朝、不意に寒気を感じて目が覚めた。
一応確認すると、布団はちゃんと着ていた。
…寝相で、若干上と下の布団がズレてはいるが。
まだ起きるには少し早いかと思ったが、何だか完全に目が冴えてしまった為、起きる事にする。
もそもそと身を起こし、布団の中から這いずり出ると、隣の温もりが無くなったからか、一緒に寝ていたたぬさんが起きてしまったようだった。
「ふあ…何だぁ?もう朝か…?」
『おはよう、たぬさん。まだ起きるにはちょっと早いかもだから、眠いならまだ寝てて良いよ?』
「んん…っ、アンタはどうすんだ…?」
『私は、何か目冴えちゃったから、もう起きとくよ。』
「そうか…。なら、少し早いが、俺も起きっか。」
「ふわぁ〜あ…っ。」と大きな欠伸を憚らずにも盛大に漏らすたぬさん。
まだ外は日が昇り切っておらず、早朝故に薄暗かったが、厨組の者は既に起きて活動を始めている頃だろう。
私も何か手伝える事があれば手伝おうかと、立ち上がった途端、一瞬の違和感を感じて動きを静止する。
布団から起き上がり、代わりに布団を片してくれようとしていたたぬさんが、此方の様子に気付き首を傾げる。
「…?どうかしたのか?」
『いや…ちょっと……。』
「ちょっと、何だよ…?」
『…んー、やっぱり気のせいかな…?何でもないよ。』
「あっそ…。」
一瞬感じた胃の不快感に気持ち悪さを感じたものの、特に異変は無いかと思い、そのまま普段通りに起き抜けの厠を済ませ、服を着替えたり、顔を洗いに行ったりした。
何となくではあるが、何処となく身体が怠いような気がする。
もしかしたら、風邪か何かで不調を来しているのかも知れないと思い、万が一皆に移しては悪いと今朝の朝餉の手伝いは辞退する事にした。
そして、何時も通り、皆と揃って朝餉を口にした後に、異変は起こった。
食事をして暫く経った頃、何だか起き抜けの時よりも胃に不快感を感じて、慌てて厠の方へ駆け出す。
すぐ側で食後の腹休めに話をしていたたぬさんが、突然立ち上がり駆け出した様子に可笑しいと感じたのか、咄嗟に声をかけてきた。
「おい、主、急にどうした…っ。」
『ちょっとトイレ…!!』
「は…?何で厠?」
「腹でも下したか…?」
彼と会話していたぎねが、暢気な口調でそう言ってきていたが、別の意味で内心焦っていた私は、それ以上言葉を返す余裕は無かったのである。
厠に駆け込み、しっかりと個室のドアの鍵を閉め、便器の元に屈み込む。
既に胃酸は上がってきていて、口の中は変な味の唾液でいっぱいだった。
気持ちの悪い其れを我慢せずに吐いていると、次第に苦しく辛い感覚が襲ってきて、胃の内容物がせり上がってくる感覚がする。
堪らず便器の中に全て吐き出すと、嘔吐した時独特のツンとした臭いが鼻の奥を刺激した。
暫く、そのまま便器の前で蹲り、えづきが収まるのを待ち、同時に荒くなっていた呼吸が落ち着くのを待った。
そうしていると、厠に誰かが近付いてくる気配がした。
個室に入る直前、換気扇が回るよう手を回していたが…どうだろうか。
臭いに気付かれていたら嫌だな、という思いが頭の中を過った。
取り敢えず、えづきも収まった事を確認し、近くのトイレットペーパーを小さく千切って口許を拭う。
すると、厠へと入ってきた人物が声をかけてきた。
「あ゙ー、大丈夫か…?」
『その声は…たぬさん?』
「おー。何かアンタの様子が変だと思って、心配になったから様子見に来た。」
『あはは…っ、変に心配かけてごめんね。』
力無き声音で弱々しくも返事を返すと同時に、便器の中に吐いた汚ない嘔吐物を水に流す。
トイレから出てすぐの洗面所で手を洗い、ついでに気持ち悪い口内を濯ぐ為、嗽もした。
「何か顔色悪いな…。大丈夫か?」
『うーん…大丈夫、と言いたいところなんだけど、急に吐き気催して吐いちゃった手前、何とも言い難いな。』
