【虎と猫】



普段は誰も立ち入らない屋上に、其の者は居た。

何時、何の為に置かれたかは判らないが、風吹く屋上にはベンチが置かれていた。

其処に、彼女は寝そべっていた。


「―こんな処に居たんですかぁ…?もー…っ、何も掛けないまま寝たら風邪引いちゃいますよー。」
『…ぅん…?嗚呼…敦君、君か。』
「事務所に行ったら、誰も居なくて…光祢さんの机の上を見たら、此処に居るって書いたメモが置いてあったので。」
『にゃるほど…。今、残ってるのは、私と秘書さんだけだからね…静かだよね。』
「はい、だからですかね…僕一人だけっていうのが、やけに落ち着かなくて…っ。」
『こうして私の元に来たと、そういう事だね…?君は本当に寂しがり屋で可愛い子だねぇ〜…。』


ふわりと風に揺らめいた髪が、さわさわと風に舞う。

空いたスペースに腰掛けてきた彼を温かく迎え、受け入れる。

猫の頭を撫でるが如く、ごく自然に無意識に、彼は彼女の頭を撫でてきた。

光祢は、内心で柔く微笑んだ。


―或る日の探偵社に、新たな風が吹き込んでいた。

“人虎”こと、白い虎になれる「月下獣」の異能力を持つ、中島敦が正式に武装探偵社に入社が決まったのだ。

そして、其れを喜ばしく思う者が、探偵社社員以外の人間でも居た。

仮にではあるが、探偵社方に身を置き、尚且つ、何処へも所属していない者…朝比奈光祢である。

彼女は、異能力と呼べる力を発現させてから、使いこなせるよう、日々訓練として近くを出歩き、ついでにこのヨコハマの治安を守る手助けをしていたのである。

発現させた異能力というのが、其れこそ写し、若しくは鏡とでも言おうか、その目で見た相手の姿形を真似る…謂わば、コピーの様な能力だった。

名を、「創像幻想鏡-ソウゾウゲンソウキョウ-」。

正に、鏡写しの如き能力であった。

ちなみに、余談であるが、彼女が初めに真似たのは、探偵社の近くを彷徨いていた野良猫である。

太宰と同行中、偶然にも冗談半分に試してみたら、出来てしまった産物だったのだが、此れがなかなかの物なのである。

何しろ、猫に化ければ、猫の言葉が判り、会話を成し得たのだ。

此れは、情報収集の際に役立つと大いに喜んだ光祢は、その日を境に、訓練として猫に化けて散歩するようになった。

補足すると、此の散歩には、ヨコハマの地形やルートを覚える為という名目も含まれている。

まぁ、余談は此れぐらいとして。

そんな猫に成りきった光祢が、中島敦の目の前に初めて姿を現したのは、丁度、そんな巡回の様な散歩から帰ってきた時である。

そして、其れが、彼女と彼が初めて邂逅した時であった。

しなやかな身のこなしで、薄く開きっ放しのドアからするりと入り込むと、ぴょこんっ、と社長である福沢諭吉の膝元に飛び乗った光祢。

其の身のこなしは、正しく猫そのもので、軽々と飛んだ身はソフトに彼の膝上に着地したのである。


「…帰ったか。」
『ニャアー。』
「ご苦労…何も異常が無かった様で何よりだ。」
『ナァウ。』


まるで会話しているような様子に、リアクション芸ばりに反応の大きい敦は、ひたすら吃驚仰天して目を白黒させながら瞬かせていた。


「あ、ああああの猫って、社長の何なんですか…?というか、あんな簡単に社長の膝に乗っちゃいましたけど、良いんでしょうか?」
「ん〜?嗚呼…、帰ったのかい朝比奈君。良いんだよ、敦君。あの子は、社長のお気に入りだから。」
「え…っ!?そうなんですか!?知らなかった…。」
『嘘は良くないなぁ、太宰さんや。』
「ん…?今、何処からか女性っぽい声が…?」
『私だよ。今、君の目の前に居る、猫さ。』


福沢の膝からデスク上に移動し、デスクとデスクを伝って、彼の一番近くにあるデスクに跳び移った。

そうして、彼の目の前へと移動して、話しかける。

すると、予想通りとは思っていたが、大いに驚いてくれた彼は良い反応を返してくれた。


「うわあっ!!猫が喋った…っ!?太宰さん、今の聞きましたよね!?猫が人の言葉を喋りましたよ…っ!!?」
「うーん、そうだねぇ…。」
「驚かないんですか、皆さん…!!猫が人の言葉を喋ったんですよ…!?」
「うん、まぁ、そりゃ驚かないよね…。だって、ソレ、彼女の異能力だし。」
「へ………っ?異能力…?」
「そう、異能力。」


