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螢火



『…ど、して…、私なんかを好きだなんて言うの…?』
「アンタが好きだと思ったから、そう言っただけだ。他に意味は無い。」
『…わ、私なんか…っ、其処ら中に居る、何の変哲もない奴だよ…?それでも、良いの…?』
「俺には、アンタしか居ないと思ったから、アンタが良いと言ったんだ。それ以上の意味は無いぞ。」
『で、でも…っ、私なんて奴、廣光には釣り合わな……っ、』
「くどいな。良い加減、アンタも素直に正直になったらどうだ…?」


拒絶の言葉はしないものの、なかなか認めようとしない璃子は、自身を否定する言葉ばかりを繰り返した。

そんな言葉に、同じ台詞を繰り返した廣光は、堰を切って歩み寄り、最後の距離を詰めた。

彼女との距離は、もうすぐ側だ。

必死に言い繕い逃げ場を探す彼女の逃げ場を塞いだ彼が、繋ぐ手とは反対の手で彼女の頬へと触れる。

触れたその手は、そのまま、そ…っ、と彼女の顔を上向きに向けた。

ゆっくりと合わせられた璃子の目は、恥ずかしさ故に潤んでいた。


「アンタの答えを聞かせてくれ…。アンタは、俺の事が好きか。それとも、嫌いか…?」


確固たる意思を持って問う廣光。

答えは、もう、とうに決まっていた。


『…解ってるのに、敢えて訊いちゃうんだね…っ。』
「直接、アンタの口から聞いてはいないからな…。当然だと思うが…?」
『あはは…っ。廣光ってば、何処まで格好良くあれば気が済むんだよ…っ。』


思わず、吹き出した彼女が、小さく笑みを零した。

頬に触れられた掌に、自身の手を重ね、呟く。


『本当…っ、直接言わなくったって解ってる癖に、敢えて訊くんだから…っ。そういうトコが、狡いんだって言ってるんだよ…。』
「直接聞きたいから、わざわざ訊いてるんだろう…?良い加減、アンタも腹を割って、話せ。」


ソコは、普通、“言え”じゃないのか。

敢えて、“言え”とは言わず、“話せ”と口にした彼の優しさが、今は胸に刺さって痛い。

生まれて初めて受ける一世一代の告白に、恥ずかしさも相俟って、また涙が込み上げてくる。

だが、嬉しさも同時にあって、どうしたら良いのか解らなくなるのだ。

再び、混乱に陥りそうになる彼女を、彼が繋ぎ止める。

くしゃりと歪んだ顔に、彼の顔が近付いた。


『わた、しも…っ、好きだよ…っ。本当は、言葉で言い表せれないくらい、好き…っ。だけど、私は…っ、社会人としても落ちぶれた人間だから…!だから、全うに生きてる廣光とは、釣り合わな……ッ、』


言葉が、不意に途切れる。

繋げようとした言葉が、彼に飲み込まれた。

彼の睛が、今、零距離にある。

金色をした睛が、璃子の見開いた目を見つめた。


「言い訳は、もう聞きたくない。俺は、ただ、アンタのその二言を聞きたかった。」


彼の睛が柔らかく瞬いて、離された。

唇には、今しがたの感触がはっきりと残っていた。

璃子は、惚けたように、自身の唇へと手を伸ばす。

其処には、まだ柔らかな温かい感触が残っている。

遅れて口付けをされたという事に気付いた璃子は、口許を覆い、顔を真っ赤に染めた。

そのまま、狼狽えて、一歩、二歩と後ろへと下がろうとした。

だが、彼と繋がれたままの手が、それを許さなかった。


『え…………?今、何された…?』
「何をしたも何も、解り切った事だが…?」
『ぅ、え……?ま、待って…っ。え…?私、今…もしかして、キス、されたの…?』
「もしかしなくても、キスだが…。アンタ、もしかして…初めてか?」
『初めてだよ…!初めてに決まってんじゃん!当たり前だろ…っ!?』


