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龍の燈(トモシビ)【前編】



人気の無い、とある路地裏を歩いていて、ふと、漂う空気が違う事に気付いた璃子は、ハッとして辺りの景色を見渡した。

すると、振り返った先、遠く離れた街路樹の茂みに、うっすらと黒き靄を纏ったような姿を見付けた気がした。

瞬時、頭に過ったのは、数日前見ていた夢の内容である。

不意に、今居る自身の状況と夢で見た光景が重なって見えた。

ゾワリと悪寒を走らせた璃子は、顔色を青くさせて身を翻し、その場から駆け出す。

出来る事なら、ただの取り越し苦労か気のせいであってくれと願い、駆け出した先、少し走ったところで背後を振り返ってみる。

すると、ただの目の錯覚ではなかったようで、此方に存在を気付かれた事を察知した様子の影は、彼女の事を追い掛けてきていた。

何の悪夢だ。

悪夢なら、早いところさっさと覚めてくれと思うも、何の因果なのか、彼女を追ってくる黒き靄を纏いし影は、現実の出来事であった。

再び繰り返される、彼女のトラウマ的現象。

病み上がりでまだ完全な本調子とは言えず、更には、寝込んでいた事で体力の落ちている現状の彼女にとって、最悪な状況となっていた。

相手が弱っているところに漬け込み、襲ってくる等、万死に値する。

何処ぞの文系刀だった彼が、もし此の場に居たならば、雅さの欠片も無いと憤慨して斬り伏せていた事だろう。

だがしかし、彼が何処に居るかも知らない、そもそもの今世に居るのかも知らない彼女には、頼れない相手であった。

璃子は、全力疾走で路地裏道を駆け抜けながら、バッグの中身を漁り、携帯を手にする。

取り出したスマホ端末を疾走する片手間に操作し、何度も掛けたであろう番号を画面に表示させ、その番号へ繋げる。

数回のコール音を挟んで、自動音声が流れる。

「早く繋がってくれ…!」と逸り焦る気持ちのまま、すぐに同じ番号へと掛け直す。

しかし、繋ぐ先の彼は、電話に出ない。


(クッソ…!何で、こんな緊急な時に限って繋がらない…っ!?)


其れも、当然の事であった。

今日は、ただの平日な日であった為、彼は現在進行形で大学の授業を受けている真っ最中だった。

授業を受ける最中、電話に出る事など出来ない。

更に言ってしまえば、授業を受けている時はマナーモードに設定している為に、鞄の奥深い処や服のポケット等に入れていれば気付かないのだ。

焦るあまりに、そこまで頭が回らない璃子は、必死で何度も繰り返し彼の携帯へと掛ける。

その間も、変わらず走る速度は落とさずに、ひたすら先へ先へと走り続けた。

脳裏には、数日前見た夢がずっとこびり付いたままであった。

再び甦ってくる恐怖と悲しさに、璃子の心は苛まれる。

襲い来る寒気と過去に受けた痛みが彼女の身を侵し、震えを生んで足の動きを鈍らせた。

だが、残った理性だけは、今度こそ生き延びてやると強く保ち、懸命に足を動かし続けた。

路地裏を抜け切り、大通りへ出ると、すぐに右手の角道へ駆け込み、野良猫のように素早く障害物を避け、走る。

建物の影に隠れ身を潜めて、一時的に奴等を撒く作戦に出た璃子は、息を殺して奴等が標的を見失い、去ってくれるのを待った。

運良く作戦に引っ掛かってくれた影達は、案の定彼女の姿を見失ってしまったようで、ふよふよと辺りを見回しながら先の道へと去っていく。

「しめた…!」と思った彼女は息を殺したまま、逃げ込んだ角道の先を急いだ。

足を速め道を急ぐ中、最後の頼みの綱だと覚悟を決めて、まだ一度も掛けた事の無い、とある番号へと掛けてみた。

此れが繋がらなければ、頼みの綱も切れる事になるのである。

璃子は、蜘蛛の糸を掴む思いで、必死に祈りを捧げた。

数回のコール音が繰り返される。

幸いにも、奴等はまだ彼女の逃げた先に気付いていない。


(頼む…っ、繋がれ…!繋がってくれ……っ!!)


