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お誘い



一応、一人でも歩けるが、念の為だと出入口まで支え、一緒に出てきた長谷部。

診療所の外に出ると、彼は一枚の名刺を差し出して言った。


「それでは、俺はこれで…。本当に、駅までお送りしなくても良いんですか?遠慮はしなくて良いんですよ…?」
『ただちょっと足を捻った程度ですから、大丈夫です。ありがとうございました。』
「いえ…。宜しかったら、これ、どうぞ。俺の番号を書いた名刺です。何かあった際は、何時でもご連絡ください。すぐに駆け付けますので。」
『はぁ…。どうもありがとうございます…。』


何故、仕事上何の関わりも無いような一介の小娘に名刺なんて物をくれるのだろうか。

彼の連絡先を知ったところで、直接的な関わりは無さそうだが…。

疑問に思いながらも、取り敢えずは受け取っておき、処理をどうするかは後から考える事にする。

名刺を財布の空いた隙間へ適当に仕舞い込み、改めて礼を述べてから、彼と別れる璃子。

別れた後は、当初の目的であった欲しい本の新刊を手に入れる事の為に本屋へと向かったが、その後に組んでいた本屋巡りは、足の事もあるので取り止めにし、さっさと家へ帰る事にした。

飛んだ災難に遭いはしたものの、思ったよりも軽く済んで良かったと思う事にする彼女は、果たしてお気楽主義者なのか、単なるポジティブな思考の持ち主なだけか。

どちらにせよ、無事でいれたという事は大きいのであった。


それから、数日後の、足首の捻挫も完治した頃。

廣光から、とある電話が掛かった。

その時の時刻は、夜八時を過ぎた頃である。

晩御飯を食べた後、家族とテレビを一緒に眺めていた璃子。

徐に鳴り出した着信音に、手を伸ばして画面を見てみれば、表示されるは彼の名前。

何だろうと小首を傾げ、その場から立ち上がりつつ画面をタップし、自室の部屋がある方の二階へと移動する。


『もしもし…?』
<もしもし…璃子か?俺だ。>
『どうしたの…?何か私に用…?』
<嗚呼、ちょっとアンタに訊きたい事があって…。今、大丈夫か…?>
『うん、大丈夫。それで、私に訊きたい事って…?』


電話越しに聞く彼の声に慣れず、少しむず痒いような擽ったいような気分になって、私室の部屋に入ると、隅に投げていたとあるキャラクターのクッションを掴み、抱いて座り込む。

電話の向こうの彼の声は、何だか少し緊張したような声で、固い声であった。

そんな何時もとは違う声で、彼は続けた。


<その…今度の休み、どちらか空いていたら、映画でも観に行かないか?と、思って…。チケットを、大学の同じゼミの奴から貰ってな…。捨てるのも勿体ないから、一緒にどうかと思って、今連絡してる。>
『映画かぁ〜…。ちなみに、どうして、私と…?チケットが何枚あるかは知らないけど、普通そこは私相手なんかじゃなく、大学の友達を誘うんじゃないの…?例えば、そのチケットをくれた子とか、同じゼミだとか言う子をさ。』
<いや、まぁ、確かに普通はそう思うのかもしれないが…っ。あー…っと、チケットは二枚ある…ペアのが…。ちなみに、そのチケットは、相手に用事が出来たとかで貰い受けた物だ…。勿論、他の奴にも聞いてみたが、生憎、皆バイトやら何やらで予定が詰まっていてな…誰も貰い手が無かったんだ。>
『成る程…。それで、私を誘ったんだね?』
<嗚呼…。あとは、その…この間、アンタが寝込んで約束が無くなったから、その約束の代わりを果たそうかと…。>
『え…っ?あの時の事は、わざわざお見舞いに来てくれたんだから、もう良いよっ。それよか、私の方こそ、約束を無駄にしてしまってごめんなさい!って感じだし…っ!』
<あ、や、俺は別に、アンタの事を責めたい訳じゃなくて…っ。寧ろ、その時の約束をもう一度果たそうと思ってだな…っ。>


