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懐かしの手



視線を交えたまま固まる事の気まずさや、何たるや。

何の後ろめたい事も無いが、何故かジワリと冷や汗をかき始める璃子は、「あー。」とか「うー。」等の言葉にならない音を漏らした。

意識が起きたばかりな彼は、半寝惚け状態なのか、眠たげに目を半分だけしか開けていない状態で彼女の事を見つめる。

無言の圧力に堪え切れなくなった璃子の方が先に折れ、勇気を振り絞って事実を告白する。


『お、おは、よぅ…っ。その、先に目が覚めちゃったから、起きようかと思ったんだけど…思った以上にガッチリ固定されてたから、代わりに、廣光の観察でもしようとして、髪の毛触ろうとしてたんだけど…そのタイミングで廣光が起きちゃって、この謎な手位置になりました…っ。すみません…っ。』
「…………そうか…。」
『えっと…怒ってる…?』
「………別に…好きにしたら良い……。」
『あ…そ、うなの……?吃驚した…っ。いきなり起きちゃったのにも吃驚したけど…怒ってはいないんだね。』


まだ眠いのか、眠たげな掠れ気味の低い寝起き声で返事を返した廣光。

瞬きも緩慢で、本当に起きているのか定かではなさそうなラインである。


『あの…っ、廣光……?まだ寝るの…?』
「……ん゙ん゙…っ、まだ眠い……もう少し寝る…。」
『そっか……………………。え、まさか、このまま………っ?』


再び抱き込まれた彼女は、彼の良い抱き枕にされた。

先程と体勢を変えた廣光は、彼女を抱き込んだまま寝返りを打ち、今度は彼が壁際に回り、璃子が反対の向かい側の位置となる。

上に伸びていた位置のまま抱き込んだ為か、彼女の胸元に顔を埋める形で再び寝る体勢へと入った彼。

暫くもぞもぞと身動いでいたようだが、その場に落ち着いたのか、再び静かに寝息を立て始める。

慣れぬ状況にどうすべきか悩まされた璃子は、取り敢えず体勢はそのままに、彼に胸元を貸した状態を保った。

だがしかし、空いた手の行方はどうしたものか。

迷った末に、当初の目的であった彼の頭へと持っていく。

そうすると、何やら彼の頭を抱き込むような感じになり、余計に落ち着かなくなる。

だが、彼の髪の感触が気になっていたのも事実。

触っている間だけちょっと羞恥に堪える事にして、触り損ねた彼の頭に触れる。

やはり、ふわり、と猫の毛並みのような柔らかさをした彼の髪質。

起こさない程度に優しい手付きで撫でるように触れていると、ふと、すり…っ、と頭を擦り寄せてきた廣光。

その様子が、まるで本物の猫のように思えた璃子は、途端に頭を爆発させた。

普段スン…ッ、として人と馴れ合おうとしない彼が、珍しく甘えるような姿を見せている。

彼女となった特権と言えば、それだけかもしれないが、常ではそんな素振りさえ見せないような彼が、無意識であるのかもしれないが甘えてきている。

こんな胸がときめく事があるだろうか。

否、彼と同じく人との関係をある種絶っているような彼女の日常の中では、二次元での方を抜いては無いだろう。

故にか、意識せずともニヤけてしまう口許が隠せない璃子。

無性に机か壁をダンダンッ!!としたい衝動が生まれるも、彼を起こすまいとして無理矢理抑え込む。

代わりに、もっと撫でてやろうと再び優しい手付きで触れれば、むぎゅり…っ、と強まる抱く腕の力。

何だか急に、見た目は大きいけれど小さな子供を持ったような気になって、ふにゃりと緩む頬。

胸に込み上げてくる擽ったい愛しさに微笑みながら、暫くの間は彼の頭を優しく撫で続けた璃子。

その内、部屋の静けさと彼の寝息に温かな体温も相俟って眠くなってきた彼女は、彼に寄り添う形で二度寝の眠りに就く。


眠った中で、何時もの不思議な夢を見た。

