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掌を伸ばす



『…!、ッ、御手杵………っ。』


突発的に呼びかけてしまった。

堰を切ったかのように突如として感情から切り離された思考が無意識として身体を動かし、彼へと手指を伸ばした。

咄嗟に喉から出てきた声は、焦燥が滲んだような声をしていた。

しかし、完全に意識から外れた自身の意図せぬその行動に、彼の服の裾を掴みその制止に振り返った彼の顔を見た事で、ハッと気付き、我に返る。

何故、今、自分は彼を引き留めたのか。

何故、そんなにも焦燥を孕んだ音を乗せて声を発したのか。

意識下になく行われた自身の行動に即疑問符が思い浮かび、思考を埋め尽くした。

急として声をかけられ、すぐに言葉を黙した私に、当然として彼はその首を傾げた。


「…?どうかしたか?」


咄嗟に何か誤魔化しになる言葉を紡ごうとしたものの、唐突に急速に回転し始めた思考はその命令を弾いてしまった。

声はかけたもののその後に続ける筈の言葉を発する事なく黙ってしまった私を、呼びかけられた彼は不思議そうな顔をしてゆっくりと私の返答を待つ。

私は、何を紡ごうとしていたのだったか…?

漠然とした何かを思い、ソレを発端に彼に声をかけた筈なのだが、その理由が明確に思い出せない。

ただ、何故だか、彼が私の前から忽然と姿を消してしまうような…そんな気がしてしまったのだ。

単なるふとした時に生まれる気の憂い的なものだろう事柄だが、だがしかし、今の私はソレを無視する事が出来なかったのである。

彼が忽然と姿を消してしまう。

そんな事、有り得はしないのだ。

だが、唐突として生まれたこの不可解な感情がドクドクと急速に強く脈を打たせ、仄暗い闇を垣間見せたのだ。

無意識として生まれたその感情に、後から付いて来た思考が働いて、焦りとなって溢れたものが汗となって背中を伝い落ちる。


『ッ……?ぁ…いや、ごめん…っ、何でも、ない……っ。』
「…?そうか?なら、良いんだけどさ。」


相変わらず、此方の事を不思議そうに見つめる彼の顔が私を目に映す。


「何か焦ったような感じで呼ばれた気がしたんだけど…気のせいだったか?」
『え…?あ…いや、その……別に、たぶん、私の気のせいだったみたい。ちょっと、御手杵に対して何か思った事があった気がしたんだけど、何だったかな…?呼びかけた瞬間に忘れちゃった。…あはっ。ごめんね、変に呼びかけちゃったりなんかして。』
「別に気にしてないから構わないけど。……ん〜…?」
『ん、ぅん…?今度は、どうした…?』


先程は自分だったのに、今度は彼が変に頭を捻り出し顎に拳を当て首を傾げ始めた。

どうしたのだろうか。

彼が何を考え出したのか、答えが出て来るまで言葉を待つ。

すると、すぐに思考は答えを導き出したのか、謎解きを終えたような子供のような表情を浮かべて私の元に近寄り、私の頭上に手を伸ばしてきた。


「アンタが何を不安に思ったか、とかは、俺、馬鹿だし槍だから細かい事まで解んないけど…そういう浮かない顔してるアンタを放っておく程馬鹿ではないから。解んないなりに、解ってやれるよう努力はしてやれるよ。」
『………え?』
「つまり、さ…道に迷って今にも泣きそうになってる仔犬みたいな顔したアンタは放っておけないって事。」
『迷子になって泣きそうになってる仔犬って……、』
「俺から見たら、そんな顔してた。…気付いてなかったか?」


小さな子供をあやすように「よしよし。」と優しく頭を撫でる彼の表情は、常の其れと然して変わりない。

だが、私の頭を撫でるその手付きだけは酷く優しさに満ちていた。

まるで、刀剣男士として人の身を得る前から人の手の温もりと優しさを知っているかのような慈愛に満ちた其れに、不覚にも無意識としてざわつき波立っていた胸の内が落ち着きを取り戻していった。

温度を失いかけ冷たくなっていた掌に、彼の大きく温かな掌が伸びてきて己の其れで包み込んだ。


「ゆっくりで良いからさ。…アンタが内に抱いた感情を教えてくれないか?言葉で言い表すのが難しいなら、言い表せる範囲で。言葉に出来る範囲で。そうやって、一つずつ紐解いていって、アンタにも理解が追い付いてないであろう思い付いた感情を教えてくれよ。アンタが其れを俺に伝え切るまで、俺、此処に居るからさ?ちゃんと側に寄り添ってやるから、そんな不安そうな顔しないでくれよ。」


