ふと浮かんだ意識で辺りを見渡してみたら、深い海の底のような処に居た。
薄暗く、僅か上の方だけにしか射し込まない光に、ほとんどが真っ暗な空間な世界なんだと気付く。
こぽこぽぽぽ…っ、と口端から漏れた空気の気泡に、今居る其処が水の中なんだと気付く。
暗くて視界が利かない深い海の中、暫くふわふわと漂い、彷徨った。
あまりにも静かで何の音も聴こえない、暗い空間に寂しくなって、水底を歩いていた足を止めて上を見上げた。
薄暗い世界の中、上を見上げても、ほとんど光の届かない水底では何も見えない。
ただただ静かに時が流れ、こぽり、口の隙間から漏れた空気の気泡が漂うだけ…。
何故、自分はこんな薄暗い海の底に潜っているのだろう?
どうして、自分は深い海の中、息が出来ているのだろう?
不思議な夢に、色々な疑問が思い浮かんでは答えを得る事も無く消えた。
ずっとずっと首を伸ばして上を見上げても、やはり、こんな深き水底には光は届かない。
こぽぽぽり…っ、また空気の気泡が口端から漏れた。
何処へ向かえば良いのか解らなくなって途方に暮れていれば、不意に視界の端っこに漂う何かを見付けた。
よぉく目を凝らしてみたら、黒い何かの切れ端のようだった。
細長く伸びる其れは、少し先の暗闇の方まで続いているようだった。
何にも無い薄暗い深い海の中、漂うその真っ黒な何かを頼りに導かれるように進んでみた。
そしたら、視界の端っこに映っていたのは、誰かの黒い襟巻きみたいな細長い布だったようだ。
水底に漂うその真っ黒な細長い布を辿って、暗闇の中を進む。
少しして辿り着いた其処に居たのは、現実世界でもよく見る覚えのある真っ黒な布を纏った者だった。
静かに水底の片隅に沈む其れは、ひっそりと存在していて、真っ黒な色の襟巻きを漂わせていた。
岩の近くに静かに蹲る黒い塊に近付いてみる。
彼の腕が大切そうに抱く物が、よく見た事のある物だと気付いた時に、ふと彼が膝に埋めていた頭を上げた。
「……アンタって奴は、こんな処にまでやって来るとは、大層な物好きだなァ?」
暗闇の水底でも光を失う事無く力強い光を宿した金色が緩く瞬いた。
喋る彼が口を開くのに合わせて、漏れた空気の気泡がこぽこぽぽ…っ、と揺れた。
「アンタ、こんな処に用なんか無いだろ…?アンタみたいな若い奴、入水して身を投げた訳じゃなければ、まだ生きた身の奴だろうに。何でこんな水底に来たんだ…?」
『知らない。気付いたら、この深い海の中みたいな場所に居たんだ。』
「なら…やっぱ生きてる奴なんだな。意識だけ此処に流れ着いたってか…?」
『…此処って、やっぱり海底…海の底な場所なの?』
「そうだよ。」
『随分静かな場所なんだね…。真っ暗で視界も上手く利かなくて、何にも見えない。よく解らない内に彷徨って漂っていたら、君の襟巻きの先っぽを見付けて、其れを辿ってみたら君に辿り着いたんだ。』
「ふぅん…。何か寝る前にでも俺に纏わるナニカを見たのか、深い意識の傍らに残る程まで考えたのか……。アンタが此処に来ちまった理由は知ったこっちゃねーが、来ちまったのなら仕方がねぇ。アンタの気が済むまで付き合ってやるよ…。」
薄暗い空間の中、不思議と彼の存在を認める事は出来て、本当に不思議な感覚に陥りながらも特に嫌な気はしなくて、そっと彼の隣に腰を下ろして上を見上げた。
『ねぇねぇ、目が覚めるまでの間暇だからさ、ちょっとだけ話に付き合ってくれないかな…?』
「別に構わねぇが…俺はあんま喋んの得意じゃねーぞ。…もうずっと誰とも喋ってねぇからな。」
