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僕らは太陽の影を追う



どうして其処に居たのか、何も分からないような酷く曖昧な記憶だった。

晴天に晴れた快晴の日だったのか、薄暗い曇天の日だったのか。

どんな天候だったのかは曖昧であったが、不思議と雨が降っていなかったような気がするのは確かだ。

何とも酷く曖昧でよく分からない空間に、自分は居た。

何処のとも知れない駅のホームの片隅にあるベンチに座って、何もかもが厭になったかのように落ち込み下を俯き見つめていた。

地面に転がる小石が目に入って、靴を履いた爪先で適当に蹴りやる。

蹴られた小石は、衝撃を受けてコロコロと地面の上を転がり近い位置に止まった。

その様が、まるで自分のように思えて、嘲笑が口許を形作った。

きっと自分はこの小石のように誰かの掌の上で転がされ踊らされ続けているのだ。

惨めに地を這い蹲り、辛酸を舐めて、貶され殴られ蹴られようとも、僅かな意思を内に抱いて足掻くのだ。

どんなに滑稽で醜かろうと、それでも尚自分は先へと進んで行こうとする。

何とも酷く可笑しい滑稽な様だろうか。

暗く沈んだ思考に、暗く沈んだ声が小さく口を開いて音を乗せた。


『…何もやる気がしない。何もやる気が起きない。何をしてもどうせ上手く出来ない。何をしたって鈍くさくて要領が悪い。何処に居ても同じ。何処に行ったって同じような扱い。居場所が見当たらない。世の中に必要とされてない存在。…ただのゴミ屑に過ぎない奴だ。』


そんな風に思えてならない程に思考は沈み切っていて、嘆きばかりが埋め尽くそうとする思考に蓋をしたくて、口を閉じ、深く溜め息を吐いた。

少しでも内が軽くなるならばと、深く長く吐き出す。

そうして地面を見つめていたら、ふと視界に影が差して、徐に顔を上げた。

すると、誰とも知れない男がすぐ側に佇み、此方を見つめていた。

全体的に真っ黒な装いをした人だと思った。

彼は此方を見遣ったまま、口を開いた。


「アンタ、酷く落ち込んだような暗い顔してんな。」


そんなに酷い顔をしていただろうか。

他人から見ても分かりやすい程に感情が表に出ていたとは、全く気付いていなかった上に無意識だった。

あまり他人に興味は無いが、知らない内に迷惑を掛けてしまうような事だけは避けたい。

それ故に、少しだけ周りに気を配り忘れていた事を悔いた。

彼の方を見つめながら、そんな些末事を思考の隅で考える。

何の返答も返さない女に、彼は言葉を投げかけてきた。


「もしかして、アンタも俺と同じ“無用者”か…?」


ムヨウモノ…無用者。

彼に言われた言葉を脳内で漢字に変換しながら、意味を噛み砕いてみる。

成程、“無用者”とは言い得て妙な響きだと思った。

無用者とは、恐らく、きっと誰にも必要とされずに世の中の隅に追いやられてしまったような人達の事を指すのだろう。

今の自分にぴったりと当て嵌まるような言葉だと思った。

なんて素敵な言葉なのだろうかと。

これ程今の自分にしっくりきて似合うような言葉は見付からない。

いっそ称号的なものにさえ思えてならない程、自分という型に嵌っているように思えた。

一瞬にして、視界がチカチカと光り耀いて見えた気がした。

無言のままでいる女に、彼はまた言葉を投げかけてきた。


「ちょっと時代に乗り遅れちまったってだけで、周りの奴等は“お前はただの足手纏い”“邪魔者でしかない”みたいに扱って世の中の隅に追いやっちまうんだよな。そんで、何の存在価値も無くなったみたいに誰も見向きもしなくなる…。俺等はちゃんと此処に居て息衝いてるってのによ。俺等だってちゃんとしてるんだ。なのに、周りはガタガタうるさく抜かしやがって、鬱陶しい。ったく、儘ならねぇぜ。…ホント、世の中理不尽で厭になるよなぁ?」