ただ、その時の夢だけは、今まで見てきた夢とは視点が違って、何時も側に居たっぽい誰かの姿が見えた。

視界に映ったのは、褐色の肌をした男の人の腕だった。

その腕は彼の左腕で、捲り上げた袖から見える其れには、龍のとぐろが巻いてあるようであった。

まるで、肩の方へと昇っていくように伸びる、龍の尻尾。

褐色の腕に在る其れは、不思議と違和感は無く、彼らしいと思える程彼に似合った姿だった。

ふと、視界に映った自身のものらしき手が、その腕に手を伸ばす。

そして、触れた彼の体温が、不思議と自身が知る誰かの其れと重なる。

彼の手が、頬へと伸びる。

無骨ながらも優しく、温かいその手には、憶えがあった。

其の名は、誰であったか。

確か、其の名は…。


『―伽、羅…。』


不意に、意識が途切れて、目が覚めた。

目を開いたら、目の前の廣光が何故か吃驚したように目を見開いて此方を見つめていた。


『…ぅん…?どうかした……?』
「ぁ、いや…不意に、名前を呼ばれたような気がしてな…っ。」
『んぅ……?そういや…夢の中で誰かの名前を呼んだ気がしたけど……誰だったのかな…?覚えてないや…。まぁ、たぶん、廣光の名前なんだろうね…。廣光が驚いたような顔してるからさ…。』


うにゃうにゃと寝惚け眼の状態で寝起きたばかりの声を発する。

ぐみぃ〜んっ、と猫みたいに気伸びしてから漸く寝惚け頭を起こした璃子が、改めて彼の方へ向き直る。


『取り敢えず…おはよ、廣光。廣光が寝ちゃってんの見てたら、何だか眠くなっちゃって…二度寝しちゃったや。もしかして、暇しちゃった…?』
「いや…それはアンタの寝顔眺めてたから、安心しろ。俺の方こそ、気付かずにアンタを抱き枕にしてしまって悪かったな…。おかげで、よく眠れた。あと…おはよう、璃子。」
『うん…うん…?よく眠れた…はよく解んないけど、暇じゃなかったのなら良いや…。私の寝顔なんか見てもつまんなかっただろうけど。』


のんびりと寝過ぎるくらい眠って二人が起きた時間は、午前十時半を過ぎていた頃だった。

すっかりお昼が近い時間まで寝てしまっていた。

それもこれも、寝心地の良い彼のベッドと居心地の良い空間のせいにある。


『う〜…んっ!にゃんか…めっちゃ寝心地良かったせいか、凄くぐっすり寝入っちゃってなぁ〜…。』
「そんなに寝心地良かったのか…?」
『うん…。だって、ウチのお布団、こんなふかふかなんてしてないし…。ベッドじゃなくて敷き布団だし。ウチ、和室だからさ、ベッド使っちゃうと畳傷むんだよね…。』
「嗚呼、そういう事か…。それなら、何時でもウチに泊まりに来てくれて構わないぞ…?アンタなら、貞や国永の奴と違ってあんまり騒がしくないから、困らない。それに、泊まりに来てくれれば、その分、アンタと逢える回数も増える上に、わざわざ逢いに行く手間も省ける…。」
『いや、寝る為だけに泊まりに行くってのは、どうかと…。逢える回数が増える事には嬉しいけど、その分、廣光の負担が増える気がして申し訳ないよ…。大学生だから学業だってあるし、アパートの光熱費とか食費だとかさ?』
「…アンタ、意外と現実的なんだな…。」
『ロマン的なものが欠けてて、すんませんね…っ。』


意外だ、という目を廣光に向けられ、夢を壊すようでごめんなさいね、と申し訳なさそうな顔をする璃子。

呆れられたかしら、と逸らしていた視線を元に戻した先で、彼は笑っていた。


「いや…アンタらしいと思う。そうやって変に飾らないところが、俺は好ましく思う。」
『…………。』


急に無言となった璃子。

不思議に思った彼は、首を傾げる。


「どうかしたか…?」
『いんにゃ…何でもないデス…っ。』


唐突に顔を覆った璃子は、俯いて思った。


(何で、そう、何でもない時に爆弾を落とすかなぁ…ッ!!嗚呼、もうっ、慣れないわ、この距離感…ッッッ!!)


