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深淵を覗く



彼女が落ち着いた事で、一先ず安堵した貞宗は、安心した様子で声を漏らした。


「はあぁ〜…っ、一時はどうなるかと思ったけど…何とか落ち着いてくれて良かったぜ…っ。にしても、ここまで取り乱されるとは思わなかったな…幾ら、思い出すのも辛い過去だとしてもさ。」
「…それだけ、此奴の中じゃトラウマ的記憶になっているんだろう…。そもそもが、ただの記憶じゃないんだ。魂に刻み付けられた、前世の記憶だ…。此奴が最も恐れ、奥深くに仕舞い込んできた、な…。自分自身を守る為保つ為に、今まで思い出さないよう、此奴自身の心が封じてきていたんだろうが…記憶に関わる者達と接触した事で、其れが紐解かれ始めたというところだろう…。恐らく、今回の夢が、一番核心に迫った内容だった筈だ。でなきゃ、此奴がここまで取り乱す訳がない…。」
「それは、そうなんだろうけど…良かったのかよ、伽羅はよぉ…?」
「何がだ…?」
「璃子に本当の事、言わなくて…。」


貞宗は、彼の方を真っ直ぐと見つめる。

その視線に、廣光は、ふと視線を逸らした。

逸らした先で、向けた視線の先に映る彼女の事を見遣る。


「…時が来れば、ちゃんと口にするさ…。だが、いっそ、何も言わないでいたままの方が…此奴自身の為には良いのかもしれないな…。」


腕に抱いた彼女の身をそっと抱え上げた廣光は、ゆっくりと自身のベッドへと横たわらせる。

真っ直ぐに寝かせた後、見遣った顔の涙の痕が痛ましいものの、彼女はぐっすりと寝入っている。

彼は、睫毛の先に残っていた涙の粒を指で拭ってやり、優しい手付きで彼女の頭を撫で慈しんだ。


「俺は…此奴が苦しむくらいなら、過去の事なぞ思い出さなくて良いとすら思っている…。」
「でも、それじゃあ伽羅は……っ。」
「俺の事は、良いんだ…。ただ、これ以上、此奴が…璃子が苦しむ姿は、もう見たくない…。」


辛そうに顔を歪めた廣光は、彼女の額に自身の額を寄せて、そう呟き、目を閉じる。

一度は、彼女へと伝えられない想いも全て背負うと決めた、彼の内に秘めていた本心の姿だった。

その姿に、二の句も思い付かずに何も言えなくなった貞宗は、押し黙った。

まだ薄暗いままの部屋の中に、静かな沈黙が落ちる。


「…一先ずは、此奴は俺のベッドで寝かす…。暫く様子を見て、大丈夫なようなら、そのまま寝かせて、俺も寝る。」
「うん…その方が良いだろうな。」
「貞…お前は、寝とけ。まだ夜が明けるには早い…寝れる内はしっかりと寝ておけ。此奴の事は、俺が見ておくから…。」


