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優しい澱み



真っ暗な闇の広がる、夜の帳が降りた頃…。

暗き夜に関係無く、私の足元には影が付き纏った。

其れは、ただの影ではない。

真っ黒な闇から生まれし者とでも体現するかのように黒き衣に身を包んだ妖染みた者なのだ。

要は、人為らざる者という事なのである。

影は、時折私の足元から這い出ては、黒き狗の姿を取った。

首元には、首輪の代わりにこれまた真っ黒な襟巻きを首飾りに着けていた。

左肩辺りには、肩当てなのか解らないが、防具のような装備を着けており、金色の紐で結ばれていて…。

その紐と鋭き光る眼光のみが、周囲に異質を放っていた。


『はぁ〜あ…頗る体調悪い日なのに、何でこんな寒くて雨も降るような日に残業しなくちゃなんないのぉ…?本っ当マジ解せない。かといって、あの上司ときたら、定時になった瞬間さっさと帰っていきやがって…!こちとら、この寒空の中、雨天と暴風の影響により遅延した電車を凍えながら待ち続ける羽目になったんだぞぉ!?おまけに、近場にコンビニなんて店も無いもんだから腹ペコだーい…っ!!もう…っ、寒さと飢えで死にそう……ッ。』
「…だったら、その碌でなし男…闇夜に乗じて八つ裂きにでもしといてやろうか?」
『やめてよ、そんなリアル案件にもなり兼ねない事…っ。後々、その尻拭いというか、仕事回ってくんのウチ等下っ端の人間なんだからさ。本っ当、碌でもない会社だよね、ウチの会社…。ブラック企業も良いところだっての。はぁ゙ー………っ、神経と心ばかりが摩り減ってく…。ブラックという延々の地獄から抜け出せるのは、何時の日になるのか…!』
「…人間ってのは面倒くせぇな。簡単に割り切っちまえば楽になれるものを…。」


ボワリ、と街灯に照らされて、黒い塊が私の足元に沿って這っていく。

ユラリ、揺らめくのは、彼の尾と襟巻きの先っぽである。


「いっその事、“此方の世”に来るってのもアリだぜ…?此方側に来りゃ、面倒な柵(シガラミ)なんか全て無くなる。」
『…再々言ってるけど、私は“まだ”そっちの世界には行きたくなぁーいの…っ!色々とやりたい事たくさんあるし。つか、毎度毎度よくお誘いしてくるけど、良い加減飽きない訳…?というか、諦めないの?』
「へ…っ、そう簡単に諦めて堪るかよ。アンタは俺のお気に入りだ。だから、アンタが折れるまで口説き続けるぜ…?」
『あらまぁ、そらご苦労なこったね…。こんな寂れた女に付き纏うなんてさ。もっと上等な女にしたら…?私よりもマシで美人な女、紹介してあげるよ?』
「…俺は、他の奴なんざ興味は無ェよ。俺が惚れ込んでんのは、アンタだけだ。だからさァ…早く俺に惚れてくんねぇか?」


足元でユラユラと揺らめきながら進んでいた黒き塊が、進行方向を遮った。

既にびしょ濡れな足元に、ザワリと鳥肌が立つような感触が触れ、乞うように擦り寄ってくる。


『残念だけど…私は、そんな口説き文句で落ちる程、軽くも安くもない女だよ?解ったなら、また今度にしな。』
「………全く、相変わらず強情な女だぜ。まぁ、そう簡単に落ちてくれねぇ女だからこそ、燃えるんだがな。」
『何、その台詞…何か気障ったらしいなぁ…。』
「気が惹かれたか?」
『いや、全然。寧ろ、逆に引いたくらいだわ。』


シュルリと横を通り抜けてやり過ごし、帰るべき場所への家路を急ぐ。

流石に、真冬の雨降る寒空の中、長時間外で濡らされ続けるのは身も心も堪える。

傘の意味為さぬ程強風に晒され続けながらも、歩き続ける事数十分。

漸く家へと帰り着く。


『あぅ…っ、帰り着いたのは良いんだけど、肝心の家の鍵を取り出そうにも手が悴み過ぎて上手く取り出せないぃ…ッ!』
「俺が代わりに取って開けてやろうか?」
『ゔぅ゙…っ、すまんが頼んだ……!』