口から吐き出したい叫びを、寸でのところで引き止め、堪える。

此処で叫んでしまえば、変な奴指定のレッテル間違いなしである。

何とか堪えた璃子は、止めていた息と共に深く溜め息を吐き出す。

全く、言葉といい笑みのタイミングといい、心臓に悪いったらない事である。

少しだけ恨めしく思えた彼女は、廣光の事をジトリとした半目で睨んだ。


「何だ…?いきなり睨むように見つめて…。」
『いーえ、べっつにぃ〜…?変に私ばっか意識してるみたいで、何かなぁ…?って思っただけですぅ〜…っ。』
「は……?」


ずっとベッドに寝転んだままで居るのもどうかと思い、身を起こした璃子は、ベッドから降りて着替えようと床に足を着ける。

そして、腰を上げた途端、突如、浮かせた腰を引かれ、後ろへと倒れ込む。

急な事に付いていけないで目を白黒させていると、腰を引いた本人である彼が、上へと乗し掛かって言った。


「誰が、意識してないって言った…?」
『え…っ?いや、そのぉ…っ。』
「何時、誰が、意識してないだと…?」
『あ、えと…っ、その、何時とか、そういうんじゃなくてですね…っ。(二回言われたぁ…!!)』


急に視点が変わった事にも驚きつつ、しどろもどろに口をもごもごとさせる璃子。

必死に言い繕い、目を泳がせる様子に、彼は顔を近付けて言った。


「意識してるのが、アンタだけと思うな。」
『ぇ………っ。』
「俺だって、意識してない訳じゃないんだ…。アンタと晴れて結ばれたというだけでも嬉しいのに、これ以上望めば、アンタを傷付け兼ねないから、下手な意識を持たないように自制しているだけだ。意識してないと、勝手に決めつけるな。」


ギラリ、熱の込もった金色の睛が、璃子の事を射抜く。

何故か、その目に見惚れ、瞬きを忘れた彼女は、ポカン…ッ、と惚けたような顔で静止する。

小さく口を半開きにさせたまま、そんな無防備な様を見せる彼女に、彼は少しだけ加虐心が生まれたのか、近付けていた顔を更に近付け、耳元に口許を寄せ言う。


「こうやって俺が上に乗し掛かった状態で、そんな風に無防備を晒していたら、その内喰われるかもしれないという自覚は持った方が身の為だぞ…?でないと、俺も男の端くれなんでね…。手が逸って、アンタを喰ってしまうかもしれない。それか、ひょっとした不意に、タガが外れて、アンタに襲いかかるかもしれないな…。それで良いと言うなら、今のままでも良いが…?」
『ッ………!!』


低く響く癖のある声に、知らず知らずゾクリと肌を粟立たせた璃子。

耳に当たる吐息にも慣れず、急上昇する体温で頭は沸騰し、頬はカッと赤く染まる。

早く離れてくれとキュッと目を瞑るも、瞑ったのが逆効果だったとは、この後に後悔した。


「だから、不用意に煽るような事は言ってくれるな。じゃないと、本当にアンタを抱くぞ、璃子。」
『ひ、ゃ………っ!あ……っ!?や、あの…っ、すみません…っ!!』


低く言葉を続け、不意打ちで名前を呼んだ彼に、思わず反応してしまった彼女は、変な声を発してしまった口をすぐに覆い謝るが、漂ってしまった微妙な空気は戻らない。

一瞬、気まずい沈黙が落ちる。

先に口を割ったのは、廣光の方であった。

意外にも、すんなりとするりと身を離した後で、口を開く。


「…まぁ、そういう事だ…。解ったか…?」
『……ハイ…。物凄く…っ。』
「そうか…。それならば、良い…。」


再び、お互いの間に沈黙が落ちる。


『…そろそろ、朝御飯にしよっか…。お昼近いから、昼御飯も一緒みたいなモンだけど…。』
「…そうだな…。起きるか。」


漸くベッドの上から移動した二人は、それぞれ口を閉ざしたまま動いていく。

着替えを済まし、洗顔も済ませ、二人で役割分担をして朝食を作り上げると、二人して静かに手を合わせ、「いただきます。」と呟く。

口に運んだ朝食の味は、変に緊張してしまった為か、解らなかった。

終始、気まずい空気のまま、無言で食事を終えるのであった。


執筆日:2018.10.22