彼と電話越しに話していると、電話の向こう側で、何やら横合いから誰かの囃し立てるような声が入ってくる。

どうやら、彼は一人ではなく、誰かと一緒に居る空間から掛けてきているようだ。


『えっと、話の腰を折るようで、ごめん。ちょっと気になったんだけど、さっきから別の人の声が入ってきてない…?何か、廣光以外の複数っぽい声が聞こえてくるんだけど…?』
<嗚呼、それは…何時もの如く勝手に遊びに来た貞と、何故か一緒に飯食った後居座ってる光忠だ。>
『あ、この前言ってた親戚の子の貞君、来てるんだ…?まだ逢った事ないから、どんな子か解んないや。』
<ただうるさくて騒がしいだけのガキだぞ…?来るなと言っても聞かない、聞き分けのない生意気なガキだ。まぁ、それはどうでも良いとして、返事の方はどうなのかを聞きた…、って、おい…っ!何するんだ、貞!返せ…っ!!>
<コレ、まだ繋がってるよな?もっしも〜し…!聞こえてるかー?もし聞こえてたら、うんって返事してくれね?>


彼と話していたら、突然会話が途切れ、彼が誰かに怒鳴る声が入ってくる。

叫んでいた名前からして、相手は先程挙げた人物の貞宗らしい。

どうも話途中の際に、横から携帯を奪ったようだ。

電話の向こうの声が、彼のものではなく、少し高めのまだ幼さの残る子供のような声に変わる。


『うん、聞こえてるよー。君が、噂の貞君かな…?』
<おっ、まだちゃんと繋がってるな…っ。おうよっ、俺がその貞ちゃんだ…!アンタが、伽羅の彼女だっていう璃子ちゃんかい?>
『うーん、その彼女かどうとかの話を誰から聞いたのかは知らないし、彼女でもないんだけど、彼の知り合いである花江璃子っていう人間である事は合ってるよ。どうも、初めまして。ここ最近、彼とはそれなりに仲良くさせてもらってます。』
<おー。此方こそ、初めまして…!急に電話してる奴が変わったのに、アンタ、怒らないんだな?>
『うん。別に、そこまで怒る程の事じゃないし。悪戯好きなお茶目な子なんだなぁ、って思うくらいだよ。』
<アンタ、器がデカイ奴なんだな〜…気に入ったぜ!これからも、伽羅を宜しくな!!>
『うん、よく解んないけど、解ったよ。』
<んじゃ、次、みっちゃんに変わるな…!ほいっ、みっちゃん、パース…っ!>
<えっ!?何で、僕…!?って、うわぁ…っ!!>
<な…っ!?おまっ、光忠に投げるくらいなら返せ…っ!!>


何やら、電話の向こう側が賑やかな事になっているようだ。

先程から、聞いていて面白い楽しそうな様子である。

電話の向こうでの彼が、親しき者達に揶揄われ弄られている光景が脳内に浮かぶ。

思わず、電話越しであるのにも関わらず、笑みが漏れた。


『ふふ…っ。』
<えっと…璃子ちゃん?こんばんは、元気にしてるかい?>
『ふふっ、ええ、今は元気ですよ。こんばんは、光忠さん。何か、そっち楽しそうですね…?』
<ははは…っ、そう聞こえるかい?それなら、良かったよ。彼、今、鬼の形相で貞ちゃんの事追いかけ回してるから。>
『あらま。それは、大変ですね…!御愁傷様です(笑)。』
<はは…っ、貞ちゃんではないけど、伽羅ちゃんの事、宜しくね…?あと、デートのお誘いの件も、宜しく!>
『(あ、コレは、光忠さん辺りが言い出した相手かな…?)あははは…っ、了解です〜…!』
<それじゃ、そろそろ伽羅ちゃんに返すね?…おーいっ、伽羅ちゃーん!コレ、投げるから受け取ってよー?>
<はぁっ!?何で投げて…っ!?ッ…!!こっの…ッ、普通に渡しやがれ…!!>