彼が此方を見遣って返答を求めるように視線を投げかけてきたので、無言のまま「うんうん、その通りだ。」と言わんばかりに頷いて相槌を返した。

それに彼は満足したように、柔ら目を細めて笑った。

彼が言葉を続ける。


「ははっ、だろう…?俺と同じ無用者同士、アンタとは気が合いそうだ。」
『…確かにそうかも。ちょっとうれしいかな。』
「そりゃ、良かった。」


此処に来て初めて彼に口を利いた。

そしたら、彼は酷く嬉しそうに微笑んだ。

そんな彼の表情がやけに眩しく見えて、少しだけ目を眇めて見つめ返す。

不意に、彼の掌が目の前に差し出された。

意図が分からず、首を傾げて彼の事を見遣る。


「アンタさえ良けりゃ、俺と一緒に来ねぇか…?アンタとなら上手くいきそうだ。同じ無用者同士、此処じゃない何処かに行こうぜ。…どうだ?良い考えだろ?」


なんて素敵なお誘いなんだろうと思った。

彼の指す“何処か”が何処の事を意味しているのかは分からなかったが、きっと彼に付いていけば碌な事が無い今の現状を、自分の人生を少しはマシな人生に変えてくれるような気がして、彼の手を取った。

足に力を込めて、彼の手を握り、立ち上がる。


『…そっちさえ良ければ、どうか連れて行ってくれると助かるかな。』


ぎこちなく笑みを作って、自信無さげに笑ってみせた。

その様に、彼は頼もしくも自信に満ちた笑みで口端を吊り上げて笑う。


「決まりだな。」


彼が自分の意志に応えるように強く掌を握った横で、ホームに入ってきた電車がゴウ…ッとレールの上を駆け抜けて行った。


―気が付けば、自分はベッドに寝ていて、目が覚めた事でその身を起こした。

曖昧な記憶だが、寝起きという事もあって朧気な意識をもたげる。

辺りを見渡すと、知らない誰かの部屋だった。

ふと自身を見下ろして、今の自分の身形を確認した。

自分の物ではない、誰かの服を着ていた。

何とも薄着な服だなと思った。

暑くも寒くも無い事から察して、たぶんこれくらいが丁度良いのだろうと適当に結論付けて視線を上げた。

もう一度辺りを見渡して、曖昧な記憶を繋げて考えてみる。

どうしてこうなっているのかも分からなかったが、元々が曖昧な記憶だ。

途切れ途切れのように繋がる記憶を頼りに思考してみると、恐らく、此処は先程の記憶の延長線上に至る場所なのだろう。

曖昧な記憶に曖昧な空間が広がる場所。

だが、不思議と嫌な気は全くしなかった。

きょろきょろと子供のように興味深げに辺りを見遣り、考える。

先程までの記憶の延長線上にある現状だとすると、推測するに、あれから何かしらあって今は彼の家にお邪魔しているという事なのだろう。

彼が誰なのかと言ったら、思い当たる人物は一人ぐらいしか思い浮かばない。

その思い当たる相手というのは、きっと…。


「おう、目ぇ覚めたか。おはようさん。」


思い至っていた人物が、二つのマグカップを持って部屋に入室してきた。

普段着なのだろう、何度も着て着古され草臥れた様子の黒いTシャツを身に纏った彼がドアの前に立ち、此方を見つめながら歩み寄ってきた。


「朝飯出来たから、今起こしに行こうかと思ってたんだ。ほい、アンタの分。寝起きにいきなり珈琲飲むのもどうかと思って白湯入れてきた。熱いの苦手だったら悪ぃかと思って一応冷ましてきたから、たぶんもう飲めると思う。…飲むか?」