そう言い放った御手杵の言葉に何の言葉も返せぬままに、彼の成すがまま、彼の腕の中に引き込まれていった。

彼の声音は、終始優しさが音として乗せられていた。

其れは、彼の根っからの優しさが滲み出たものかのように感じる。

無意識に詰めていた呼吸を再開させて、喉の奥に押し込んで溜めていた息をゆっくりと吐き出した。

緩く細く、頼りない息が自身の口から吐き出されていく。

そうして私が呼吸を整えている間も、彼はそっと側に寄り添っていてくれた。

そう時間をかけない内に落ち着いてきた鼓動に、曖昧に開けていた口を開く。


『……御手杵が、私には眩しい人だと思えるから、お前が光の中に居ると眩し過ぎるように感じるんだ…。お前には、光が似合う。だから、お前が光の中に居るのは当然で、其れが正しい事だと思ってる…。だけど、あまりにも眩し過ぎるから…一瞬、お前が何処か知らない処に消えていってしまうように思えてしまったんだよ。…そんな事、有り得ない事だとは解っているのにね。可笑しいよ、ね…。』
「アンタにとって、其れは可笑しい事なのか…?」
『可笑しいだろう…?解っている事を、其れが起こり得る可能性をわざわざ変に考えて悩んで、怯えてる。…私は、所詮臆病者にしか過ぎない……っ。』


馬鹿な私の吐露を彼は静かに聞き入れる。

何を不安に思う事があるのか。

信じている筈の彼に、何故思考とは別に裏切られる事を恐れ、怯えているのか。

そんな信用心、信頼している内に入らないのではないか?

寧ろ、自身を信じてくれているであろう彼に対して失礼なのではないか?

そんな新たに生まれた思考が頭の中を埋め尽くしていって、上手く言葉を紡ごうとしていた口が閉ざされる。

私の目に暗い影が落ちかけたその時、彼が其れを制すように言葉を紡いだ。


「なぁなぁ、さっきの言い様ではさ、俺は光側に居るような口振りだったけど…アンタはどちら側に居るって言うんだ?」
『…は?そ、んなの…影側に決まってるよ。私は、常に、何時も影側に居る。いや、影側にしか居れない。…何故ならば、光側は眩し過ぎるから。光を見るのは眩しいけれど、見れない事はない。だけど、光の下には、きっと眩しさに焼けて潰されちゃうから…行けない。でも、お前は、たぶん光側に居る奴だよ。光側に居るべき奴なんだ。だから、私が、変に無駄に干渉しちゃいけないんだ…。』
「それって…誰かが決めた事なのか?」
『え……?』
「誰が決めた訳でもないんだろ?強いて言うなら、アンタが勝手に内で結論付けて決めた事だ。なら、俺自身からしたら、其れは当て嵌まらない。」


彼は、大きく長身な身を折って私の事を真っ直ぐに見つめてきた。

垂れた形の臙脂色の瞳が、真っ直ぐと私の視線を射抜く。


「俺からしてみたら、アンタが影側に居る人間だとは思わない。そう思ってんのは、アンタ自身なだけだ。影が似合うとは思わないし、其方側に染まるべき人間ではないと思う。俺は、別にアンタに光が似合わないとは思わないぜ?アンタにとって、光が眩しいものだと思えるんなら、光の眩しさがアンタの目を潰さないように俺が庇(ヒサシ)を作ってやるからさ。俺と一緒に居てくれよ。」


私の苦しみを少しでも分かつかのように顔を歪めて私の身を広く大きなその胸に抱き込んだ。

何故、そうまでしてお前は私に優しく在るんだ。

苦しげに歪められた彼の横顔を横目に視界に入れ、思った。

まるで、その優しさから遠ざかろうとする私を敢えて真綿で首を絞めるかのように、苦しげな表情を浮かべる意味が理解出来ない。

何故、そうまでして私を押し留めようとするのか。

まるで、暗がりの闇の底に落ちてはならないとばかりに引き留めるかのようだ。

どうして、そんなにも優しく居れるのか?

解らない事だらけが頭の中を埋め尽くしていき、言葉を発せようとしていた口を噤ませる。

その間も御手杵は、私を腕の中に留め続けた。

優しい声音で肩口より耳元へ囁く。


「俺は、何処にも行かないよ。アンタが望まない限り、俺はアンタの前から何も言わずに消えて居なくなる事なんて無い。だから、安心してくれよ。俺は、アンタが望まなくても、ずっとアンタの側に居続けるつもりだから。…だって、俺は馬鹿だし槍だし…アンタに力を貰って顕現出来てるんだからな。アンタから離れる予定は、一時も無いから…そんな風に思わなくて良いよ。」


