今日中に書類を提出するべく、執務に励んでいた律子は、突如として、その集中を切らした。
それは、空腹に堪え兼ねたお腹が音を鳴らした事によるものだった。
人間、空腹と気付き、自覚し始めると、途端に集中力が途切れるものである。
彼女もその範疇で、それまでずっと動かし続けていた筆が止まり、筆置きに置かれる。
ばたりっ、と急に身体を後ろに倒すと、気の抜けた声を漏らした。
『うぅ…っ、お腹減ったぁーっ!』
うにゃーっ!と両腕を天井へ突き上げると、途端にばたりと下ろして脱力したように寝転がる。
そして、ふいに顔を上げて襖の方を見遣ると、出入口付近に置かれたお握りを乗せた皿が目に入った。
(あ……っ。そういや、飯…頼んで作ってもらってたの忘れてた…。)
のそりと身を起こすと、怠い身体を引き摺って、四つん這いで皿のある元まで這っていく。
『お握りだけやなく、沢庵まで添えてくれとる…。マメやねぇ…あの子等は。』
一緒に置かれていたお茶の入った小型ポットを手にして、空になっていたマグカップへと注ぐ。
それを口にしてから、まじまじと皿の上にあるお握り二つを眺める。
『お握り…両方同じ形やに、大小サイズはバラバラやんなぁ…。きっと、ちっさい方が清光で、おっきい方が光忠かな?二人して、私ん為に一生懸命作ってくれたんやろうなぁ…っ。感謝して食べねばねっ。』
何だか擽ったい気持ちになりつつ、そう呟いた律子。
紙と彼女一人しか居ない部屋は静かで、誰もそれを聞く者は居ない。
『後で、二人に御礼言っとかんとな〜…っ。二人がまだ寝てなかったらだけど。』
そう言って立ち上がると、作業をする机の側に皿を置き、握り飯を一つ掴んで、包んでいるラップを外して食べる。
『あ…っ。これ、鮭入ってる…。ウマ…っ。』
もぐもぐと口を動かしつつ、再び筆を取って、本名である実名の“花江律子”の名を書き記していく。
一枚書いたら、また次の一枚へ。
お握りを、作業の片手間に一口、また一口とかじっていく。
(俺の好きな鮭がいっぱい入ってる…。嬉しい…っ。)
作業をしながらも、口元はゆるゆると緩んでいる。
先程までとは違い、気分も軽く、筆乗りも柔らかい。
それまでは、早く終わらさねばと神経を尖らせまくっていたせいで、余計に肩に力が入っていたのである。
御飯を食べれたという事もあって、幾分、落ち着きを取り戻したのだろう。
死んでいた瞳にも、元気な光が戻りつつある。
そのまま、作業は続けられ、時折食べる手を休めては書類に没頭し、再開しては、もぐもぐと口を動かした。
延々と同じ作業をしていると、眠気が襲いかかってきたりもするが、何かを食べていたりすれば、気も紛れる為、丁度良いのである。
一つ目の握り飯を食べ終え、二つ目の握り飯に手を伸ばし、かじり付いた律子は、はたと気付く。
『んぐ…っ?これ、お肉入ってる…?しかも、きちんとお野菜まで…!』
焼き肉のタレで味付けされた味が、良い具合に食欲を刺激して、はぐはぐと食べ進める。
『うんっまい…っ!』
疲れた頭や身に染みていくようで、染々と感動する律子。
清光が作ったのであろうお握りよりも、ちょっと大きめに作られているのも、また良い。
作業の片手間でありながらも、こんなに美味しい御飯にあり付けて嬉しい彼女は、感動のあまりに涙していた。
(流石、みっちゃん…っ!よく解ってらっしゃるよ…っ!!)