ソファーに寝そべって本を読んでいた太宰は、盛大に驚き騒ぐ敦に気怠げに言葉を返した。

太宰の言葉をすぐには理解出来なかった彼は、太宰の方を凝視しながら固まる。

其の横目で、異能力を解いた彼女が、ひらりと人の身で地に足を着けた。


『こんにちは。君が、新人君の中島敦君だね…?ようこそ、武装探偵社へ。』


人の姿に戻った事で、まるでイリュージョンを目にした様に再び驚く敦。

其の傍らで、未だソファーに寝そべったままの太宰が、「君は本当によく驚くねぇ〜。その内、リアクション芸人にでもなれるんじゃないかい…?」と小さくボソリと呟いた。


「本当に、人になった…。」
『あははは…っ、此れが、今私が唯一成せる、異能力だよ。』
「異能力…。」
『初めまして、私は朝比奈光祢と言う。正式な探偵社の社員ではないが、訳有って此処に置いてもらっている。謂わば、居候だね。大して君の力にはなれないと思うけど、一緒の仕事になった時は君の手助けになれればと思う。宜しくね。』
「あ、こっ、此方こそ…!宜しくお願いします…!!…………居候?」
『うん。』


初めましての挨拶を終えて、下げていた頭を上げた途端、首を傾げて問うた敦。

言葉のままだと、彼女は頷いた。


「彼女は、正式な社員ではないんだよ…。だけども、ちょっとした特殊な事情で、少しの間、探偵社で保護しているんだ。」
「ちょっとした特殊な事情…?」
「彼女はね、私が拾ったんだ。」
「は…?」


唐突に突拍子もない事を言われ、更に首を傾げる敦。

全く繋がらないし、意味が判らない。


「彼女は、一部記憶が欠損していてね…此処、ヨコハマに来るまでの記憶が無いんだ。所謂、記憶喪失という状態だね。道端で倒れて気を失っている処を、私が拾ったのだよ。そのまま探偵社で保護したのは、失った記憶を思い出す為の手助けをしてあげようという事でね。其れで、彼女は居候という言葉を用いたのだよ。」
「成る程…そんな事情があったんですね。記憶を失っているだなんて、其れは大変です…!」
「あと、探偵社の保護下に置いているのは、彼女がこの世界の住人ではないからなんだ。彼女、異世界からの迷い子らしくてね。私も、最初はよく判らなかったのだけど、どうやら同じ日本人ではあるけれど、何処か違う、平行世界的な処から来てしまった様なんだ。だから、無駄な騒ぎを起こさない様にする為の意味も込めて、此処で保護しているんだ。君には、難しくて判んない話だろうケド〜。」
「へぇ〜………。太宰さん…今、然り気無く僕の事馬鹿にしませんでしたか…?」
「ありゃ、よく判ったね?」
「今のは、流石に判りますよ…。」


話の最後に茶々を入れられて、妙に脱力する彼。

彼が、此れから使っていく事になる机の上に、一つのお茶が置かれる。


『まぁ、そんなこんなで、此方にお世話になっている訳でしてね…。戦闘的能力は無いから、そういうサポートには向かないけれど、お茶出しとか掃除だとかの雑用なら出来るから、何かあったら声をかけてね!はい、お茶一杯どうぞ。ずっと立ったままは疲れるでしょう?此の椅子に座って良いよ。』
「わぁ…っ!わざわざ、ありがとうございます!」
『いえいえ、今日から君も探偵社の一員だからね。大してサポートも出来ないけど、宜しくね。』
「はい…っ!」
『あ、此れは私から、お近付きの印という事で…。お菓子、嫌いじゃなければ、どうぞ。』
「お菓子までくれるんですか…っ!?朝比奈さんって、良い人だ…!!」
『お菓子ぐらいでそんなに喜んでもらえるだなんて、嬉しいなぁ。』
「まぁ、彼…孤児院出身者だからね。それも、異能力が原因で追い出されちゃった、可哀想な子なんだよ。」
『そうだったんですか…。』


改めて、彼の境遇を聞き、胸を痛めた光祢。


『敦君、何か困った事があったら何でも言ってね?』
「朝比奈さん…っ、ありがとうございます!」
『呼び方、朝比奈じゃなくて、光祢で良いよ?お互い、歳も近そうだし。』
「ええ…っ!?そんな、仮にも先輩に当たる人に、畏れ多いです…!」
『別に気にしなくて良いよ。私も、此処に来たのは、結構最近だから。虎と猫、同じ猫科同士仲良くしようね!』
「じゃ、じゃあ、慣れてきたら、名前の方で呼ばさせてもらいますね…!此方こそ、是非とも仲良くしてください…っ!!あ…、後で、もう一回猫の姿見せてもらっても良いですか…?触ってみたい…。」
『良いよ〜。お安い御用でさぁ!』


しっかと握手を交わし合った二人。

和やかなムードが漂っている。


「…ねぇ、国木田君。コレって、突っ込むべきなのかなぁ…?」
「知らん。本人達がソレで良いんなら、別に良いんじゃないのか?」
「うん…まぁ、そうなんだけどねー。」


微妙な会話に、突っ込むべきか否かを悩む保護者であった。


執筆日:2018.06.25