彼が、歪めていた表情を崩して柔らかに笑う。


「俺の居場所は、アンタの元か、この本丸だからさ。そんな難しく考えなくても良いと思う…。アンタってさ、何でも難しく考える癖があるよなぁ〜…アンタの悪い癖。」


ふにっ、不意に自身の頬に走った感覚に、彼が私の頬を緩く摘まんだ事を遅れて頭が認識する。

平和そうな緩い笑みを浮かべた彼が、これまた緩い動作で瞬きし、摘まんですぐに放した私の頬を撫ぜる。


「大丈夫。俺はアンタに黙って消えていったりしない。勝手にどっかに行って消えていなくなる事もしない。」


臙脂色の優しく細められた瞳が、私の黒色をした瞳を映し込んだ。

そしたら、少しだけ驚いたような間抜けで情けない面をした私の顔が映り込んでいて、何だか笑えた。


『なら…少しだけの間、寄り添っていてもらっても良いか…?』


内側から出した声は、思ったよりも小さく震えた音で聞こえた。


「アンタがそう望むなら、勿論だ。」


臙脂色の目が弓を描いて柔らかに笑んだ。

優しく触れてくる彼の温度が、酷く心地好く…ざわつくような心音を落ち着かせた。

彼の温度は、優しく、それでいて、とても温かい。

ちょっとだけ、少しだけなら、光に寄り添っても良いかと…そう思えた。

ぎゅっと柔く抱き締めてくれる彼の胸に縋るように、ぐりぐりと猫みたいに頭を押し付ける。

ちょっとした不安に揺れる感情の機微にもそっと察して気付き、寄り添ってくれる彼の距離感が今の私を癒してくれるんだ。


「…偶には、光に当たるのも悪いモンじゃないだろ?」
『…うん…。』
「俺も含めて眩しく感じるなら、その目瞑ってても良いからさ。一緒に日向ぼっこしようぜ?今日、スゲェ天気良くて気持ち良いからさ。」


背中に回された彼の掌が、ぽんぽん、と一定のリズムを刻んで柔く私の背中を叩く。

その内、睡魔が訪れて眠気が思考と動力を奪っていきそうだなと思ったものの、今の心地好さから逃れようという答えは思い浮かばなかった。


『おてぎねぇ〜…ちょっとだけ良い?』
「うん…?何だ?」
『少しだけの間〜…一緒に日向ぼっこしてる間だけで良いからさぁ?このまま、お前に抱き付いたまんまで居ても良い…?』
「このままで居たいのか…?」
『うん……。こうしてると、何か心地好いし、落ち着くからさ〜…。』
「…そっか。アンタがそうしたいんだったら、このままで居てやるよ。けど…ちょっとだけ移動したいから、アンタの事このまま抱えて移動しても良いか…?今居る場所より、もう少し日の当たりの良い縁側の場所の方が、日向ぼっこすんのには丁度良い場所なんだよなぁ。」
『じゃあ、そっち行くかぁ〜…。』
「……何か、急に間伸びした喋り方になったなぁ、アンタ…。もしかして、眠いのか?」
『ん…たぶん、そうかもな…。』
「じゃ、完全に寝落ちちまう前に日向ぼっこに最適な場所まで運んでってやるか。」
『んぅ……そんじゃ、宜しくぅ〜…。』


段々と眠気に支配されてきて、思考が働かなくなってくる。

色々と勝手に無駄に考え出してしまう思考を放棄して、全てを彼に身を任せた。

力を抜き彼に委ねた私の身を難なく軽々と腕に抱え、立っていた場所から移動し始めた御手杵。

彼が身体の前に抱え上げた事で地から浮き感じた浮遊感はすぐに無くなり、その代わりしっかりと抱え込む彼の弱々しく見えて力強い力が私の身を支えた。

抱っこ状態で私の身を抱えて移動する彼が、ふと気付いたかのように、鼻歌を口ずさむかのような軽々しさで思った事を零した。


「あれ…?なぁ、アンタ…少し軽くないか?」
『うん…?』
「体重。何か、前抱き抱えた時よりも軽くなってる気がするんだけど…。」
『んな、阿呆な。普通その逆だろ?』
「いや、マジで。…アンタ、ちゃんと飯食ってるか?そういや、最近、アンタがまともにちゃんと飯食ってるとこ見てないぞ…?」
『…気のせいだろぉ?』
「いーや、気のせいじゃないね。アンタ、ちゃんと飯食ってないだろ…。人間は基本、三度の飯を食わなきゃ身体を悪くするんだろう?最近のアンタ、しっかり三度の飯食ってないぜ。だから、こんなに軽いんだぞ〜。俺、馬鹿だけど、そういったところでは嘘吐かないからな。ちゃんと飯食わなきゃ駄目だろ〜?今晩の飯はちゃんと食えよ。食わないって言っても食わせるからな。じゃないと、歌仙の奴や燭台切が怒るぞ?」
『うぇ〜……ソレは嫌だなぁ…めんどいから。』
「ついでに、この事、正国にもチクッとくからなぁー。」
『え…っ。ソレだけは嫌だ。彼奴が怒ると一番面倒くさいから…。』
「もう決めた事だからなぁ〜。…この件は、絶対チクる。」
『うえぇ〜…っ、嫌だぁ〜………!』


幼子が愚図るように腕の中でジタバタと藻掻いた。

しかし、彼はそんな私を離す事はせず、寧ろよりグッと腕に抱き込んだのであった。

諦めて彼の腕の中に落ち着き、拗ねたように彼の肩口に頭を預けた。

後々に面倒な事が待ち受けていようとも、今はこの優しい陽だまりのような温かな温度に縋っていたいから。

朧げに揺らいでいた思考を完全に手放して、心地好い揺れに身を委ね、余計なものを映し込む視界を閉じた。


執筆日:2019.03.04