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朱色に飛行機



外へと出た璃子は、深く息をして外の新鮮な空気を吸い込む。

ずっと室内に居たせいだろうか、息が詰まったのかもしれない。

深呼吸を繰り返す璃子の様子を見て、廣光は控えめに問うた。


「…大丈夫か?」
『ふぅー…っ。うん、大丈夫…。それなりに長時間室内に込もってたからかな…?ちょっと息が詰まっちゃったみたい。もう、大丈夫だよ。』
「そうか…。」


そう聞いたら、ホッと安堵したような表情を見せた廣光。

こんな場所に居るのも何だ。

刀を展示する会場と併設された喫茶店で少し休むか、と提案した彼の言葉に頷いた璃子は、再び彼の手に引かれながら、その場を後にしていく。

この時ばかりは、彼に頼りきってしまった彼女は、少し申し訳なさそうに俯いた。

喫茶店へと入り、紅茶を二つ頼んで、近くの席へと落ち着いた二人。

暫しの間、二人の間に沈黙が降りた。

紅茶を一口、二口飲んで、一息付いた頃になって、漸く落ち着きを取り戻してきた彼女。

彼の気遣わしげな視線を受け、軽く笑んだ璃子は、小さく口を開いた。


『何か、ごめんね…っ。私のせいで、展示会場から出る事になっちゃって…。まだ、色々と見たかったよね…?ごめんね。』
「いや…今日、予定していた分はほぼ見終えていたから、構わない…。それより、本当にもう大丈夫か…?まだ、少し顔色が優れないぞ。」
『…そんなに、かな…?自分の中じゃ、そんなに気分悪くなったりとかはしてなかったんだけど…。ただ、ちょっと混乱しちゃってたというか、そういう感じで…っ。』


苦し紛れに小さく笑った璃子は、手元の紙コップへと視線を落とす。

見つめた紙コップの中の水面は、僅かな空気を受けて揺らいでいた。

また、静かな沈黙が二人の間に落ちる。

今度の沈黙を破ったのは、廣光の方で、静かに小さく口を開く。


「アンタは…あの刀達を見て、何を思ったんだ?」
『え………?』
「あの刀を見て、何か思ったか…?」


彼は、静かに…だが何かの意思を持って、毅然として、そう問うてきた。

一瞬きの間、彼女は口を噤んだ。

しかし、暫し考えた末、口にする事にしたのか、彼女は彼を見据え口を開いた。


『何を思ったか、と言われたら…どの刀を見ても、唯一として同じように感じた事は…“懐かしい”、という事だったかな。』
「懐かしい、か…。」
『何で、“懐かしい”だったのかは、よく解らないんだ…。だけど、酷く懐かしいな、って…そう思ったんだ。変、だよね…?今日、初めて見た筈の刀だったのに…。何故だろう…?遠い昔の覚えていない、忘れてしまったような…そんな遥か遠い昔に、見た事があるような気がしたんだ…っ。可笑しい、よね…?どうしちゃったんだろう…っ、私ってば…。自分でも、自分の事がよく解らなくなってきちゃった…っ。はは……っ、変だね?私…。どうして…っ、こんなに胸が苦しいなんて思うんだろ…?ど、して………っ。』


ぽろぽろと目の端から涙を溢し始めた彼女を見て、彼は少しだけ焦っていた。

核心に迫るには、少し時期尚早だったか、と…。

彼女の事を泣かせるつもりはなかったのだと心の内で嘆く廣光は、どうしたものかと頭を抱え、悩ませた。

すると、彼女の目の前に、何処とも知れず綺麗な刺繍の施されたハンカチが差し出された。

其れに驚いて、二人してその方を見上げると、一人の男性が然として立っていた。


「どうぞ…。宜しかったら、此れ、使ってください。」
『え……っ?こんな綺麗なハンカチ…っ、使えません…!』
「良いんですよ。その為のハンカチですから…。どうぞ、その涙を拭ってください。」
『あ、ありがとう、ございます…。』