「吐いたのか?」
『うん。たぶん、胃の内容物全部…。さっき食べた朝飯の分?』
蒼白い顔をして、ケロッとした口調で自己分析した事を告げると、一瞬気まずい空気が二人の間を流れゆく。
「…薬研とこにでも行くか。」
『うん。あー、でもその前に、何か水分取りたい…。口ん中、まだ微妙に気持ち悪いし。かといって、お茶飲んだらマズそうだな…。リバースしそうだわ。』
「取り敢えず、俺が一旦厨行って何か取ってくっから、アンタは先に薬研の処に行ってろ。」
『ふぁーい。』
未だ微妙な気持ち悪さを抱えたまま、フラフラと薬研の居る医務室的な部屋へと向かった。
途中、たぬさんを追って来ていたぎねと逢い、何か付き添いを申し出られたので適当に了承し、付いてきてもらった。
『やげーん、居るー…?』
「おう。どうした、大将?」
『何か朝飯食った後気持ち悪くなってトイレ行ったら吐いたから、診て欲しいっす。』
「えっ!?アンタ、吐いたのか…!?」
『突っ込むとこソコかよ。じゃあ、何で付き添ってきたんだ…。』
「まぁ、旦那の事は置いといて。大将はこっちに来な。そういう事なら俺っちに任せろ。しっかり診てやるから、安心しな?御手杵は、どうするんだ…?」
「え…?まぁ…一応心配だから、付いとく…。」
開けられた部屋の中へ入ると、既に作業用に火鉢が焚かれ、暖かかった。
「んじゃ、早速診るが…俺っちが聞く質問に答えられる範囲で構わねぇから答えてくれ。あと、聴診器当てて心音とかも聞いときたいんで、下着の上からで良いから見せてくれ。」
『ほーい。』
「御手杵は、念の為、聴診が終わるまであっち向いててくれねぇか?大将への配慮だ。」
「わ、解った…っ、向こう向いてる…。」
くるりと身を反転したぎねの様子を確認してから、問診と聴診を開始する薬研。
真面目なトーンで話す薬研の声は、常よりも少し低めで固い気がした。
「心音は、特に異常は無いな…。腹の動きを見ると、少し悪い気がするようだが…大将的にはどうある?」
『うーん…今もちょっと胃の気持ち悪さはあるけど、お腹は別に。』
「今朝起きた時の体調は…?」
『何か一瞬胃の不快感を感じた気はしたけど、其れだけ…。あ、でも、寒気は感じたかな?朝、其れで目が覚めたし。』
「ふむ…。なら、一応熱測っておくか。」
体温計を渡され、服の下に手を突っ込み脇に挟む。
熱を測っていると、先程別れたたぬさんが医務室へと入ってきた。
「邪魔するぜー。ほらよ、アンタに頼まれてた飲み物…。厨に行ったら、燭台切と堀川が居て、事情話したらコレ渡された。経口補水液…?とか言うヤツだとよ。」
『おー、あざまーっす。いやぁ、ずっと喉の奥と口ん中気持ち悪くて仕方なかったから、助かったよ…。』
「体調悪い時こそ、水分補給は大事だからな。しっかり飲んどけよ。」
受け取ったペットボトルを早速開け、口に付けてゆっくりと喉へと流し込んでいく。
その間、たぬさんは私の容体を薬研に聞いていた。
「んで…主はどうあるんだ?」
「ん゙〜、まだ今の段階じゃはっきりとは解らんが…たぶん、ちょっとした体調不良だろう。胃が消化不良でも起こしたせいで、吐いちまったんだろうな。気分が悪いのは、そのせいだ。暫くは様子見だな…。一応、吐き気を抑える薬を出しておくが、もし悪化するようなら、ちゃんとした医者に診てもらった方が良いだろ。」
「うえ〜…主大丈夫か…?」
『吐き気収まれば大丈夫じゃね…?』
「アンタ、自分の事だろ…。んな軽くて良いのか。」
少し喉を潤して落ち着いた為、ホッと息を吐く。
測り終えた体温計を見ると、熱は平熱だった。
「熱は…無いなぁ。なら、重くはなさそうだな。」
『まぁ、熱あったら私今頃見て明らかに解るくらいぐてぇっとしてるから。大した事ないでしょ?』
「だが、油断は禁物だ。暫くは経過を見るぞ。」
『うぃっす…。』