再び、ガサガサといったノイズ音が入り、彼の声へと戻る。

自身のスマホを投げて寄越される身である彼は、堪ったものじゃないだろう。

万が一、落としてしまった場合、画面が割れてしまう上に、スマホは高額な品物だ。

もし、落として画面にヒビでも入ってしまったら、修理するのにもかなりのお金が掛かってしまう為、気が気でなかった筈だ。

彼女からしては、面白い遣り取りを聞かせてもらって楽しかったが。


<はぁ…っ、突然すまなかったな…。貞にいきなりスマホを取られて、なかなか返さないどころか、光忠の奴に投げて寄越したりなんかするから、なかなか手元に戻ってこなくて…変に手間取った。彼奴等に、余計な事を吹き込まれたりはしてないだろうな…?>
『ふっ、ふふふふ…っ。うん、大丈夫…っ、特に変な事は言われたりしてないから、安心しなよ…!』
<アンタ…っ、他人事だと思って笑ってるが、ちょっかいを受ける此方は大変だったんだぞ…!>
『はいはい…っ、笑ってすんませんっした…!映画の件は、全然オーケーですから、一緒に行っても構わないっすよ…?』
<そうか…。感謝する…。一人では、どうしようかと思ってたからな。それじゃ…待ち合わせ場所は、この間の約束と同じで、駅の広場前で。時間は、少し早めの十時で良いか…?>
『うん、それで良いよ。わざわざ誘ってくれて、ありがとう。約束の日が来るの、楽しみに待ってる。』
<嗚呼…俺も、楽しみにしてる。そんじゃ、時間も遅いから、そろそろ切る…。遅い時間に連絡して、すまなかった。おやすみ。>
『うん、おやすみなさぁい。良い夢をー。』


気の抜けたユルい返事を返して、電話を切る璃子。

随分と長い間喋っていたような気がしたが、通話時間を見たら、意外とそうでもなかった。

また一つ、彼との楽しみが増えた。

ポカポカと温かい気持ちに、少し擽ったさを感じて照れくさくなる。

慣れていない、この感情はなんて言うのだろう。

不思議と嫌ではない其れは、きっと悪くないものだ。

ふわふわとしたそんな気持ちを抱えながら、今日一日の最後を迎える。

夜、枕元に何時も通りに彼から貰ったネックレスを置いて眠ったら、良い夢を見た。

電話越しに聞いたような賑やかな様子を、誰かと一緒になって笑いながら見ている夢だ。

此れは、きっと素敵な夢だ。

起きたら忘れてしまい、朧気になって解らなくなってしまうものだけど、絶対に素敵な夢だったのだ。

それは、はっきりと言える程、目覚めが幸せな夢だったのである。


『ふっふふ…っ。夢の中の私は、誰と一緒にあの賑やかな様子を見ていたのかな…?気になっちゃうよね。』


眦を下げながら、彼女は幸せそうに笑う。

ネックレスの飾り部分が、一瞬だけ、キラリと煌めいた気がした。


―約束のお休みの日、駅の広場前、朝の午前十時過ぎ。

少し早めに来た彼は、駅の入口近くの壁際に凭れ掛かり、待っていた。

普段から格好良い彼は、ただ待っているだけでもお洒落で、絵になるような姿だ。

通り行く若い年頃の女性達が、通り過ぎていく際にチラチラと遠巻きに見つめていく。

其処へ、何時もと比べたら多少お洒落な格好をした彼女が、駅の改札を抜け、やって来る。

彼が待っているだろう待ち合わせ場所へと向かうと、何か遠巻きに見つめたような視線を感じて、辺りを見回す。

よく見れば、どうやらソレは、これから逢わねばならない彼が居るだろう処へ向いているようだ。

今日は、何か小さな催し物でもあったのだろうか…。

ちょっとだけ気になりながらも、璃子は、その方向へと足を進めていく。

着けば、彼は既に来ていて、先日の待ち合わせをした時のようにスマートに立って待っていた。


『おはよう、廣光。ちょっと待ったかな…?』
「おはよう。いや、時間通りだ…が。それが、どうかしたのか…?」
『ううん。時間通りなら良いんだ。それにしても、廣光は、ただ待ってるだけなのに格好良いね…。』
「は……?」
『いや、何か遠目から見てもモデル並みに格好良いというか…絵になるみたいだなぁ、というか。とにかく、そんな風に見えたんだよ。その内、女性とか寄ってきそうだね?』
「…俺は、群れるのは好きじゃない…。寄って来られるなんて、更々勘弁だな。」
『うん、まぁ、そう言うと思ったよ。』


安定の馴れ合わない発言に、何故か安心する璃子であったのだった。


執筆日:2018.10.16