『君は…同田貫正国の内の一振り、という事で合ってる?よく見た事ある刀持ってたから、もしかしてー…と思って。』
「アンタの同田貫じゃない、って事だけは間違いねぇだろうよ。…俺は、もうずっと誰にも振るわれる事無く、此処に居るんでな。」
『こんな静かな場所にずっと居るなんて…退屈しない?私なら絶対退屈するし、飽きると思う。それに…こんなにも静か過ぎて何も見えない暗闇の世界に居たら、不安になって、段々と寂しくなっちゃうと思うよ。』
「…今はアンタが側に居るから、退屈しないし、寂しくねぇよ…。それに、こんな暗闇の中でも、意外とそれなりに発見とかあって楽しいしな。…俺は刀で物だ、人であるアンタとは物の考え方も違うし、経過する時間の流れも異なる。それ程の感情を抱く事も無ぇよ…。」
『…そっか。それなら、良かった。』
こぽり。
彼と私の間を、空気の気泡がたくさん生まれて上へ上へと流れていった。
その後は、特に会話という会話を交わす事は無く、静かに暗闇の水底を二人一緒に眺めた。
「…なぁ、アンタの処の俺は、ちゃんと刀として戦えてるか…?強く、居れてるか?」
『うん…。凄く強い刀として、私の刀として、戦ってくれてるよ。だから、心配しなくて良いよ。彼は、私の中じゃ凄く強くて…とても頼りがいのある守り刀だからさ。何時も側に置かせてもらってるよ。…大事にしてる。今はちょっと“外に出てて”本丸を離れてるけどね。』
「……そいつァ安心したよ。アンタの支えになれるような強い刀として在れてるなら、心配は無ぇな。」
『ふふふっ…同田貫正国は強くて折れにくい刀で有名だもんね。』
「嗚呼…知ってるよ。折れにくく頑丈であるが誇りの、戦うが為に生まれた刀、同田貫正国。其れは、正に質実剛健という言葉が相応しい、戦の為に打たれた刀…。俺自身がその内の一振りだ、よく知ってるに決まってんだろ。」
真っ暗闇の水底に在っても己の存在意義を忘れない彼は、薄暗い空間の中でもキラキラとして見えて、耀いて見えた。
嗚呼…だから、深い海の底の場所でも、彼の元に辿り着く事が出来たのだな、と思った。
こぽ、こぽり…っ。
二人分の空気の気泡が浮かんでは消えていった。
「…ほらよ、アンタのお迎えが来たぜ…?」
『え……?』
不意に、彼が先方を指差すから、その視線を辿って其方を見た。
よく知る気配が、其処には在った。
『あ…っ、』
真っ黒な衣が暗がりの水の中を漂っている。
「…行ってやんな。わざわざこんな処にまで迎えに来てくれたんだ。アンタの事を待ってる奴が、アンタの元には居るぜ…?」
『……もし、また逢える事があったら…また君の元へお話しに来ても良いかい?』
「…はっ、…本当に物好きな奴だよ、アンタは。」
此方が彼の方を振り向いて笑めば、彼も口端を吊り上げて笑った。
「さぁ、あんま待たせねぇ内に行ってやれ。俺が俺だから解ってやれるが…そんなに気は長い方じゃねぇ。下手に余計な怒りを買う前に戻ってやれよ。…持ち主が側を離れてるっつーのは、そう良いモンじゃねーからよ。」
濁る事無く澄んだ金色を瞬かせて見つめた彼がそう促した。
『うん…っ。じゃあ、そろそろ戻る事にするよ。迷ってたところ、道標になってくれてありがとう。少しだけだけど、一緒にお話出来て良かった。またね。』
「…おう。達者でな。」
此処まで導いてくれた彼に手を振って、待ってくれている彼の元へと駆ける。
差し出されていた手を取ったと同時に、眠りの淵から覚めた。
緩く瞬きを繰り返した視界の先で、先程見たばかりの真っ黒な衣を纏った姿を目にする。
「……まァた布団で寝ねぇでこんな処で寝転んでたのか。幾ら春になったっつっても、まだ朝は冷え込む季節だろうがよ…。風邪引いたらどうすんだ、この馬鹿。」
