【黒と猫】



其れは、唐突とした出逢いだった。

見回りという名の散歩を終えて、姿を猫の姿から人へと戻し、一休みをしようとベンチに腰掛ける。

今日も、特に異常は無く、平和そのものといった感じだった。

ほぅ…っ、と街並みの景色を見つめて、息を吐く。

一人になると、途端に独りぼっちになったような、寂しい…そんな気持ちに陥る気がする。

時に、一人で居た方が楽な事もあるが、反対に、一人で居ると元の世界の事を思い出して感傷に浸ってしまう事がある。

今が、そんな時なのだと思う。

ボォー…ッとしながら、上を向いて、空を見た。

知っているようで、知らない空。

元の世界と似て、元の世界と変わらないように見える空。

空を見上げただけでは、まるで、元の世界へ戻ったような、そんな錯覚に陥ってしまう。

しかし、此処は、似ているけど違う、ヨコハマ。


(…どうして自分は、この世界に来たのだろう…?何故…、このヨコハマという地に居るんだろう…?)


空を見上げたまま、流れていく雲の様を眺めた。


(…判らない…。自分の名前と生い立ち、家族、友達…其れだけは判るのに。他は何も、何も判らない…。どうやって生きていけば良いか、其れすらも判らなくなってしまった私は、無力だ。)


風に流れていく雲をひたすら見つめ続ける。


(…独りぼっちだ。)


ふと、視界を正面に戻すと、目の前を黒が覆っていた。

突然の事で、ぱちぱちと目を瞬かせる。


「貴様…何故、空なぞを見ていた?」


唐突に、そんな事を尋ねられた。

目の前に現れた、黒い外套を身に纏った具合の悪そうな人。

眉間に皺を寄せて、難しそうな顔をして立つ人。

知らない人だ。

たった今初めて出逢った人は、そう私に問いかけてきた。

訳が判らずに、小首を傾げて疑問符を浮かべてしまう。

すれば、彼は、またポツリと問いかけてきた。


「先程からずっと空を見上げていただろう…?だから、何故、空を見ていたと訊いた。質問に答えろ。」
『何故、って言われても…ただ見ていただけ、というか……。特に意味はありませんけど…?』
「…そうか。」
『あの…先程からずっと、とさっき仰られていましたが…何時から私の事を見ていたんですか?』
「別に、ただやつがれが見た先に其の方が居て、何やらひたすら空を見続けていたのが気になっただけだ。特に意味は無い。」
『はぁ…。』


よく判らない。

ただ、悪い人ではないのかな…と、根拠も無く、そう思った。


「何か、不幸な事でもあったか。」
『え……?』
「ずっと空を見ていた。哀しそうな、泣きそうな、そんな表情で。故に、何か嫌な事でもあったか、身内に不幸な事でもあったかと思ったのだ。違うのか…?」
『………そんな簡単な事だったら、どんなに良かったか…っ。』
「…?どういう意味だ。簡潔に述べよ。」


名前も知らない、真っ黒な外套を着た人は、また問いかけてきた。

私は、訳も無く俯いて、口を開いた。


『…私、独りぼっちなんです。』
「其れは、家族が居ない、という意味か?」
『いえ…家族は、ちゃんと居るんです…。でも、此処には居ないんです。』
「…死んだのか。」
『いえ、生きてますよ。ただ…此処とは別の場所に居る、それだけです…。友達も皆、そっちに居ます…。私だけ、此の場所に居るんです。』
「だから、独りぼっちだと…?」
『そう思った理由は、それだけじゃないです…。』
「何だ。」
『…私、記憶が無いんです。このヨコハマに来るに至るまでの記憶が…。』


そう言えば、彼が息を飲んで、更に難しい顔をしたような気がした。

彼は、話の続きを促すように、黙って空いていた隣に腰掛け、耳を傾ける。


『自分の名前や、生い立ちとか、そんなのは、はっきり判るんです…。だけど…どうしてこのヨコハマに来てしまったのかは、全く憶えていないんです。此処に来る直前まで自分が何をしていたのかも、思い出せない…。思い出そうとすると、頭に靄が掛かったみたいに重くなって、痛むんです…。幸い、心優しい人が、彷徨っていた私を拾って、家みたいな場所に置いてくれたんです。なので、今は其処で、お手伝いさんみたいな事をしてるんです。私を置いてくれる御礼として…。』
「なら、一人ではないのではないか…?」
『…それでも、ふと思ってしまうんです…。元居た場所の事を。』


彼は静かに話を聞いてくれる。

何も知らない、赤の他人なのに…。

だけれど、何故だか話せてしまって、口が勝手に言葉を零していった。


『考えてもしょうがない事だとは判ってるんです…。でも、ふとした時に思い出したように考えてしまって、感傷に浸ってしまうんです。』
「…だから、独りぼっちだと…?」
『はい…。所詮、私は一人。誰かを頼らねば生きていけない、ちっぽけで弱い、無力な人間なんです…。』
「…やつがれには、そうは見えんがな…。ケホ…ッ。」


そう口にした彼は、小さく咳き込んだ。

一度咳き込むと、暫く咳き込んでしまうのか、ゲホゲホと咳をした。

辛そうに咳き込む様子を見て、心配になり、そっと問いかける。


『あの…、大丈夫ですか…?』
「ゲホ…ッ。ゲホゲホッ、ケホ…ッ、平気だ、大した事ではない。いつもの事だ。」
『え…っ、で、でも、凄く咳き込んでましたし、顔色もあまり良くないですよ…?』
「…ケホ…ッ、貴様には関係の無い事だ。気にするな。」