うむうむと一頻り頷くと、あっという間にペロリと完食したお握り。
あとは、お口直しにぽりぽりと沢庵を摘まむ。
そうして、作業の片手間の食事を済ますと、改めて気合いを入れ、書類へと向かい始める。
『おっしゃあ…っ!ギア上げてくぜ…っ!!』
更に加熱した様子で、書類を片しゆく律子。
そんな調子で、また暫くは、作業に没頭したのだった。
―それから数刻…。
あと少しという量になってから、一度手を止めた律子は、ふと席を立った。
お茶を飲もうとして、ポットを傾けたが、空になったようだった。
おかわりを貰いに行くついでに、皿も下げてこようと、腰を上げて、部屋を出る。
久し振りに出る部屋の外の空気は、深夜に近い時間だからか、少しひんやりとしていた。
だが、部屋に篭りっ切りで書類漬けになっていた律子からしてみれば、十分澄んだ空気で心地好かった。
気分転換がてら、ゆったり廊下を歩いて厨へと向かっていると、何故か、誰も居なさそうな時間の厨から、光が漏れている事に気付いた。
何だろうと思い、そろりと顔を覗かせると、よく見た背中があった。
『光忠……?何やってんの…?』
「え…っ?あ、主…っ!?」
まさか彼女が現れるとは思っていなかったのか、吃驚した様子で振り返り、目を見開かせていた。
「ど、どうしたの…っ?書類片付けてたんじゃないの…?」
『お茶無くなっちゃったから、おかわりを貰いに…。ついでに、お握りの皿下げに来た。』
「それなら、呼んでくれたら良かったのに…。ちょっと待って、今足してあげるから…!」
蛇口の水を止めると、ぱたぱたと急いで手を拭き、此方にやって来る光忠。
まだ驚きが抜けないのか、緊張した面持ちだ。
『光忠は何やってたの…?』
「僕達が食べた食器の後片付けだよ。僕達だけ、皆とは少し外れて食べちゃったからね。」
『そうだったのか…。何かごめんな?そんな片付け中に…。』
「良いんだよ。主は今大忙しなんだから。ところで、書類の進み具合はどう…?今日中には終わりそう?」
『うん…っ!急ピッチで進めてったおかげで、何とか日付変わる前にはギリギリ提出出来そう。これから戻って、ラストスパートってところかな。』
「それは良かったね…!はいっ、このお茶飲んで、残りのお仕事も頑張ってね!僕、大した事は出来なかったけど、応援してるから…っ!」
『ありがとう、光忠。十分助かってるよ。お握り、凄く美味しかった!おかげで、やる気も出て、めっちゃ書類進める事が出来たわ!わざわざ俺の為にありがとねっ。ところで、清光は…?清光にも、御礼言おうと思ったんだけど…。』
彼を探してか、キョロキョロと首を動かす彼女。
しかし、目的の彼は、此処には居ない。
「嗚呼、加州君なら、今お風呂に行ってるよ?後片付けは僕がやるから、先に入ってきてって言って、入ってもらったんだ。」
『そっか…。そりゃ、残念。後で言おうにも、ちょっと手が離せなくなるしな…。悪いけど、清光に伝えてもらっても良いかな…?“お握り、凄く美味しかった!ありがとう”って。』
「オーケー!任せてよっ!彼が戻ってきたら、ちゃんと伝えるね?」
『うん。それじゃ、頼むわ。』
そう言って、お茶のポットを受け取り、くるりと方向転換すると、出口の方へ歩き出す。
冷蔵庫から出した麦茶を仕舞っていると、ふいに、もう去ったと思っていた筈の律子から声がかかった。
不思議に思った彼は、顔を上げ、出口の方を見遣る。
「どうしたんだい?主…。まだ何かあるのかな…?」
『あーっと…、ちょっとしたお願いなんだけど…。さっきのお握りの残りって、まだ残ってたりする…?』
「えぇっと、あるにはあるけど…?余った御飯で作った小さいヤツなら…。それが、どうかした?」
『えっと…めちゃくちゃやる気が出る程美味しかったので、まだあるなら、もう一個食べたいなぁ…って思って。』
「…!勿論だよ…っ!!寧ろ、主の為に作ってたからね!どうぞ、食べて?」
小さく控えめな声で残りは無いか?と問うてきた彼女に、光忠は、それはとても嬉しそうに顔を綻ばせて頷いた。
嬉しさ余って、桜の花弁を舞わせる程である。
「主にそんな気に入ってもらえるなんて、嬉しいよ…!さっき渡してたお握りよりは、少し小振りかもしれないけど、中身は大きめなお握りと一緒のお肉だよ。」
『あっ、それマジで美味しかったヤツだ。お野菜もきちんと入っててさ、焼き肉風味でたっぷり具として入れたあったから、凄く嬉しかったよ。』
「ふふ…っ、それ、僕が作ったんだ。喜んでもらえたようで何よりだよ!」
残っていた余り物の御飯で作られた小さなお握り。
サイズは小振りで、掌に乗る程だが心は先程の物と同じくらい込められている。
それを、大層大事そうに抱えて笑む律子。
光忠は、そんな彼女の表情を眩しそうに目を細めて見つめた。
『ありがとう。これ食べて、残りのラストスパート乗り切るよ…っ!』
「うんっ、頑張ってね、主!」
『おう…っ!光忠も、やる事終わったら寝るんだぞー?俺の事は待たなくて良いからなぁーっ!』
そう言い残して、元気になった彼女は駆け足で厨を出ていった。
入れ違いで、反対方向から来たのだろう長谷部が、彼女の走っていった方向を見やりながら厨へと入ってくる。
「今のは主か…?」
「うん、そうだよ。お茶のおかわりをもらいに来てたんだ…っ。書類の件なら、今日中に何とか終わらせれそうだって。」
「そうか…。それは安心だな…。一応、加州が、締め切りを明朝ぐらいまでに引き延ばせないか、こんのすけに問い合わせていたんだがな。必要なかったか…。」
「そうだったの…?それは知らなかったな…。」
「しかし、本来の締め切りは今夜日付が変わるまでだ。それまでに終わらせる事が出来るなら、その方が良い…。それより、その花弁は何だ?」
「え……っ?これは、ちょっと、まぁ…っ、良い事があったというか……っ。」
そう答えながらも、問われた事で、ちらほらと再び舞い始める桜の花弁。
訳の解らない彼は、首を傾げるのだった。
執筆日:2018.01.17