不安そうに顔を下に俯かせる彼の頭に、廣光は安心させるように手を置いた。

優しく諭すように言う言葉に、彼は小さく頷く。


「ん……っ、解った…。んじゃ、また朝にな…伽羅、おやすみ…。」


廣光に背を向けた彼は、言われた通り、もそもそと自分の布団へと戻り、寝直す。

その様子を黙って見つめた廣光は、少しだけ申し訳なさそうな切なげな表情を浮かべて、目を細めた。

そして、静かに彼女の隣に寄り添うように身を横たえて、涙の痕を残す頬を指の背で撫ぜる。


「………アンタの大切にしてたものを…、守ってやれなくて、すまない……………っ。」


眠ってしまっている彼女に、彼の呟きは届かない。

代わりに、まだ眠りには就いていなかった貞宗が黙って聞いていた。

物悲しい空気の漂う、午前二時半を過ぎた真夜中だった。


―カーテンの隙間から漏れる朝日に、目を覚ました璃子は、少し腫れぼったく重く感じる目蓋を緩やかに開いた。

そうして、目の前で眠る愛しき者の寝顔を目にする。

少し苦しそうに眉間に皺を寄せて眠る彼の目の下には、うっすらと隈が出来ていた。

昨晩、寝付く前には出来ていなかったものだ。

「何故、いつの間に彼のベッドで寝ていたのか…?」という、起きた直後に思い浮かんだ疑問よりも気になるソレに、璃子は無意識に手を伸ばす。

起こさないようにと優しい手付きでそ…っ、と薄く黒く縁取られた線を指先でなぞる。

すると、緩く目蓋を震わせた彼が、目を覚ました。


『あ………、起こしちゃったかな……?おはよう、廣光…。うっすら隈出来ちゃってるけど、昨日はよく眠れなかった…?』
「…起きたのか……おはよう。身体の調子は、大丈夫か…?」
『え……っ?別に、何処も悪くなったりなんてしてないけど…それが、どうかした…?』
「いや…昨晩、夜中に酷く魘されていたようだったからな…念の為に、聞いただけだ。何ともないと言うなら、それで良いんだ…。」


寝不足で眠たげな表情ながらも、優しく微笑む彼に、少しだけ引っ掛かりを覚えた璃子は眉を潜める。


『夜中に魘されてた…?全く覚えがないんだけど…。』
「覚えていないのなら、それで良い…。その方が、アンタには幸せだろうからな…。」
『え………?それ、どういう意味……っ、』


問いかけ終える前に、言葉を遮るようにして抱き締めてきた彼に、二の句を告げれなくなってしまう璃子。

複雑な思いのまま、よく解らないながらも彼の背に腕を回し、取り敢えずはその意に応える。

複雑に絡まった糸が、心の内でぐしゃぐしゃと更に絡まり、ダマとなる。

不安に渦巻く思考が、また新たな蟠りを生んだ。


起き上がり、身支度を整えた後、少し遅めの朝食を用意していると、匂いに釣られて起きてきた貞宗が、大きな欠伸を上げながら台所へと歩み寄ってきた。


「ふわぁ〜あ…っ、おはようさん……っ。今日の朝飯は何だい…?」
『おはよう、貞宗君。何だかまだ眠そうだね…?昨日はよく眠れなかったのかな…?』
「ん゙ん゙〜っ、ちょっとなぁ…っ。」
『何か私、夜中魘されてたらしいから…たぶん、そのせいだよね…?ごめんね、成長期の貴重な睡眠時間妨害しちゃって…。』
「まぁ、気にすんなって…!俺のは、休みの日の朝じゃ、何時もの事だから…っ!」


