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歴史の残滓



黒い靄が通り過ぎた後に、ポタタ…ッ、と小さな赤い血痕が畳に散った。

痛みを意識した途端、身体は恐怖に支配されてしまった。

全身が脳からの伝達を無視し、恐怖に固まって動かない。

動かねば、このまま殺されてしまうのに。

ただ身を震わせるだけで、その場に立ち竦む。

お願いだから、誰か助けに来てはくれまいか。

恐怖のあまり、緩んだ涙腺からは涙が溢れてくる。

忽ち視界が歪み、目の前がよく見えなくなってしまう。

黒き靄の刃が、視界に迫る。

死にたくなくて、恐怖の元を映す目を瞑り、視界をシャットアウトする。

耳につんざく不快音を聞きたくなくて、耳を塞いだ。

あらん限りの声を喉から絞り出し、叫ぶ。

しかし、何れだけやっても、声は出ない。

悔し涙が、頬を伝った。


『…伽、羅……っ。』


枕元に置いていた彼に貰った御守りへ無意識に手を伸ばし、掴み、縋るように胸元で握り締めた璃子。

夢に過去を見て、魘されながらも眠る彼女は、小さくか細い声で彼の名を呼んだ。

眠る彼女の横で、浅く眠りの淵を漂い、目を瞑っていただけの彼は、その声に目を覚ます。

そして、胸元で握り締める彼女の手に、そっ、と自分の掌を重ねた。

彼女が縋るように、彼の方へと寝返りを打ち、添う。

其れを、彼はただ受け入れ、彼女の身を己の胸に寄せた。

璃子は、まだ夢の続きを見ていた。


場面が移り変わった先で、彼女は傷だらけの身を引き摺りながら、何とか異形から逃れていた。

「は…っ、は…っ!」と荒い息を肩で繰り返して、血の流れる腕を押さえつつ、辺りを見渡す。

至る処から刃を交える音が聞こえてきていた。

刃と刃がぶつかり合う金属音が敷地中に響き渡る。

視界の彼女が、誰かを探すように忙しなく首を巡らす。

焦った様子で近くを見渡す傍らで、カタリッ、何か木みたいな物が落ちるような音がした。

彼女がその方へと首を向けた瞬間、璃子は息を飲んだ。

ゆらゆらと揺らめくものは、熱くて赤い、全てを焼き尽くさんとするものである。

璃子の思考に、絶望の文字が浮かんだ。

焔が、瞬く間に辺りへ移り走り、燃やしていく。

火の勢いは強いのか、辺りはあっという間に焼けてしまった。

逃げ場を失った彼女は、焔に焼け落ちていく建物を呆然と見つめる。

焔に逃げ道を絶たれ、建物のすぐ側に居た彼女は、焼け落ちた屋根や壁の破片が降ってくるのに巻き込まれ、燃える地に伏せてしまう。

遠退いていきそうになる意識の中、何とか意識を繋いで、顔の横に手を付く。

燃え盛る焔の先で、蒼白い炎を見た気がした。

其れは、先程対峙していた異形の者よりも、とてつもなく禍々しい気を放っていた。

愛しき者の声が、遠い意識の端で聞こえる。


(嗚呼…っ、死んでしまう前に、一度だけでも、彼の元へと逢いに行きたかった…っ。逢って、一言だけでも、言葉を伝えたかった……!)


ギラリ、視界に禍々しく光る槍の穂先が映る。

璃子の喉が夢と共鳴して、引き攣る。


(最期に、何も言い残せなくて、ごめんなさい…っ。どうか、貴方だけでも無事に生き延びる事が出来たなら…っ、貴方だけでも生きて……!)


ユラリ、冷たき刃が煌めいた。


(もし、次の来世でも貴方に出逢える事が出来たなら…私は、貴方に逢いたい…っ。貴方の事を、愛しているから…っ、今度こそ、貴方に好きだと伝えたいから…!)