漸く事実を認めた思考が、今更の事を訴えてくる。

彼氏居ない歴=年齢な彼女が、今、初めてキスを経験した反応がコレだ。

子供の頃、父親に対してする“おやすみのチュー”とは違うのである。

そして、保育園や幼稚園児の頃に友達へするチューも、同じくノーカウントの範囲である。

行き場を無くした羞恥が限界突破して、フシュウ〜…ッ、と音を立てて頭から湯気を立ち上らせる。

力を失った足が、カクンッ、と崩れ、地に落ちた。

途端に慌てた彼が、咄嗟に腕を伸ばして身体を支える。

寸でのところで受け止めた身は、初めて逢った時と変わらず身軽だった。

その事実に、彼は眉を潜めた。


「おい…っ、大丈夫か、アンタ…?」
『…すいまひぇん…っ、今の私にゃ、オーバーヒート案件で、対処出来ないッス……っ。』
「はぁ……?ッ…、アンタなぁ…っ。急に崩折れるから、どうしたのかと思ったのに…。心配して、損した……っ。」
『おぅふ…っ、すんません…っ。現段階では、コレがギブッス……!本当、すんません…っ!』


心配した他所で、単なる照れ隠しだったようで、心底呆れたような溜め息を零した廣光。

要らぬ心配を掛けた事に、本当に申し訳なさそうに謝った彼女は、まだ赤みの引かぬ顔で言った。

中途半端に支えられたままの彼女は、彼と片手だけ繋がれたままの状態であった。

流石に、ずっとこのままで居るのもどうかと思った彼は、彼女を支えている腕を外す。

すると、完全に力の抜けていた身は、ずるりと地面へと尻を付けたのだった。

まさか、そのまま地べたに座り込むとは思ってなかった廣光は、二重の意味で驚くのであった。


「は………っ?おい、アンタ、何してる…?」
『…………。』
「……もしかして、腰が抜けた、とか言い出すんじゃないだろうな…?」
『ははははー………っ。その、まさかです…。』
「は…?」
『すんません…っ。』


まさかの事態である。

たった一度のキスで、この有り様なのだ。

先が思いやられる事である…。

流石の彼も、コレには呆れを隠せなかったようだった。

自分の情けない有り様に、自分自身で打ちひしがれる璃子は、無様としか言い様が無い状態である。

心なしか、別の意味での涙さえ滲んでいる気がする。

穴があったら入りたい気分の璃子は、顔を覆い隠し、彼から完全に視線を外した。

彼からは、無言が返ってくる。

その無言が、今ばかりは凄まじく痛く、いっそ死にたいと思う璃子であった。

痛い沈黙が、二人の間に降りる。

彼等の横を一台の車が通り過ぎて行った。


「…帰るか。」
『…うん、そだね…。』


顔を俯けたままの彼女が、彼へと手を伸ばす。

その手を背へと回した彼は、呆れながらも彼女を背負う。

何時かの光景である。

バイクを停めた駐車場までの間、彼女は黙って彼におぶられた。

彼も、黙って彼女の事を抱え、駐車場までの道のりを歩く。

展示会場がある場所からは、少し離れた場所に停めたからか、駐車場へはまだ少し歩かなくてはならない。

その間、気まずい空気が二人の間を漂い続ける。

ひたすら無言で痛い沈黙は、駐車場に着き、彼の愛車の元に辿り着いた事で終わりを迎えるのだった。


「…ほら、着いたぞ…。乗れるか…?」
『う、うん…っ。それは、大丈夫…。』
「帰るのは、俺の家だが…それで良いよな?」
『うん…、良いけど…。それが、どうかした…?』
「いや…帰すのは、俺の家で、アンタの家じゃないんだが…その件で、家に連絡しなくて良いのか…?という意味だったんだが…っ。」
『え………?…………………あ。』


