震える声でつんざ




稀血の娘を攫った。

小生の敷地内の奥深くへと連れ、押し込み、放る。

少し弱らせた後、その血肉を喰らう。

其れが鬼となった小生の力となるのだ。

小生は必ず遣り遂げなければならぬ。

そして、また十二鬼月へと戻るのだ…!

その為には、今よりもっと人の血肉を喰らう必要があった。

出来るならば稀血の者が好ましい。

稀血を喰らえば、数を喰わずとも手っ取り早く力を手に入れる事が出来る。

捕らえた娘が何れだけ泣き叫び暴れ様が構いはせぬ。

全ては十二鬼月へと戻る為。

お前は小生の贄となるのだ。

他の鬼に盗られぬ様、己の部屋へと押し込み転がせば、娘は小さく悲鳴を上げて縮こまった。

転がした拍子に、無造作に部屋に散らばっていた原稿用紙が数枚舞い上がる。

クシャリ、とした音に躰を起こした娘は、何やら書き物の紙を自らが敷いてしまっていた事に気付いたのか、慌てて其れ等から自身を遠退ける様な反応を見せた。

どうせ、この娘もただの紙だと思ってそのままで居るかと思っていたのに。

思ってもいなかった意外な反応を見せた事に、小生は内心狼狽えながらも様子を窺った。

すると、娘は、まるで大事な物が転がっているのを慌てて掻き集める様にして忙しなく部屋の中を動き回り、部屋中に散らばっていた原稿用紙の全てを拾い集めてみせた。

そして、其れを小生の前まで持ってくると、きちんと揃えた束状で手渡してきた。


『はい、どうぞ鬼様。』
「……何故、其れを拾った…?」
『え……っ、ひ、拾っては駄目だったのですか…?も、もしや、私などが触れてはならぬ程大事な物だったのですか?そっ、其れは申し訳ございません…!い、い今すぐ元の状態に戻します故、お許しください…っ!』
「…いや、元に戻さずとも良いが……お前から見て、其れは何だと思う…?」
『え………?此れは…鬼様にとって、何か大事な物を書き綴った物だったのでは…?』


確かに、其れは紛れもなく小生にとって大切な物であった。

その事を、此れ迄理解してくれた者など一人も居らず、娘が初めてであった。

小生は今からこの娘を我が願いの為に生け贄としようとしていた筈であるのにも関わらず、不思議な心地を抱きながら娘に問うていた。


「…娘よ、御主の名前は何と言う?」
『え…っ、な、名前ですか…?私の名は、律と申します…。えっと…、差し支えなければで良いのですが、鬼様のお名前を窺っても…?』
「…小生の名は、響凱。」
『“キョウガイ”……素敵なお名前ですわ。鬼様にぴったりな響きです。』


攫った人間の名を訊くのも初めての事であったが、己の名を名乗って褒められた事も初めてで、ただただ困惑するばかりだった。

小生が戸惑っている内に娘はきょろきょろと部屋の中を見渡し、文机を見付けると、其処に置いてあったまだ白紙の紙を見付けて小生の方を振り返り、こう言った。


『せっかくですわ、どんな字で書くのか教えてくださいませんか?私、とても気になりますの。』
「しょ、小生の名前如きをか…?」
『あら、人様の名前だからこそですわ。名前は、その人を表す短い言の葉…一番大事な大事なものです。だからこそ、どんな字で書くのか気になって仕方がないのです。』


娘はそう言って小生へと微笑みを向けた。

今から喰われるかもしれぬという状況なのに、この娘は他と変わっていた。

始めこそ小生を恐れ怯える様子を見せていたのが…気付けば、己の名を訊いたりなどしてきていて、然も現実の事など忘れているかの様だった。

娘に促されるまま、小生は筆を取り、白紙の原稿用紙のマスに己の名を書き記した。

すると、娘は嬉しそうに顔を綻ばせてその紙を覗き込んだ。


『まあっ、立派なお名前ですわ!響きからしても素敵なお名前でしたが、改めて字を見てもとても素敵な名前だと思います…!ふふふ…っ、こんなに素敵な名前だったと知れて嬉しいです。』
「…小生は鬼なのだぞ?今から御主の事を喰らわんとする輩の名など訊いて、恐ろしくはないのか…?」
『…確かに、殺されてしまうのは怖いけれど…貴方様がとても優しい鬼でしたので、このまま貴方様に喰われてしまっても構いません。……どうせ、私は家に不要の身、居ても居なくとも良い存在なのです。今、鬼に喰われたとて、誰も悲しんでくれる者など居りません。――ですから、せめて死ぬのなら、貴方様の様なお優しい方に看取って頂けたら本望ですわ。』