耳元で鳴り続けるコール音に、ひたすら祈り続けた。

不意に、コール音が止み、電話が繋がる。


<はい、もしもし、長谷部です。>


繋がった先で、掛けた先の相手が出た。

願いが届いたと歓喜した璃子は、口早に用件を伝えた。


『もしもしっ、長谷部さんですか…!?花江です!!花江璃子です…っ!!今、とても切迫した状況なんですが、お話宜しいですか…!?』
<え?あっ、はい、勿論です…っ。それで、一体何がどうされたので?>
『単刀直入に言います!助けてください…っ!!今、現在進行形で時間遡行軍の残滓と思しき奴等に追われています…!何とか一応撒く事は出来ましたが、それも何時まで持つか…っ。』


繋がって即、璃子は長谷部へ救難信号を発した。

突然の連絡と電話の内容に驚きながらも、彼は彼女の言葉に答える。


<一先ず、状況は解りました。して、今はどちらに…!?>
『粟田口診療所から出てすぐの大通りから人気の無い路地裏を抜けて、先にある別の大通りを通って、右手の角道を曲がった先を今は走って……っ、』


彼に今居る現在地を伝えようとした突如、彼女の目の前に何かが飛んできて、彼女に襲い掛かった。

咄嗟に避けようとして、璃子は首を逸らす。

その瞬間、繋がったままの携帯は弾かれ、手から離れて地面へと転がっていく。

反動で少しよろけながらも、思わず驚いて少し先にある携帯を見つめてみると、何か鋭い物に傷付けられた跡があるのに気付いた。

急いで拾い上げに行き、生きているかを確認してみたら、完全に事切れてご臨終していた。

此れで、彼女は一切の連絡手段を失った。

ふと、プツンッ、と切れた首元のネックレスが首からずり落ちかけ、慌てて掌で掴み受け止める。

そっと首から外して、握り込んだ掌の中を開き見てみる。

すると、金具に繋がれていた紐が途中の部分から切れてしまっていた。

廣光から貰って大切にしていた御守りのネックレスの紐が、切れた。

彼女の中で、ぶわりと恐怖心が広まる。

遅れて、彼女の首筋に一筋の赤い線が走った。

微かな鉄臭い匂いが辺りに漂う。

幾つかに散らばっていた残滓は次第に集まり始め、数を増やす。

反対に、対峙する彼女は一人だ。

勝ち目など、最初から無かったのだった。

複数対一人、多勢に無勢も良いところであった。

おまけに、審神者ではなくなった彼女は、今はただの人で、何の力も持たなかった。

一度は死んだ彼女の死に舞台が、再構築された事になる。

目の前が真っ暗になっていく璃子は、足元をふらつかせながら、徐々にゆっくりと後退していく。

カチリ、背後で聞こえた金属音に、バッ!と勢い良く振り返ってみれば、笠を被った影がユラリと歪んで見える刀を構えていた。

前後左右、完全に敵に囲まれたようだった。

正に背水の陣で、逃げ場を絶たれた璃子は、引き攣った笑みを浮かべた。


『は、ははは…っ。相変わらず、しつこいんだよお前等さぁ…!何処まで追ってくれば、気が済む訳…?』


切れた部分も纏めて巻き込んで掌に巻き付けた璃子は、まだ御守りとして生きている事を願って、ネックレスを握り込む。

彼女の意思を受けて、ネックレスの飾りが掌の中で淡く光る。

絶望に暮れ、今度こそ終わりかと見えた時、璃子は意外にも啖呵を切って言った。


『此処まで追いつめられたからって、それで“はい、そうですか”と簡単に殺られる訳が無いだろ…?私を誰だと思ってるんだ。早々二度も殺られて堪るかってんだよ…っ!私は、生きて、今度こそ廣光と幸せになるんだよ!!せっかく記憶も思い出して本当の意味で繋がったっていうのに、邪魔するんじゃねーよ、この空気も読めない歴史クラッシャーのクソ野郎がぁ…ッ!!』