そう言う彼だが、まだ少し咳き込みながら、ボソリと言葉を返した。

何か無かったかと、肩から提げていたショルダーバッグの中を漁ってみる。

目的に見合う物を見付けると、彼に声をかけ、手を出すように言った。

咳をして口許を押さえていた彼は、一つ瞬きをすると、黙って口を押さえていた手とは反対側の手を差し出した。


『はい、どうぞ。』
「…何だ、此れは。」
『飴です。のど飴ではないので、咳に効くかは判りませんが…甘い物を舐めてたら、少しは楽になりますよ…?』
「………お節介な。己がどんな立場であろうと、見知らぬ赤の他人の世話を焼くとは、余程のお人好しなのか。」


そう言われた為、受け取らないかと思ったが、律儀にも彼は受け取ってくれた。

今しがた受け取った手の中の飴玉を、ただ無言で見遣る。


『喉、悪いんですか…?』
「何故、逢ったばかりの貴様に話さねばならない?」
『あ、いえ…さっきは、私の話を聞いてくれたので…もし、良ければと思っただけです。話したくないのなら、別に構いません。無理に訊こうとは思いませんから…っ。』
「……ふん…っ。変わった奴だ。」


受け取った飴を服のポケットへと仕舞うと、彼は立ち上がった。


『あ…あの、ありがとうございました。話を聞いてくれて…っ。』
「別に、やつがれは何も訊いていない。ただ貴様が勝手に喋っていただけだ…。」
『それでも、嬉しかったです。ありがとうございます…。良かったら、貴方のお名前…訊いても宜しいですか?』
「やつがれの名など、聞いてどうする。」
『別に、どうもしません。ただ、親切な心優しい方のお名前を聞いてみたかっただけです…。』
「…ふっ、愚考だ。」


彼は背を向けて、小さく貶すように笑った。

だが、其れは、心の底からの笑いではないように見えた。


「やつがれは、芥川龍之介。このヨコハマを統べるポートマフィアの幹部を務める者。貴様のような一般人とは、相容れぬ世界で生きる者だ。」
『そうですか…。私の名前は、朝比奈光祢と言います。どうぞ、宜しく。』
「…此の名を聞いても、やつがれを畏れぬと言うか。」
『例え、マフィアという裏社会の方でも、中にはきっと、芥川さんのように優しい方もいらっしゃると思いますから。』


にこりと微笑んでそう言えば、形容し難いものでも見たような表情を浮かべて去っていった芥川さん。

其れから数日後、見回りと称した散歩を済ませ、同じように例のベンチで腰掛けて休んでいると、また芥川さんと逢った。

今日の彼も、口許を押さえ、少し具合が悪そうな顔をして立っていた。


『おや、芥川さん…。また、お逢いしましたね。』
「…また、此の場所に来ていたのか、貴様は…。」
『はい。此処は、私のお散歩コースですから。』
「そうか…。」


ケホリッ、彼が小さく咳をした。

私は、鞄に入れていた或る物を取り出し、彼に手渡した。


「…何だ。」
『ニワトコの花で作った、シロップです。』
「シロップ…。」
『喉に良いです、よく効きますよ。ちょっとしたお薬みたいな物です。自然の物で作った物なので、身体に優しいですよ。』
「何故、こんな物を…?」
『もしかしたら、また貴方に逢えるんじゃないかと思って、以前知り合いに教わった事を勉強して、作ってみたんです。あ、変な物が入ったりしないよう、一応お医者さんをやってらっしゃる方に見てもらいました。なので、安全です…!』
「………此れを、やつがれに飲めと…?」
『はい…。何だか、いつも辛そうに咳をしているように見えたので…何か力になれたらな、と思って。余計な事をしているだろうという自覚はあります。けど、良かったら受け取ってください。』


少し眉を下げて、自信無さげに笑った。

力無い笑みのように思われたかな、と、そう思ったが、杞憂だったようだ。

芥川さんは、微かに目を細めて、差し出す小さな袋を受け取った。


「やつがれの為に…か。一応は、礼を述べておこう。ありがとう。」
『いえ、どういたしまして。』
「…光祢、と言っていたな。今まで貴様と呼んでいたのを改めよう。それと、やつがれを重んじての態度に評して、口調を改めよう。無礼な口を聞いてすみませんでした。」


急な態度の変わりように、思わず吃驚して、目を見開き固まってしまった。

彼は、先程よりも、少し眼差しを和らげながら言った。


「貴女は、やつがれのような人間に対しても、他の人間と同じように等しく接してくれた。だから、やつがれも、貴女を重んじよう。」
『え…っ?あ、芥川さん…?』
「やつがれに出来る事があれば、手を貸しましょう。思い出せぬ記憶を思い出す為の力となりましょう。貴女が独りぼっちだと不安に思うなら、やつがれが支えましょう。」


戸惑いながらも、手を差し出してくる芥川さんから目が離せなかった。


「やつがれが側に居れば、貴女は一人ではない。」


力強く、そう断言した彼に、知らず知らずの内に頬から雫が伝った。


『じゃあ…私のお友達になってください。そうすれば、私は、寂しくありません…っ。』


零れる雫は気にせずに、差し出される芥川さんの手を取った。


「友…には、やつがれは相応しくないので、せめて話し相手ぐらいにはなりましょう。」


彼は、一瞬だけ寂しそうな目をして、そう告げた。

彼の過去に何があったのかとか、今は敢えて問おうとは思わない。


『話し相手になってくれるのであれば、私にとっては、もうちょっとしたお友達みたいなものです…っ。』


太宰さん、与謝野さん、社長や敦君といった武装探偵社の皆さん。

今日、此の世界に来て初めて、お友達と呼べる人が出来ました。


執筆日:2018.08.27