何とも物悲しい目をした娘だった。

小生は、その目を知っていた。

何もかもに絶望し、未来など望めぬ者の目だった。

しかし、自身の大事な想いだけは諦めぬ者の顔だった。

娘は、小生によく似ていた。

似ていた故に、このまま無惨に喰い殺すのも躊躇われて、ついその日喰らう事をやめてしまった。


『あの……響凱様、とお呼びしても宜しいですか…?』
「……好きにしろ。」
『はい…っ、響凱様。――どうぞ、お好きな時に私を食べてくださいね。』


娘はそう告げた後、小生が書いた名の隣に自身の名を書き連ね、“私の名前はこう書くんですよ”と宣った。

変わった娘だった。

喰らう予定で攫った娘――律は、数日の間だけ、小生の下で過ごした。

律と言う娘は、貧しい家の者だった。

其れ故に贅沢は出来ず、好きな事すらさせてもらえぬ家だったと口にした。

律は、小生と似て、物書きになるのが夢だったのだそうだ。

憧れの作家の本を何時も懐に入れ持ち歩く程本を読むのが好きらしく、小生が小説なる物を書いていたのだと知ると、大層喜んで作品を読ませてくれと強請った。

皆に下らぬ、面白味も何も無いと酷評された物を、読みたいと言ってくれた。

小生は鬼になって初めて人に書いた物を見せた。

律は、部屋の片隅に座り込んで、朝から晩まで真剣になって読み耽った。

そして、読み上げた後、律は丁寧に紙を束に揃えて返してきた。


『有難うございました…!とても素晴らしい御話でしたわ!』
「…面白かったのか?」
『はいっ、とても…!死に前にこんな素敵な物語を読めるだなんて、私は幸せ者ですわ…っ!この御話がご本となる前に死んでしまうのは、些か残念でなりませんけれど…読めただけでも十分ですわ。……あの、他にもまだ御話はありませんの?もし、響凱様さえ良ければ…他の御話も読んでみたいです。』


そう言って、律は小生が書いた話を望んだ。

此れ迄書いてきた物全て見せてやった。

そして、その何れもがただ表面上だけのみ批評され、最後まで真剣に中身を読む者など居らず、誰にも認められなかった事も話した。

其れを聞いた律は、大層憤慨して怒りを露にした。


『こんなにも素敵な御話達ですのに、誰も分かってくれないだなんてあんまりですわ!その上嘲り罵るだなんて…っ、失礼極まりないです!響凱様が怒っても当然ですわ!!そんな酷評する男、さっさとおっ死んでしまえば良いのです…っ!!』
「そ、そんな風に言ってきた奴はお前が初めてだ…っ。」
『今まで誰の目にも留まらなかったという事実にも私は気に食いませんわ…!どうしてこんなに素晴らしい御話を誰も読んでくださらなかったのか、私にはてんで理解出来ません!どんな御話であろうと、その作品には作者の気持ちが沢山込もっておりますのに…っ、其れを分かろうともせずに“下らない”と一笑する方はきっと見る目が無いのですわ!そんな方の評価など気にしなくて良いのです!!響凱様の御話は、決して下らなくなんてありません!!自信をお持ちになって、続きの御話を書いてくださいませ…っ!そして、何時か私に読ませてくださいね!』