璃子が申し訳なさそうに謝ると、彼は明るく笑顔でニカッと笑って言った。

まるで、彼女が何も気を遣わないで良いようにするみたいに。

笑顔で返した彼に安心した璃子は、小さく笑みを返して「ありがとう。」と口にする。

中学生ながらも、空気を読める彼は、見た目よりも遥かに聡い。

前世の記憶をそのまま保持する身なら、当然といったところなのだろうが、その事を知らぬ故に現実というものは残酷だ。

少し遅めの朝食を摂った後、彼は「せっかくの二人の時間を邪魔するのは悪い!」と言って、常よりも早く帰っていった。

璃子は、それを半ば呆然とした様子で見送ったのだった。


貞宗が居なくなった事で、当初予定していた通りに、彼と部屋に二人きりとなった璃子。

しかし、昨夜の事があるからか、二人の間に漂う空気はぎこちないものが漂っていたのであった。

どう話を切り出したら良いのか解らず、璃子は無駄に唇を引き結び、押し黙っていた。

明らかに、昨日の彼との様子が異なり、可笑しい。

微妙によそよそしい彼の態度に、璃子は疑問を抱いていた。

恐らく、原因は、昨夜自身が魘されていた事にあるのだろう。

だが、何か其れ以外にも理由があるような気がして、璃子は考え込む。

不意に、考え込む彼女へと彼が手を伸ばし、触れた。

そして、己の内に抱き込み、彼女の額や腫れた目蓋に触れるだけの口付けを落とす。

頬にまで落とされるソレに、擽ったさを覚え、思考が中断された璃子は、僅かに身を捩り抵抗を見せた。

彼女の感情の機微に察した廣光は、口付けを止め、彼女の顔を覗き込む。


「今のは、嫌だったか…?」
『いや…嫌って訳じゃなかったんだけど、少し擽ったくて、慣れなくて…っ。』
「…そうか。なら、少しずつ慣れていけ…。」


些か、彼女からしたら無理難題的な事を言うと、廣光は彼女の首筋へと顔を埋めた。

その流れのまま、彼は彼女の首筋に唇を這わせ、口付ける。

ゾクリ、と慣れない感覚に戸惑いつつも、今はそんな気分じゃないと雰囲気に流されまいとして、制止の意味を込めて彼から身を離そうとした。

拒む彼女の様子に怪訝に思った彼は、行為を止める。

真っ直ぐと彼女の目を見据えて見つめる。

璃子は、そんな彼の目を見つめ返して、重い口を開いた。


『廣光……もしかして、私に何か隠してる事無い…?』
「…何の事だ?」
『今朝から…何だか私に対する態度が可笑しいっていうか、違和感を感じるというか…何か、そんな感じがして。』
「……別に、俺は、アンタに対して何も隠していたりなんてしていない…。」
『嘘だ。明らかに、今、考えてるような間があったでしょ。何を私に隠してるの…?其れは、私には言えない事なの……?』
「……………。」


廣光は、彼女から視線を外し、無言を返す。

それでも、璃子はめげずに思いを伝えた。


『もし、言える事なのなら、教えて欲しい…。どうしても言えないという事だったら…廣光が言えるようになるまで待つから…っ。だから、言えるようになったら…教えて?』


優しい彼女の、一歩引いた譲歩だった。

彼は、俯き加減に下を向きながら、奥歯を噛み締めた。


「………すまない…っ、今はまだ…アンタに言える勇気が、無い………っ。悪い…………!」
『…ううん…っ、良いよ。何時か教えてくれるなら…その時を待つから。答えてくれて、ありがとう、廣光…。』


彼女は、少し哀しげに笑った。

彼の心に、また一つ、傷が付いた。


その日は、特に出掛けるという事もせず、一日彼の部屋で過ごした。

まだお互いに一線を引いたままの二人は、ちょっとの一歩を進めず、恋人としての先に行けぬまま、また今日を終える。

その日の夜も、璃子は悪夢を見るのだった。


其れは、何時も見ている不思議な夢であり、誰かの視点を通したような夢であった。

だが、何時もとは違い、今日の夢は誰かの視点ではなく…何時の日か見た、恐らく自分なのであろう者の視点だったのだ。

夢の中の視界は、昨夜も見たであろう古く広いお屋敷のような場所を映していた。

焔に包まれた屋敷の中で、暑い熱気を感じつつ、何処かへと必死に向かいながら、ドタバタと忙しなく腕と足を動かし駆ける。

夢に出てくる自分は、決まって和服を着ているようだった。

視界が後ろを振り返ったのか、駆けていく背後の景色が目に映り込む。

何か、黒い靄のようなものを纏った異形が追いかけてきているようだった。

異形からは、刃物らしき鋼の照り返しが見えた。

其れは、嫌な鳥肌が立つ程、嫌な空気を感じた気がした。

行く手を阻む襖や障子を開け放ち、幾つも存在する部屋の中を縦横無尽に駆け抜ける。

首筋からは、冷や汗が幾つもの筋を作って伝い落ちていく。

額からも汗が吹き出て頬を伝っていくも、そんな些細な事に構っている程の余裕は無かった。

この足を止めれば、命を失う。

其れは、生と死の瀬戸際を賭けた命懸けのレースであった。

誰かに助けを求めようと口を開き、必死で叫ぶも、何故か声は出てくれない。

ただ死にたくないという意思のみで、広い屋敷内を駆けていく。


(こんな処で、私は死ねない…!!)


そんな強い想いを胸に、ひたすら広い建物内を駆け抜けていく。

足元の足袋は、既に擦り切れていた。

走り続けた為に、胸が苦しくなってきて、呼吸がしづらくなる。

次第に足は疲れてきて、力が入らなくなってくる。

しかし、此処で転ぶ訳にはいかないと必死で力を振り絞るも、体力には限界があるというもの。

もう少しで或る場所に辿り着けると思った時、視点の彼女は転んでしまった。

瞬時に立ち上がろうとして首を上げた途端、顔の横を刃が通り過ぎる。

刃が視界の端を横切ったと認識した時には、頬には一筋の赤い筋が出来ていて、鋭い痛みが走った。


執筆日:2018.10.30