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優しさ



結局、軽く水を浴びる事にした彼女が風呂場から出てきたのは、大分時間が過ぎてからの事だった。


(思ったよりも時間かかっちゃったな…。こんのすけ、待たせちゃってるかな…?)


濡れた頭を触りながら思う律子は、静かに廊下を歩く。

その先で、手入れ部屋から出てきたばかりの光忠とばったり逢った。


『光忠…!目が覚めたんだな。もう良いのか…?』
「うん、おかげさまで。すっかり良くなったよ。手入れしてくれてありがとう、主。」
『お前が元気になったのなら、それで良いよ。』
「でも、君を泣かせてしまった…悲しい思いをさせてしまった…。それだけは謝りたい。ごめんね、主…。今はまだ弱くて錬度も低いけれど、すぐに強くなってみせるから、もっともっと格好良くなる日を待っててね!」
『はは…っ、光忠らしいや…。別に気にしてないから良いんだけどね。戦に出れば、怪我するのなんて当たり前なんだから、帰ってきた皆がボロボロな時だってある。解ってはいたんだけど…いざ、実際に見たら吃驚しちゃって、頭真っ白になっちゃった…。でも、理性だけはちゃんと動いてくれて良かったよ。おかげで、混乱した中でも、しっかりと指示を出す事が出来た。次は、あんまり動揺しないようにする事が課題かな…?』


あまりにも明るい口調で話すものだから、調子が狂うかと思われたが…彼女の顔色や固くぎこちない表情をよく見れば、無理をしている事が解る。

その事に驚いた彼は、目を小さく見開いた。


「主…。」
『ん…?どうした?』


彼女から返ってきた反応を見るに、言いたくないのであろう。

恐らく、訊いたとしても、はぐらかすなりなんなりで誤魔化され、きっと教えてはくれないだろう。

なら、無理には訊かない方が良い。

彼女が、自然と口を開いてくれるのを待とう。

そう考え直した光忠は、口にしかけた言葉を飲み込み、別の事を問いかけた。


「…ううん、何でもない。それより、主の髪、濡れてるけど…お風呂でも入ってきたの?」
『え…?嗚呼、これ…光忠や皆を血に汚れるのも構わず運び入れた時に、気付かず髪にも付いてたみたいでね。先に話をしたりしてたから、落とすのが遅くなっちゃって…。カッピカピに乾いちゃってたから、なかなか落ちなくてさ。仕方なくシャンプーするついでに、軽く汗も洗い流してきたんだよ。ついさっき出てきたとこだったから、まだ濡れたままだったんだ。』


そう言いながら、濡れた髪を一房掴み、ユルい笑みを浮かべてはにかむ。

まだしっかりと水気を拭き取れていなかったのか、肩へ下ろした髪の毛先からは滴が落ちていた。

長い髪故に、このまま放置していては身体を冷やし、風邪を引いてしまう。

湯上がりという事もあり、湯冷めしてしまっては、それこそ風邪を引き兼ねない。

内心で一つ頷くと、彼は空いていた距離を詰めて、彼女に歩み寄った。


「髪、濡れたままだと風邪引いちゃうよ…?僕が拭いてあげるから、タオル貸してごらん。」
『え…っ!?い、良いよっ、別に…!髪拭くくらい自分で出来るし、そんな子供みたいな事…っ、し、してもらわなくても良いよ…!光忠だって今起きてきたばっかだし、病み上がりなんだから、安静にしとかなきゃ…っ!!』
「髪を拭くくらい、大した労働じゃないよ。それに、早く拭かないと君の身体、せっかく温まってるのに冷えちゃうよ?滴も垂れて服が濡れてるし、廊下も濡れちゃう。」
『ぅ゙…っ!』


