、正しくは、姓かと…。」
「ふん…っ、そうか…。」
「あの…っ、それで、栗原様は…っ!」
「あぁ…、単に気を失っただけだ。別に、命に問題はない。」
「左様ですか…っ。はぁ〜…、良かった…っ。一時はどうなるかと…。」


彼女の命に別状はないと知ると、安堵の溜め息を吐く管狐。

へなへなと力が抜けたように、その場に身体を伏せた。

そんな管狐を放って、咄嗟に支えた状態だった彼女を抱え直し、スタスタと先を歩き始めた大倶利伽羅。

未だ、緊張の解けない者達は、それを呆然と見遣り、眺めた。


「おっ、おい、旦那…!ソイツは怪我人だぜ!?早く手当しないと…っ、」
「解っている…。だから、こうして部屋へと運んでやってるんだろう?」
「彼女を運ぶなら、元々使われていたあの部屋…審神者部屋だね?彼処は、たぶん、まだ穢れが残ったままの状態だから、一度浄化する必要があるね。私が手を貸そう。」
「頼む…。」
「それと、君も…用が済んで、手入れ部屋が空き次第、手入れに向かうようにね。」
「……俺は、別に…。」
「怪我を負ったままでは、起きてきた時、彼女が悲しんでしまうよ?」
「………ふん…っ、勝手にしろ。」
「ふふ…っ。以前に変わらず、君も素直じゃないね?」


クスリと笑みながら石切丸より言われた言葉には返さず、代わりに、しっかりと彼女を抱きかかえ、迷いない歩みで先を進む大倶利伽羅なのであった。


「…やっと終わったのか…。」
「今更だが…何で、この本丸に見知らぬ人の子が居るんだ?」
「…あの子、大丈夫かな……。」


漸く、戦いを終えたのだと理解した者達は、ゆるゆるりと怠く重い身体を動かし始めた。

ある者は、動けなくなった者達に肩を貸し。

また、ある者は、あちこちに散らばった瓦礫を片し。

また、ある者は、ぼんやりと先程まであった戦いを思い出していた。

そんな中の一振りが、瞳に不安気な色を浮かばせ、彼女が去っていったであろう先を見つめていた。


「……何で今、この本丸に来たのか…。何で、俺達と一緒に戦ってくれたのかとか…、訊きたい事、山程あんだよね…。お願いだから、こんな事だけで、簡単に死んでくれないでよね…。人が、何れだけ脆いのかは知ってるけど。」


彼にしか聞こえない声量で、ポツリと零された言葉。

その言葉の節々には、並々ならぬ想いが滲み出ていた。

彼が零した言葉は、誰にも聞かれる事なく、平穏を取り戻し始めた空気に流れて消える。

ふと、視界の端に映り込んだ物に、歩んでいた足を止める。

瓦礫の上に掛かるようにしてあった物を拾う。

彼が手に掴んだ物は、少し薄汚れた白い布だった。

彼女が面として使っていた物である。

戦いの最中、気付かぬ間に、いつの間にか外れてしまっていたようだ。

面には、まだ、微かに彼女の残り香が残っていた。

彼は、それを痛く辛そうな表情で握り締めると、胸元へ大事そうに当てる。

そして、他の者達と同じように、それぞれのやるべき事をする為に、そちらへと向かう。

紅き襟巻きが、名残惜しげに揺れ、その場を後にした…。


―あれから、数日が経った。

荒れ放題だった本丸内は、徐々に片付き始めており、靄の残滓や留まっていた穢れは、殆どが浄化されつつあった。


―ピチチチチ…ッ。


庭の木の枝に留まった鳥が、軽やかに鳴いた。

清らかな優しい風が、部屋の中へと吹き込んでいる。

さらり、と眠る彼女の髪を撫でた。

ふいに、震えた目蓋。

やがて、ゆるゆると開かれた瞳は、緩慢な動きで瞬きを繰り返す。


『………………?』


未だ、完全には覚醒しきれていない頭が、目が覚めたばかりで疑問符を浮かべた。


(……知らない天井…。しかも、広い……何処、此処…。)


寝起きの思考が、眠ってしまう前の記憶を辿ろうと、ゆっくりと思考回路を繋ぐ。

バラけてしまったパズルを再構築するが如く、記憶を思い出す。


(あ…。そういやぁ、私…よく解らん奴相手に戦ってたんだっけ……?よく生きてられたなぁ…私。普通なら、死んでたよね…。)


薄ぼんやりと思い出した記憶に、そう考えていると。

ふと、顔に影が出来て、視界に何かが映り込む。


「―あ…。気が付いた?おはよ。気分はどう…?身体動かせそう…?」


昨日、戦いの最中に見た人だ。

確か、“何でこんな所に人の子が居んのー?”とか、どーとか言ってた人だと思う。

未だ、寝惚けた頭で上手く働かない思考に、何だか、昨日の事は全て夢だったのではないかと思え始めてきた。

しぱしぱと寝惚け眼を擦り、半目を瞬かせて、目の前の顔を見つめ返す。


「おーい、ちょっと起きてるー?力尽きて倒れて気絶しちゃったのは仕方ないけどさ、この状況で二度寝しないでくんないかなぁ〜…?二度寝されると、俺が困るんだけど…。」
『……んゔぅ゙…っ。まだ寝てたいです…、眠い……っ。』
「いやいや…、そういう問題じゃないから…。ってか、よくこの状況下で寝れるね。」
『…ゔーん………っ。』


全身に強烈な怠さと虚脱感を感じて、ただ唸りを上げながら、起きるか起きないかを繰り返すように、夢の淵を行ったり来たりしていた。

すると、此方の顔を覗き込んでいた頭が、一度引っ込んだ。

「あ、寝ても良いんですね。」と、勝手に解釈した律子は、うとりと舟を漕いでいた思考に身を委ねようとした。

そしたら、また別の頭が視界に入り込み、此方を覗き込んできた。


「あ…っ!めがさめられたんですねっ!!おはようございます…っ!」
『…!』
「よかった…っ!ぶじにめがさめて…っ。ふつかもめがさめなかったので、もうさめないのではないかと、しんぱいいたしましたよ…!」


それは、律子がこの本丸に来てすぐに出逢い、倒れていた身を抱きかかえ走った、彼だった。


執筆日:2017.09.24