小生は初めて励まされた。

初めて認められた気がした。

初めて、小生の書いた話を受け入れてもらえた様だった。

小生は此れ迄の苦労が実を結んだ様で嬉しかった。

久し振りに笑えた気もした。

律は、小生が鼓にも精通しているのだと知ると、子供の様にはしゃいで小生の叩く音を聴かせてくれとせがんだ。

鼓に至っても、律は他とは違う評価をしてくれた。

自分は楽器に触れる事さえ許されなかった身だからと、ずっと憧れていたのだと言う。

小生は、幾許かの間だが、律に鼓の叩き方を教えてやった。

律は其れを嬉しそうに聞き、自分で叩いてみてはころころと鈴の音の様な笑い声を上げて笑った。

その様はとても愛らしく、歳相応であった。

律は、小説だけでなく、小生の鼓の音も喜び好いてくれた。

喰らうには惜しい娘だった。

故に、稀血であろうと、このまま生かし、生涯の伴侶にでもしようかと考えていた。

そんな折である。


―別の稀血を探す為に部屋を空け、律を一人敷地内の奥に隠し置いてきた筈であったのに…。

戻ってきたら、他の鬼がまた勝手に入り込んできたのか、小生の部屋にまで入り込んだらしく、部屋の中は荒れ果て――、朱に染まった律の骸が転がっていたのだった。


「律……ッ!!」


小生は慌てて捕まえた人間を放り捨て、律に駆け寄った。

律は既に虫の息であった。

血塗れになりながらも、小生の書いた小説だけは守ろうと、血に汚れぬ様に咄嗟に物陰に仕舞い込んだのだろう。

近くにクシャクシャとなってしまった原稿用紙の束が転がっていた。


『…きょ…がい、様………すみませ…っ、不意を…突かれてしまいました……ッ。』
「もう良い、喋るな…!!」
『……せっかく…鼓までお借りしていたのに……全く活かせぬまま、余所者の鬼に…やられてしまいましたわ…。…喰われるのなら、せめて響凱様にと決めておりましたのに…残念です、わ……。』


最早生気など失ってしまった律の目は虚ろで、あんなにもきらきらとしていた輝きも失くなってしまっていた。

彼女は、血塗れの首を押さえ、痛みを堪えつつ小生に向かって言った。


『…最期のお願いです……この身に残るものは…全て、響凱様に捧げます……。どうか、最後まで喰らうのは、響凱様だけで…。』
「頼む、もう喋らないでくれ…!」
『……最期の最後まで、響凱様はお優しい方でしたわ…。…私を、生かそうとしてくれて…有難うございました……私には、其れだけで…もう十分…………、』


そう口にした切り言葉を閉ざした彼女は事切れて、小生の頬へと伸ばしていた腕をだらりと落とした。

儚くも小生よりも若かった命を散らした娘を悼んで、小生は涙を溢した。

泣いて、泣き叫んで、吼えた。

そして、律を死に追いやった余所者の鬼をすぐに見つけ出し、跡形も残らぬ程ズタズタの八つ裂きに引き裂き殺してやった。

律は稀血であったが故に、小生や他の鬼共に狙われた。

例え小生が喰らわずとも、何れ何処かの鬼が喰ろうていた命であった。

小生は、彼女自身に最期に乞われたが、どうしても最後の一欠片も残さず喰らい尽くす事は出来なかった。

既に、律という娘の存在を愛しく思っていたからだ。

小生は、自身の敷地のすぐ外に律の亡骸を運び、大事に大事に土に埋め、墓を作ってやった。

此処に彼女の墓が建っていると分かる様に、彼女の名を記した木の板も立ててやった。

屋敷のすぐ裏手は林となっているが故、誰も気付かないだろう。

ひっそりと建てられた墓の存在は、小生だけが知っていれば良い。

近場で摘んできた花を献花の代わりに供え、悼む。

どうか…次に逢う時は、もっと幸せな人生を生きれる様に願おう。


―小生は、娘が死んだ後、娘を元にした小説を一本書いてやった。

其れは、一人の男と結ばれ、幸せに余生を暮らす話であった。

その話は、律の墓に一緒に供える様に丁寧に箱へと仕舞って土に埋めた。

その後、小生が鬼狩りの少年に会い、倒された後も、きっと誰にも知られぬ事無くひっそりとこの世に遺されるのだ。

其れで良い。

彼女の話を知っているのは、小生と――彼女だけで十分なのだから。


執筆日:2020.09.25

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