大人になってまで髪を拭かれる事を恥ずかしがる律子は、光忠からの申し出を突っぱねた。

しかし、めげなかった彼も、食い下がってくる。

痛いところを突かれた律子は、思わず言い淀んだ。


「うーん…そんなに駄目なのかい?僕は、今日一日頑張ってくれた君をちょっとだけ甘やかしてあげたいなって思っただけだったのだけど…。」
『いや、駄目って事ではないのだけども…単純に恥ずかしいっていうか…っ。大人になってまで子供にするみたいな事されるのは、ちょっと抵抗があるっていうか…!』
「…それとも、そんな些細なちょっとした事も頼めない程、僕は嫌い…?」


どうしても拭きたいのか、彼は下手に出る事にしたようで、少し意地悪だか狡い言葉を選んで言った。

こう言えば、半ば無理矢理にでも了承を得られるし、頷いてもらえると思ったからだ。

すると、案の定、そんな言葉を言われると思っていなかった彼女は瞠目し、一瞬言葉を詰まらせ後にすぐに否定の言葉を返した。


『っ…、そんな事ない…!光忠の事、嫌ったりなんてしてないよっ!!』
「それなら、良かった…っ。じゃあ、君の髪の毛、僕が拭いても良いかい…?」
『ぅぐ…っ、そうまでして拭きたいのなら…どうぞ。』
「ありがとう。君は本当に優しいね…。」


数分の応酬の後、彼の変に熱いやる気に満ちた思いに押し負けた律子は、仕方なしに首に掛けていたタオルを手渡した。

それを受け取った彼は、嬉しそうに柔く微笑んだ。

優しい手付きで、わしわしと頭を拭かれる。

髪が目の邪魔にならないよう、自然と目を閉じた彼女は無意識だ。

綺麗に閉じられた目蓋に、睫毛が揺れる。

普段はあまり見られない無防備な状態に、気を許されているんだな、と光忠は少しばかり愉悦感を感じながらも苦笑した。


「少し力が強いとか、痛かったりとかはないかい…?」
『ん、大丈夫…痛くないよ。寧ろ、丁度良くて、凄く気持ち良い。』
「それは良かった。君にそう言ってもらえて、安心したよ。さっきのは、ちょっと意地悪な言い方しちゃったからね…。気を悪くしてたら、ごめんね。」
『何だい、それ…っ?あそこまで押せ押せで、“めっちゃ拭きたいんです!だから拭かせてください!!”って感じだったのに。急に潮らしくなっちゃうなんて…っ。』


彼の態度が面白かったのか、クスクスと小さく笑みを漏らす律子。


「…そんなに僕の態度可笑しかった…?」
『いや、可笑しいって程じゃないんだけどね…?ちょっと、…ふふ…っ。』


堪え切れないのか、言葉の途中でも笑みを零した律子は、口許に手を当てた。

彼女は、まだクスクスと笑っている。


(理由は何であれ…彼女を笑わせる事が出来たなら、それで良いや。)


笑いが零れた事で、先程まで張ってあった緊張の糸が解けている。

おまけに、笑った事で、血の気を失っていた顔色も血色が良くなり、赤みを取り戻したようだ。

やはり、彼女には涙よりも笑顔が似合う。

彼女の笑みに見惚れて止めていた手を、再び動かし始め、髪の毛の水気を取る。

暫く互いに笑いながらも拭き続け、大方拭き終えたくらいで頭からタオルを退けた。


「大分水気も取れてきたね…。よし、これくらいで良いかな?軽く髪型を整えてあげるから、ちょっと待っててね。」


目を瞑ったままの彼女は、コクリと頷く。

髪を拭いた事でぐしゃぐしゃになってしまった髪型を、手櫛で簡単に整えて見映えを良くする。

部屋に戻ったらドライヤーで完全に乾かしてしまう為、また崩れてしまうのだが、部屋に戻るまでの道中であっても見た目を気にする彼は、少しでも綺麗にしたいようだ。


「君の髪の毛はサラサラだね…。きちんと手入れされいるのか、艶もあって指通りが良いよ。おまけに、猫毛なのかな…柔らかい髪質をしてるね。何だか、本物の猫の毛を撫でているみたいだ…。」