ゆっくりと刃が振り翳される。

見たくない光景なのに、目を逸らせない璃子は、瞬きも出来ずにその光景を見つめる。


『…生きて、伝える事が出来なくて、ごめんね…っ、伽羅………ッ!』


ズクリッ、槍の切っ先が、夢の中の彼女の胸へと突き刺さる。

ゴボリ…ッ、と不快な音を立てて、彼女の喉から血が溢れ出す。

誰かの悲痛な叫び声が聞こえたところで、視界は真っ暗に落ちていった。


『はッ…………………!!ッ、…はぁ…、はあ…っ、はぁ………ッ!』


気持ち悪い程に寝汗をぐっしょりとかく中、璃子は目を醒ました。

瞳からは、既に留め切れない程の涙が溢れ、頬や髪に伝っていた。

起きた今も、涙は止まらず、溢れ続けていた。


「…璃子……。」


彼女が眠る傍ら、ずっと側に寄り添い続けていた彼が、優しい声音で彼女の名前を語りかける。

その声に、璃子はどうしようもなく想いが込み上げてきて、涙を溢れさせた。


『廣光……ッ、ううん…っ、伽羅………ッ!貴方の事、あんなに好きだったのに……っ、今の今まで憶えていなくて、ごめんなさい…!忘れてしまっていて…、ごめ、なさぃ……っ!!』
「璃子……っ、という事は…もしかして、思い出したのか…っ!?」
『ぅ、ん…っ。ひ、っぐ……!何となく、今までも違和感はあったのだけど…其れに、気付けなかった………っ。伽羅は…、廣光は、ずっと待っててくれたのに…っ!』


しゃくりを上げながら、子供みたいに嗚咽を漏らし、涙する璃子。

そんな彼女に、待ち続けてきた彼は、珍しくも顔を歪めて彼女を胸に掻き抱いた。


「…思い出してくれたのなら、其れで良い…っ。アンタが、俺をちゃんと憶えていたという事だけでも……!」
『でも…私…、結局死んじゃったんだね…っ。皆の事、誰も守れずに……伽羅の事も、前の事も全て忘れて、今まで何も知らずに生きてきたんだね…っ。私の事…ずっと探してくれてたんだろうに…っ、薄情な女でごめんね………?』
「もう、良いんだ…っ。アンタは、俺の事を思い出した……。今は、其れだけで良い…………!」


やっと、本当の意味で繋がれた二人は、強く強く抱き締め合った。

これまで、再び出逢う其の日まで、ずっと離れ離れだった互いの存在を確かめ合うように…。


―翌朝…。

抱き合ったまま眠りに就いていた廣光は、腕の痺れを感じて目を覚ました。

隣では、愛しい彼女がまだ眠っている。

昨夜、漸く生前の頃の記憶を思い出した璃子は、酷く泣き疲れた後、安心したのか、意識を失うように眠ったのであった。

故に、今まで以上に愛おしく想う気持ちを隠しもせず、彼は璃子の頬に触れた。

触れた熱に、違和感を感じた廣光は、眉を潜め、額や首に触れる。

何時も触れる常の彼女の体温と比べて、微かに熱を持っている気がした。

彼の触れてくる手に擽ったさを覚えたのか、遅れて目を覚ました璃子は、寝起きのぼんやりとした視界で見つめる。


『ん…ひろみつ……?どうかしたの…?』
「起こしちまったか…悪い。起きて一番に、アンタの温度を確かめようとしたら、少し熱かったみたいだったんでな…。昨日、かいた汗も拭わず、別の新しい服に着替えさせもしなかったせいか、風邪を引かせてしまったようだ…。すまん。」
『別に、廣光のせいとかじゃないよ…っ。強いて言うなら、何も対策しなかった私が悪い!』
「昨日はそこまでの余裕なんて無かっただろう…?お互い様だ。取り敢えず、何か食って大人しくしておかないとな…。起きれるか?」
『ん…っ、まぁ、ちょっと気怠いかなってぐらいなだけだから、起きれるよ。』
「そうか…。なら…起きて、シャワーで汗を流すか、濡れたタオルで身体を拭いてから、服に着替えとけ。そのままで居るのは、風邪を悪化させる事になって、余計にマズイだろうからな。」
『うん…そうしとく。』