おずおずと言いづらそうに口にすれば、漸く彼の言っている意図に気付いた彼女が、再び固まり、思考停止する。

やっと落ち着きを取り戻していた赤みが、また熱を増して彼女の頬に踊る。

固まった彼女は、半端に口を開けたまま、彼から視線を外し、再び顔を俯かせた。


『えっと…今日は、一日返さない、という体で受け取ってオーケー…?』
「あ、嗚呼…その意図で間違ってないが…。」
『オーケー、オーケー…。解った。うん…っ。解った…。今夜は君の家で過ごすという事は解ったよ…うん。私、今夜は君の家に泊まるんだね…。オーケー、初めて逢った時と同じ図になるだけさ。大丈夫。私、出来る子。何も心配いらないよね…っ!』
「…アンタは、さっきから何と葛藤しているんだ…?」
『自身のガラスのハート並に脆いチキンな精神に言い聞かせてるだけだよ…っ!頼むから、横合いから入って来ないでくれ…っ!!』


何故か、何かに必死に抗おうとする璃子は、彼にそう言った。


「…今日のところは、まだ、何もする気は無いんだがな…。」


そう零した彼の言葉は、届いていない。


一先ず、今日はこのまま友達の家に泊まり込むという件を親に連絡を入れた璃子。

前回の事があるので、きちんと連絡を入れた事に対して褒めた母親は、特に他には何も言わず、相変わらずの二言返事で了承した。

あまりにもあっさりな了承に、逆に拍子抜けした彼女は、微妙な顔を向けて、手元の携帯を見つめた。


「…で?連絡は、どうだった…?」
『え…?いや、それは、普通にオーケーだったんだけど…。』
「だけど、何なんだ…?」
『いや、やけに、あっさり了承するな、と思って…。前回、あんだけ怒られたのにさ…。何でだ…?』
「いや…俺に訊かれてもな…っ。心境の変化ってヤツじゃないのか…?」
『どうなんだろ…?解んないや。』


解らない事に思考を放棄した璃子は、すぐに諦めた。

取り敢えず、なるようになるだろう、と開き直った彼女は、彼のバイクの後部座席へと跨がる。

さっさとインカムを付けてヘルメットを被った彼女は、準備万端である。

変に気の狂った彼は、調子がまだ整わないものの、家へ帰宅する為、彼女と同じようにヘルメットを被り、運転席へと跨がった。

後は、なるようになるだけである。

取り敢えずは、道中何処かへ寄って昼食を済まし、帰路へ着くだけだ。

少しだけ遠出していた今日は、ちょっとだけ家までの距離が長い。

家へ着くまでの道のりは長いが、たまには悪くないかと思えてきた彼は、自嘲気味に笑むのだった。


―空の色が朱色に染まり始めた頃、漸く着いた彼の自宅。

道中、何時もよりも遠出していた事もあって、寄り道をしていたせいもあり、思っていた以上に帰りが遅くなってしまった。

だが、しかし、その事で彼女の帰宅に悩まされる事は無かった。

何でたって、今日は、あの日の事も合わせて二度目のお泊まりになっているからである。

長距離を走らせ、疲れただろう相棒を駐車スペースの端っこへと泊めて、休ませる。

同じように、慣れぬバイクでの長時間の走行に疲れたであろう彼女を連れて部屋へと辿り着く。

鍵を開けて、部屋へ招き入れると、途端にまた発症させる初々しい反応。

変に緊張した様子で、「し、失礼します…っ。お邪魔します…!」と一言告げてから部屋へと上がっていく璃子。

一々面倒くさいのは、もう解り切っている事だ。

そんな様子で、ささっと夕食の準備に取り掛かり、夕食を作った廣光は、彼女と一緒に食べる。

その後は、別々に風呂を済ませ、宣言していた通り何も無く、共に床に就いた二人。

謎に緊張を張り巡らしていた璃子は、そんな状況に拍子抜けであったが、何処か心の内で安堵していたのである。


執筆日:2018.10.20