整えるついでに髪に触れながら、そう呟いた光忠。

優しげに細められた目には、純粋な慈しみが覗いていた。


「はいっ、もう良いよ。髪を拭かれるだけっていうのも、疲れちゃったよね…?お疲れ様。後は、部屋に戻って、ドライヤーで乾かそうか。」


整え終えて、そう告げたが…彼女からの返事は無い。

何も返ってこない事に首を傾げた彼は、再度声をかける。


「主…?終わったよ…?目、開けて良いよ?」


またしても返事が無かったので、顔を覗き込もうとした瞬間、ふらりと自身の方に傾いた彼女の身体。

「え?」と思った時には、ぽすりと自身の身体に寄りかかっていた。

ずるりと崩れかけた身をそっと抱えて支えてやれば、彼女の身はすっかり力が抜け切っている事に気が付いた。

見れば、すぅすぅ…っ、と静かな寝息を立てている。

どうやら、目を瞑っていた事で、髪を拭かれる心地好さに眠ってしまったようだ。

皆の手入れやら何やらで力を使い、肉体的にも精神的にも疲れていた事もあるのだろう。

すやすやと安らかに眠る彼女は、気持ち良さげだった。


「余程疲れてたんだね…。昨日も、あまりよく眠れていなかったようだものね。お疲れ様…。今日はもう無理しないで、ゆっくり休んで。」


力の緩け切った身体をしっかりと抱え直し、持ち上げる。

彼女を起こさないよう、揺れが少ないようにと意識しながら、静かに廊下を歩いていく。

部屋に着けば、話の後も心配で残っていた歌仙等とこんのすけが居た。

彼等は、光忠の手で運ばれてきた彼女の姿を見て驚いていた。


「あ、主様…っ!?い、一体何が…!?」
「もしかして、また倒れてしまったのかい…っ!?やっぱり、無理していたんだね…!だから、あれ程言ったのに…っ!!」
「しぃー…ッ!静かに…っ!せっかく眠ってるのに、起きちゃうよ…っ。」
「…眠って、る…?」
「おい、燭台切…どういう事なんだ?説明してくれ。」


彼女が腕の中に居る状況が解らず、焦って騒ぎかけた彼等を光忠は小声で宥めた。

未だ手入れ部屋に行かずに彼女の事を待っていた山姥切が、彼の言葉を繰り返して首を傾げる。

同じく首を傾げ、顔を見合わせた長谷部は、言われた通りに声を縮めて問うてきた。

何故、彼等が主の部屋に居るのか、一瞬解らなかったが、意識を失う前の彼女が“話をしていた”と言っていた事を思い出す。

たぶん、その後も、彼女の事が心配で部屋を出ずに残っていたのだろう。

それでか、と自己的に解釈し、納得する。


「大丈夫。彼女は、今日色々あった事で疲れて眠っちゃってるだけだから、安心して?どうしてこうなったかは、ちゃんと順を追って話すから…まずは、彼女を布団に寝かせてあげてからにしようね。」
「あ、嗚呼…っ、それもそうだね…!隣が寝室だったから、其処に布団を敷いて寝かせてあげようか…っ。」


パタパタと急いで隣の仕切りの襖を開け、奥の押し入れから布団を引っ張り出しに行く歌仙。

オロオロと戸惑うばかりの山姥切に対し、身体の具合も全快している長谷部は、主の為と積極的に彼を手伝いに動いた。

その最中、何も出来ないでいたこんのすけは、ただひたすらにグルグルと光忠の足元を回り続けていた。

この間も、また、部屋まで運んでいた最中の腕の中の律子は、ぐっすり寝入っていてあどけなく、大層愛らしかったという。


執筆日:2018.06.01