無謀とも言えるその挑発発言を言い終えた瞬間、視界の右端に紫の裾の幻を捉える。


「よくぞ、仰ってくださいました、主。」


すぐ近くで、懐かしい声音が彼女の前の呼び名を呼んだ。

一瞬で目の前へ迫り来ていた刃全てを一閃で薙ぎ払ったのは、嘗ての臣下であり、刀であった者の一人である。


「何時、俺の事を呼んでくれるのかと待っていましたよ…?名刺を渡していて正解でしたね。出先からの連絡でしたので、少々到着が遅れてしまいましたが…ご無事でしたか?」
『長谷部…っ!良かった……っ。』
「おっと、俺っちの事も忘れてもらっちゃ困るぜ?たーいしょ。」


背後に迫っていた打刀の頸部を一撃で仕留めた学生服を着た少年が、飄々と現れる。

その横で、静静とやって来たにも関わらず、豪快に敵を斬り付けた別の者が一人。


『薬研…!』
「全く貴女っていう方は…っ、もう少し言い方っていう物があるんじゃありません…?何ですか、今のは…ムードもへったくれも無いじゃないですか。貴女、それでも女性なんですか…?もっとマシな事を仰ってくださいよ。」
『久し振りに顔逢わす癖して冷たいな、宗三は…っ!』
「まぁまぁ、宗三の旦那、文句は此れが終わった後にしてくれや。」


今にも始まりそうな無駄な言い争いに、冷静に待ったを掛けた彼は正しい。

更に、彼女の斜め前方の方からも、別の少年が刃を翳して現れた。


「ダメ刀だからって舐めんな…!!」


その少年は、高く一つに結い上げた長い髪を振り乱しながら、敵の太刀と思われる者を一撃で落とす。


『え…っ!?不動まで…っ!?』
「何だよ…ダメ刀は助けに来ちゃ悪いってか?」
『いや、そういう訳じゃないんだけど…っ、でも、何で……っ。』


織田刀総出のお揃いとあって、こんな時にも関わらず、変に混乱した璃子は戸惑いの声を上げる。


「其れは、野暮な質問ですね。聞かなくても、当然の話でしょう…?」
「偶々、長谷部の旦那と喋ってて、旦那がいきなり何処かに走っていくから、それを慌てて追って来たってところさ。」
「相変わらず、機動速ぇよな、長谷部って。」
「主に仇なす敵は斬る。其れだけだ…!」


まだまだ残る敵を殲滅するべく、敵陣へと突っ込んでいく長谷部と薬研。

彼女の事を守りながら戦う不動と宗三は、前後左右を気にしながら戦っていた。


「敵が多いですねぇ…っ。何でまだこんなに残っているんです…?まともな姿形は留めていない様ですけど。」
「所詮は、行き場を失い彷徨い続ける残党だ。今、纏めて片しておけば、後が楽だろう…っ!」
「にしても、やけに集まったモンだな…。やっぱり、大将が記憶を取り戻したのが、きっかけか?」
「どうでも良いですが…貴女の騎士(ナイト)、来るの遅過ぎませんか?貴女のお守りは、僕の専門外なんですけど…?」
「ナイト、って…。」
「すみませんが、此処は不動、貴方だけにお任せますよ。僕は少し前線の方に出てきます。」
『は…っ!?え、ちょっと…っ、勝手過ぎるでしょ…!!』


守りが薄くなる事に焦った璃子は、咄嗟に声を上げる。

ただでさえ人員の少ない即席の部隊は、圧倒的に人手不足であった。


「バッカ…!お前が居なくなったら、俺一人になるじゃねーかよ!どうしろって言うんだよ、クソォ…ッ!!」
『ごめんね、不動…っ。私に、戦う力が無い故に…。』
「そんな事よりも、俺の側から離れるんじゃねーぞ、主…!ダメ刀でも、ダメ刀なりに守ってみせるってなぁ…っ!!」


複数を相手取りながら、一人で彼女を庇いつつ戦う事は、困難を窮めた。

短刀を扱う彼が得意とする戦法は、リーチが短い事を活かした、敵の懐に飛び込むというやり方である。

しかし、彼女を守りながらでは、その勢いは殺される。

明らかに足手まといでしかない自身を思い、悔いる璃子は、知らぬ間に顔を歪めた。

此れでは、過去の二の舞ではないか。


(一ミリの欠片でも良い…っ、私にも、審神者としての力が残っていれば…!)


悔しくて歯噛みした璃子は、強く唇を噛んだ。

その拍子に、彼女の口端は切れ、血が滲んだ。


執筆日:2018.11.01