突如として現れた、薄桃色の髪をした綺麗な男性に、ポカン…ッ、と見上げる璃子。

名も知らぬ彼は、向かいの廣光に視線を向け、態とらしい態度を見せ、言った。


「こんな可愛らしいお嬢さんをこんな処に連れてきておきながら、泣かせるなんて…伊達男の風上にも置けませんね、貴方。」
『ぁ…っ、こ、これは別に、彼のせいで泣いてしまったものではなくて…っ。』
「ええ、そうでしょうね。端から見ていましたから、それくらい解ります。僕が言いたいのは、そういう事じゃないんですよ。可愛らしいお嬢さん?」
『へ………っ?』


この男、思っていたよりも、いけしゃあしゃあと物を口にする男である。

思いの外、儚げな見た目とのギャップに驚き、言葉を失っていると、廣光へと視線を投げたまま憮然と口を開いた彼は、言葉を続けた。


「良いんですか?此のままで…。此のままでは、何も変わらない事くらい、貴方なら解るでしょう…?」
「……………。」
「何の手出しもしなければ、何も変化はありませんよ。それでも男ですか…?貴方は、そんな弱気で居る程、柔な男じゃないでしょう…?」
「…おい、何か、途中から話が変わっていないか?俺は、別に、そういう意味で困っているという訳じゃないんだが。」
「お黙りなさい。何もしないままで、彼女を泣かすという行為自体に、僕は怒っているんですよ。」


何の話をしているのやら、璃子にはてんで解らない状況である。

疑問符を浮かべたまま、彼女は、彼と廣光の事を交互に見つめた。


「知りませんよ…?此のままで、今の関係が拗れても。先に進めないまま、時が過ぎれば、ただそれだけ。何も口に出来ないまま過ぎ、終わるという事ですから…。例え、それで彼女を今のように泣かせ、別れる事になっても、僕には関係ありませんし。」
「……………。」
「…良い加減、腹を括ったらどうなんです…?見ていて鬱陶しいですよ。貴方も一人の男なら、ちょっとくらい意地を見せなさいな。」
『……………えっと……?』


何やら、変な方向に話が進んで行っているような気がしてならない璃子は、ひたすら首を傾げる。

雲行きが怪しくなっているようだ。

そもそもの前提、二人はまだ付き合ってもいないのだ。

何故か、修羅場に発展しているような図で、先程とは別の意味で混乱に陥る璃子。

溢れてしまった涙も何処かへ行ってしまったぐらいである。

そんな状況へと発展し、彼女の涙もすっかり乾いてしまってから、一段落着いたかという頃になって、漸く意を削ぎ落とした彼は、「はぁ…っ。」と溜め息を吐いた。

そして、気怠げな空気に戻って、再び口を開く。


「…まぁ、取り敢えず、今はこれぐらいにしておきましょう…っ。あんまり言い過ぎては、後からお小夜に怒られてしまいますし。それに、逆に、貴方を泣かせてしまう事になるかもしれませんから。」
『え………っ?』
「それに…彼女も、もう泣き止んだみたいですからね。僕のお役目は、此処までとして、引き下がる事と致しましょう。」
「…アンタ、実のところは、其れが目的だったんじゃないのか…?」
「ふふふ…っ。さぁ…?どうでしょうね。」