低い位置に持っていった鞄の中へ頭を突っ込むと、すぐに彼は鍵の在処を探し当て、ぱくりと口に咥えた。

そして、後ろの二足で立ち上がり、器用にもカチャリと解錠してみせた。

半ば雪崩れ込むようにして玄関へ立ち入ると、背後できちんと閉まる鍵の音がする。


「鍵はしっかりと閉めたぜ…?」


低く気怠げな声が戸締まりを終えた事を知らせる。

暗闇の中、金色の眸だけが異様に輝き、その存在感を浮き彫りにしていた。

壁際に設置されたスイッチに触れ、電気を点けたら、持っていた手荷物を全て一度床へと置く。

同時に上がり段の処に腰を下ろすと、盛大な溜め息が口から漏れ出した。


『っ、はあー…ぁ!つっかれたぁー………。』
「お疲れさん。あとは、俺が部屋まで荷物運んどいてやるから、アンタは風呂にでも行け。」
『うえぇー…今は一歩も動きたくなぁい…っ。でも、汗流したいし、化粧も落としたいし、冷えた身体も温めたいし…ゔー、めんどいよー。もう全てが面倒くさいよぉーっ。』
「はぁ…っ。…ったく、仕方ねぇ奴だな?」


ブワリ、身の毛がよだつ悪寒がした後に、目の前に居た黒き狗の塊が姿を変え、人の身へ変わる。

黒き衣は変わらずに、傷だらけな武骨な男の面をした者が目前に迫る。


『ンむ…ッ。』


かさついた人為らざる者の口が唇に触れ、ザワリと肌が粟立つ。

だが、悪い気は全くしない。

しかし、何度やってもこの感覚には慣れない。


「俺が風呂場まで運んでやるから、其れで良いな…?」


逞しい腕は、軽々と私の身を抱え上げ、ついでに落とした荷物を片手で全てかっさらっていった。

こういう時は、文句無しに頼れるから、黙って此方も身を任せる事にしている。

変に口を開かなければ、彼が調子に乗る事も無い。


「おら、着いたぞ。アンタの目的地の風呂場だ。」
『うぇーい、ありがとうございやぁーっす。』
「服くらい自分で脱げよ…?」
『其れくらいはちゃんとやりますよぅ、失敬な…。』
「別に、面倒が理由で俺に任せてくれても良いんだぜ?お望み通り、俺が脱がして、隅々まで洗ってやるよ。」
『お断りだ、バーカ。誰がんな事まで頼むかよ。億が一にも頼みませんから、ご安心をー。』


上着に着ていたコートを脱ぎ、其れをヤツの顔面に当たるようぶん投げる。

しかし、反射神経の良い彼(人じゃないしな)は、いとも容易く避けてしまえるのである。

ついでのおまけに、キャッチまでしてみせて、後でハンガーに掛けて乾かしておくのを忘れないのだ。

既に解り切っている事だが、悔し紛れに舌打ちを返しておいた。


「おいおい、随分大胆な真似してくれるじゃねーか。俺がまだ居る前で脱ぐとはな。遂に、その気になってくれたか?」
『冗談…っ!ただ腹いせにちん投げてやっただけだっつの!!』
「は…っ、俺からしたら、熱烈なお誘いかと思ったぜ?」
『どうでも良いから、さっさと去ね…ッ!!この減らず口の真っ黒黒助変態野郎がァッッッ!!』


脱衣場から彼を追い出し、ピシャンッ!!と思い切り戸を閉めてやる。

低く乾いた笑みが暫くその場に木霊していたが、すぐに姿を消して、何処かへと行った。

十中八九、私の部屋へ荷物を置きに行ったんだろう。

蛇口を捻り、シャワーの水を流し始めた後、再び戻ってきた彼が浴室前から、「此処に、着替えとタオル、置いとくぞー。」と言葉を残して去っていく。

意外とこういうところまで世話を焼いてくれるのが、疲れた身には非常にありがたくて助かっている分、複雑な気持ちなのであった。

恐らく、風呂から上がって服を身に付け、髪も乾かし終えた頃には、食卓に温かい食事が用意されているのだろう。

此れも、もう解り切った流れなのだ。

きっと、心の奥では既に絆されているのだろう事も…。

其れでも、口にはしてやらないのだ。

本当に“そちら側の世”へ行く覚悟が決まるまでは。


「今晩も冷えるからな…。湯たんぽ、必要なんだろ?」
『そうだよ。だから、早く私の事温めてよ。すぐに眠れるようにさ。』
「…その台詞がある意味正しい言葉として遣われときゃ、どんなに嬉しい事かな…。」


何れ程乞われても言ってやったりなんかしないから。

アンタが私を飽きるまで愛してくれるようになるまでは。

素直に口に出来ない、してはならない内なる言葉は…きっと、彼にはとっくにバレているのだ。

だから、私を夜な夜な抱き締め眠る代わりに、首筋へ噛み痕を残していくのである。


執筆日:2019.02.09