寝起きでまだはっきりしてない頭にコツリッ、と小さな衝撃が降ってきた。
彼が軽い力で小突いたようだ。
その小さな衝撃で軽く覚めた思考が、今の現状がどうあるのか処理して把握した。
『…嗚呼……私、寝ちゃってたのか…あいや。…皆を遠征に見送った後、残ってた仕事続けてたら、出陣に出てた第一部隊が帰ってきてね…。それで、勝利した戦利品に同田貫の刀を持って帰ってきてくれたから…たぬさんに習合してあげようと、たぬさん帰ってくるの待ってたら…いつの間にか眠くなってたみたいで。うっかりドロップしたたぬさんを抱いて寝ちゃってたよ…。出迎え出来なくてごめんね?』
「…ったく、んな寝落ちしちまう夜遅くまで仕事すんなよなァ?身体壊したらどうするつもりだよ…。アンタ、季節の変わり目は弱いんだろ?ちったぁ気を付けてくれ。」
『うん、ごめんね。起こしてくれてありがとう。それと…おかえり、たぬさん。遠征お疲れ様。』
「……おう。ただいま帰ったよ。それなりに資源いっぱい持って帰ってきてやったからさ、後で確認しといてくれや。」
『ん…了解です…。朝餉の前にチラッと確認しとくね。後は、資材管理の人に任せとくよ。』
のそりと執務机の前で横たえていた身体を起こして、臣下の手前、沸き上がってきた欠伸を噛み殺す。
まだ寝惚け眼の目元を擦っていると、呆れた溜め息を吐いた彼が寝跡が付いて乱れているだろう髪に手を伸ばして整えてくれた。
こういうところで、意外と彼は世話を焼いてくれる兄貴分な刀だ。
『…あ、そういえばね、夢でたぬさんに逢ったよ。深い海の底みたいな場所に居る夢だったんだけどね。その夢の中で、たぬさんが出てきたんだぁ…。』
「…そうか。」
『夢の中でもたぬさんが出てきちゃうなんて、私ったら本当たぬさんが好きなんだなぁ〜。あはは…っ、何だか変なの。もしかして、習合用に持ったままだったたぬさんの本体を抱いて寝ちゃってたせいかな…?』
「たぶん、そうなんじゃねーの…?」
『へへへ…っ。不思議な夢だったけど、悪い夢じゃなかったや。ひょっとしたら…何時の時代かに存在した、何処かの海に沈んじゃったっていう同田貫正国の意識と繋がっちゃったのかな…。もし本当にそうだったのなら面白いし、凄い事だよね?まぁ、きっと夢にしか過ぎないんだろうけどさ。』
「…そうだな。」
曖昧な表情を浮かべて頷いた彼が、完全に起き上がろうとしていた私に手を差し出してくれる。
夢で見た姿と同じ其れに、一瞬だけ既視感を覚えたが構わずその手を借りて立ち上がった。
『さて、と…。一旦顔洗って服着替えたら、資材庫の方に行きますか。んで、朝餉軽く食ったら、少し寝よう。今度はちゃんと布団で寝るから安心してね…!』
「最初からちゃんと布団で寝てくれときゃ何も言わねーよ…。」
ぱたぱたと小走りで部屋を出ていった先で一人残された同田貫は、今しがた出たばかりの部屋に置かれた一振りの刀の方を振り返り、見遣り、その目を細めた。
「………本当、物好きな主だよ、彼奴は…。だが、あの人こそが俺の主なんだ。…テメェのじゃねーからな。そこだけは譲れねぇし、大事な事だ…。だが、まぁ…深層心理なとこで顕現もしてねぇアンタの中の意識に迷い込んだのを引き留めといてくれてたのには感謝しとくぜ。…ありがとな。」
それだけ一人呟くと、彼女の後を追うようにその場を去っていった同田貫。
―夢の中の出来事が、実は本当に起こっていた出来事だったとは…知っているのは彼本人と彼の刀のみである。
執筆日:2019.03.27