クスリ、笑んで口許に笑みを浮かべた彼は、彼等に背を向けて、後ろ手に手を振る。


「機会があったら、またお逢いする事があるでしょう。報酬は、その時で構いませんので、どうか末永くお幸せに。」
「…………チ…ッ。」


してやられた、と言わんばかりに舌打ちをした廣光。

彼が、彼女の前で舌打ちをするのは、久しい事である。

どうやら、嘗ては弄る事が無かった彼の事を弄れるだけ弄る事が本命だったようである。

不本意ではあるが、彼が現れた事によって、彼女の涙は止まったようだった。

苦々しげに顔を顰めた廣光は、非常に不本意だと彼の去った後を睨み付ける。


『えっ、と……知り合いか何か…?』
「いや…違う。」
『えっ!?じゃ、じゃあ、今の会話は…。』
「…知らん。」


赤らんだ目蓋と鼻はそのままに、男が去ったと思しき方向を振り返った璃子。

しかし、男の姿は既になくなっていたのだった。

一体、何だったのだろうか。

誠、不思議な遣り取りであったものである。

ポカン…ッ、として見つめた後に、ふと手元にある物の存在に気付く。


『あ…っ、このハンカチ、返し忘れちゃったや…。どうしよう…。』


名前も知らぬ彼の事を思い、頭を悩ませる璃子。

向かいに座った廣光が、不機嫌気味な低い声音で呟いた。


「…貰っておけば良いんじゃないのか…?恐らく、奴もそのつもりで渡したのだろうしな…。」
『え…っ、でも、良かったのかな…?こんな綺麗な刺繍の入ったハンカチ…生地も良い感じなのを見た限り、かなりお高いヤツだと思うのだけど…。』
「アンタに渡すだけ渡して去って行ったんだ。気にするでもないだろう。」
『うーん…。本当に良かったのかなぁ…?』


いまいち首を縦に振れない璃子なのであった。


すっかり気を狂わせられた彼は、男に言われた訳ではないが、確かに、ある意味、腹を括るべきであるところまで来たか、とは感じていた。

最初の頃よりは、随分と親しくなった彼女との関係。

最早、まだ恋人でない事が不思議でしかならないくらいの関係である。

気を許された彼は、今や彼女のパーソナルスペースの距離にまで近い距離に居る。

互いに繋がれた手は、そう簡単には解けなさそうな程にまで繋がれている。

あと一歩なのである。

心を決めた彼は、帰り道の道すがら、繋いだ手を一度緩く離した。

その手を、もう一度強く繋ぐ為、指と指を組んだ繋ぎ方に繋ぎ直す。

其れは、俗に言う、所謂恋人繋ぎというものだ。

力強く繋ぎ直された其れに気付いた璃子は、泣いた跡の残る顔を向けて、歩を緩めて、その内立ち止まった。

立ち止まった彼女に釣られ、自然と彼も進めていた足を止める。

立ち止まった先で、此方を仰ぎ見る彼女の視線を真っ直ぐに受け止めた。


『ど、したの…?急に…。』
「何の事だ…?」
『え?や…その、この繋ぎ方…。』
「しちゃ悪いか。」
『え…っ?』
「この繋ぎ方にしちゃ、悪いか。」


二人の間に、一筋の風が通った。

少し冷たくなってきた其れは、秋の訪れを指している。


「…今まで黙ってきたが、もう黙っておくのは止めにした。俺は、アンタに伝えなきゃいけない事がある…。」


彼の静かな声音が、鼓膜を揺らす。


「俺は…アンタの事が好きだ。其れは、出逢った時からだ。だから、ずっと積み重ねてきたこの想い、アンタに打ち明ける…。アンタが好きだ…。ずっと前から…っ。だから、俺と、付き合ってくれないか…?俺は、アンタの側に居たい…っ。璃子の側に居たいんだ…!アンタの側に居させてくれ…っ!」


彼の想いの丈が、空高く木霊する。

廣光は、切なげな表情をして、彼女へと想いを叫んだ。

彼女からの返事が返ってくるのを、ただひたすらに希い、待つ。


『………いよ…っ。』
「え………?」
『狡いよ…っ、こんなタイミングで言うなんてさ…っ。狡い…っ、本当に狡いよ…ッ。』


顔を俯けた璃子は、少し掠れた上擦った声でそう返した。

否と返さない様子を見て、彼が一歩、彼女へと距離を埋める。

それでも、彼女は拒否を見せない。

彼女は、まだ、顔を伏せたままである。


執筆日:2018.10.20