「そういやさぁ…昨日、アンタって、主と寝たんだったよな…?」
「あ…?そうだけどよ…其れがどうした?」
「寝たって事は、つまり…そういう関係、そういう事なんだよな?」
ぎねがそう言葉を発した瞬間、部屋の中が静まり返った。
ぎねは、気まずそうに、だがちょっとだけ頬を赤らめて気恥ずかしそうに声を窄めて口を開く。
「だ、だからぁ…っ、そういう事なんだろ…?」
「はぁ…?何が言いてぇんだ、アンタ…。」
「成程…そういう事だったか。成程なぁ…。」
『え………?や、薬研…?ちょい、もしや何か勘違いしてませn…ッ、』
言葉を続けようとしたところ、何故か遮られる形で薬研に両肩へ手を置かれ、諭すような顔を向けられた。
「デリケートな話だからな。無理して口にしなくても良いぜ?そうか、大将と同田貫の旦那はそういう関係だったか…。」
『は、え…?』
「成程な、それなら急に体調崩したっつーのも頷ける…。本で読んで学んだが、女性は性交した翌日、体調を崩す事もあるんだってな…?大将のは、たぶんソレだろう。確か、今朝の大将はあんまり食欲無いってんで、飯の量も普段より少なめだったよな?」
『え、あの、ちょっと、薬研さん…?何か、凄まじい方向に勘違いしてません?』
「安心しろ、大将。もし懐妊した時は、責任持って俺っちが最後まで診てやるぜ!」
『待った待った待った!ちょっと待った!!一旦、人の話を聞けェ…ッ!!』
「や、やっぱ口にしちゃマズかったか…!?ごめんっ!俺、てっきり伝えといた方が良い事かと…っ!!取り敢えず、赤飯炊くように言ってくれば良いか!?」
『ぎね、良いからテメェも落ち着けもちつけ!話が余計ややこしくなる上に、たぬさんが混乱してるから黙っとけ!!』
何か解ったけど解りたくない話の食い違い方に、ただでさえ気持ち悪い胃がキリキリと痛むようだった。
「え…な、何だよ…っ。俺、何かしたか…?コイツと一緒に寝ちゃ悪かったか?」
『いや、まぁ、たぬさんは悪くないから…取り敢えず、落ち着け。』
「えっと…一応確認するが、一緒に寝た、ってのは、合ってるんだよな?大将。」
『うん、合ってるよ…。ちなみに、昨日が初めてではないし、此れまでにも何度か。』
「マジか。」
『マジです。ですが、其れは寒いからという理由で一緒に寝てる訳であって、共寝する意味で寝てる訳ではありません。なので、ぎねや薬研が言った事は、ただの勘違いなのです。』
「マジか…。ソレはソレで、旦那の神経が不安だな…。」
「うわぁ…たぬきって、不能だったのか…っ。何かショック…。」
「ぁ゙あ゙…ッ?てめ、喧嘩売ってんのか!!」
「ひぃ…っ!だから、ごめんてぇ…!!」
ぎねの不用意な台詞でキレかかるたぬさんは、決して悪くない。
今のは、完全にぎねが悪い。
『だから、本っ当に!ただ一緒に寝ただけの私達が一夜の過ちを犯したという事はございません!!以上、説明終わり…っ。』
「え、あ…一夜の過ち、って…?」
『大丈夫、私達は何も犯しちゃいないよ…。だから、安心して、たぬさん。』
「お、おう…っ、何も心配ねぇってんなら、良かったわ…っ。」
「え…もしかして、コイツ等無自覚……?」
「あ゙ー、みてぇだなぁ…。こりゃ、どっちも無自覚だ。」
何かを悟った薬研が何処か遠い目をして見つめ、片やぎねは何処か悲しそうな目で同室の者を見つめるのだった。
一緒に寝た翌日に吐いたら、何か飛んでもない勘違いをされたオチであった。
「なぁ、ところで同田貫の旦那は、大将と一緒に寝たりしてるみてぇだが、何か思う事は無いのか?」
「は…?別に、特に何もねぇけど…。」
「大将の方は…?」
『私も特には。ただ寒いから、人肌の温もりがあった方が眠りやすいってだけかな?』
「…前途多難だなぁ…。」
何故か思いっ切り複雑な表情で溜め息を吐かれるのだった。
執筆日:2019.02.08