少し身体が気怠い程度だったので、璃子はシャワーを使って汗を流し、新しい服へと着替えた。

その間、御飯を作った廣光は、具合の悪い彼女の為に、消化に良いようにお粥を用意する。

この時は、まだ比較的食欲のあった璃子は、其れを完食しきった。

だが、ずっと封じ込めてきた前世の記憶を思い出した反動か、徐々に体調を悪化させた彼女は、夕暮れ時、部屋を移動しようとした際に倒れた。

焦った廣光は、急いで休日で仕事が休みだった光忠を呼び出し、車を用意する。

緊急時だとすぐに応答した彼は、快く承諾し、車を出してくれた。

駆け込んだ先の病院で、今は粟田口一期を名乗る先生が、懇切丁寧な様子で診てくれた。

結果は、脱水症状を起こした事による貧血で倒れたとの事だった。

きちんと水分を取り、安静にしておけば、次第に快復していくのだと言う。

彼女をまた失うのかもしれないといった焦りを抱えていた廣光達は、ホッと胸を撫で下ろしたのであった。


まだ熱の引かない様子の璃子は、翌日の朝も寝込んだままだった。

起きて、体温計を脇に挟んで熱を測ってみるも、数値は三十八度一分を指している。

完全に沈没したままの状態であった。


「起きれそうか…?」
『ん゙ん゙〜…っ、ちょっと無理かも…キツくてしんどい……っ。』
「…そうか…。起きれるようになったら、少しでも良いから何か食え。何か腹に入れないと、良くなるモンも良くならないからな…。」
『ん゙ぅ゙…っ、食欲無いよぉ…。』
「それでもだ。」


健気に付きっきりで看病する廣光は、頑として譲らなかった。

何処ぞのオカン気質を持つ伊達男に似たのか、彼は献身的に彼女へ付き添った。

それ故に、これまで一度も休んでこなかった大学を休んだ。

突然の欠席に、嘗ての仲間達であった友人達は心配し、取っていた午前の授業を終えた後、行ける者達のみを引き連れて彼の家へと見舞いに行った。

タイミングの悪い事に、其れは廣光が買い出しに出ている時の事であった。

来客が来た事を告げるチャイムの音が、彼の部屋に響く。

彼が留守の間、来客があるとの話は聞いていなかった璃子は、「心配した光忠辺りがお見舞いに来たのかな…?」と思い、気怠く重い身体を何とか起こし、ふらついた足取りで玄関へと向かう。


『はい…、どちら様で……?』
「…………………え?」


ドアの真ん前に立っていた山姥切は、出てきた人物が女性である事と、その人物が嘗ての主であったという事に、二重の驚きで混乱し固まる。

まさか、来客が彼等とは思いもしなかった璃子は、まだ朧気にしか思い出せていない記憶を手繰り寄せて、言う。


『…もしかして、国広…?』


息を飲んだ彼等の視線が、まだ本調子でない彼女へと突き刺さった。

メッセージに遅れて気付いた廣光は、慌てて急ぎぶっ飛んで帰ってきた。

彼が帰り着く頃には、彼等は見舞いの品だけ置いて帰っていった後であった。


「璃子…っ!!彼奴等は…っ!?」
『お、おかえり…っ、物凄い勢いで帰ってきたね…。国広達なら、たった今帰ってったよ?』
「クソ…ッ、一足遅かったか…!」
『詳しい話は、また今度聞くから…今日のところはお大事にって、見舞いの品くれたよ。本当は、廣光が具合悪いと思ってお見舞いに用意した物らしいけど。』


彼女の手には、近くのコンビニで買ったのであろう、大きなプリンとフルーツがたっぷり入ったゼリーに、アイスのカップが入った袋があった。

仲間想いの優しい奴等であった。


―廣光の看護や彼等の応援のおかげもあり、数日後には、すっかり快復して元気になった璃子は、経過を診せに粟田口診療所へと来ていた。

経過といっても、ただの高熱と脱水症状というもののみだった為、きちんと良くなった様子の彼女を見て、彼は一安心した。


「もう大丈夫なようですな…。また貴女の元気な笑顔が見られて良かったです。」
『ありがとうございました、粟田口先生…!それとも、一期先生と呼んだ方が良かったですかね…?』
「私は、どちらでも構いませんよ。貴女のお好きなようにお呼びくだされ。」
『ふふ…っ。まだ何だか慣れないから、変な気分…。』


まだ完全に全てではないものの、寝込んでいる間に色々と思い出していった彼女は、審神者だった頃のように凛とした懐かしい顔をしていた。

記憶を取り戻した、そんな彼女に、未だ時を彷徨っていた黒き魔の手は迫る。


執筆日:2018.10.31