差し出されたカップを受け取って、短く「有難う。」と礼を述べる。

素直に受け取り白湯を口にする様子を見て、彼は衒いもない様子で「良いって事よ。」と返した。

猫舌なのを気にしてちみちみと少しずつ飲んでいると、隣に座って良いかの問いを投げかけられたので、白湯を口に含んだままコクリと頷いた。


「腹空いてるだろ?朝飯は出来てっから、言ってくれれば何時でもこっちの部屋に持ってくる。」
『…う、うん…。わざわざ私の分まで作ってくれたんだ…有難う。』
「当たり前のこったろ。…けど、飯食う前に顔洗いたいわな。タオル持ってきたから、コレ使ってくれ。洗面所はこの部屋出て左な。トイレはその向かいにあるから、好きに勝手に使ってくれて構わねぇ。」
『え、あ、はい。…じゃ、じゃあ、ちょっと失礼して…顔洗イニ行カセテ頂キマスネ。』
「(何で急に片言…?おまけに丁寧語。)…おう。別に急ぐ必要も無ぇから、ゆっくりで良いぞ。」


「普通逢ってからそんな期間経ってない相手に此処までしてくれるか?」と思わざるを得ない程に良くしてもらって、何だか申し訳なくなってしまった。

変に緊張してきた上に固くなってしまうのは許して欲しいと願う。


(そういえば…こんな風に変に構える事も無く誰かと接するのは、久し振りだな…。何だか懐かしい気すらする感覚だ。)


変な意味で構えずに誰かと会話するのは、酷く久し振りだった気がして、ふとそう思った。

言われた通りの道筋で部屋を出れば、洗面所に辿り着く。

まぁ、一人暮らしのアパートの一室らしき空間なら、建物的にそれくらいの距離感と広さか。

洗面所とトイレが別になっているというのは有難い設計だった。

洗面所に備え付けられている鏡を覗き込んだ際に、自身の下半身が剥き出しの格好だったという事に今更ながらに気付く。


『…何故に上だけ?』


どうやら服を身に着けていたのは上の大きなTシャツだけで、下は何も身に纏っていない下着だけの状態だったようだ。

もしや、此れは…ヤる事をヤってしまっているのでは……。

そんな思考が頭をもたげたのは事実だ。

一先ず、今は気にしない方向に考え、顔を洗ってしまう事にした。

顔を洗って御手洗いも済ませてから彼が居るであろう部屋の方へ戻る。

すると、彼は先と変わらぬ様子でカップを片手に珈琲を飲んで待っていた。


「戻ったか。顔洗ってスッキリしたろ。使って濡れたタオル、こっちに貸してくれ。窓際に掛けて干しとくから。」
『あ、有難う…お願いします。』
「礼は良いって。顔洗ったなら飯食うだろ?今持って来てやるから、ちょっと待ってろよ。」


タオルを片付けてくれた彼はそのまま台所の方へと行ってしまい、二の次を告げれなかった。

仕方がないから、大人しくベッド脇に座って彼を待つ事にする。

程なくして、彼がお手製の二人分の軽食的朝食を持って戻ってきた。


「そういや…昨日はよく眠れたか?」
『え…あ、はい。御蔭様で、どうも…。』
「そいつぁ安心したわ。俺ん家のベッドなんかできちんと睡眠が取れるかどうか心配だったからな。…どっか痛むトコとか、辛かったり体調悪いとかあったりしたら遠慮無く言えよ。あ…、代わりの服勝手に着せちまったけど、大丈夫だったか?俺のだからサイズ合わねぇとは思うけど…。」
『あ…うん、その辺は大丈夫だから…気遣ってくれて有難う。』


会話の流れといい、自身の置かれた場所といい、どうやらヤる事はヤってしまっているようだ。

それ程にまで自分は彼という存在に強く惹かれてしまったのだろうか。

否、眩しく感じる程には強く惹かれる存在だなと認識した覚えはあるが。

だが、まぁ…彼になら自分を委ねても良いとさえ思えるのが不思議な心地だ。

心地と言えば、彼の側と彼が居るというこの空間は随分と居心地の好い場所だ。

彼の存在がそう感じさせるのだろうか。

曖昧な記憶に曖昧な空間に連なるものだが、不用心なくらいに彼に傾倒していっている事は分かった。

ぼんやりと思考を傾けていると、彼が此方を見遣って口を開いた。


「この先の事心配してんなら、安心しな。アンタの事は、ちゃんと理解してるつもりだ。お互い、似た者同士だしな…。話したくない事は言わなくて良いし、嫌だと思った事ははっきり口に出してくれて構わねぇ。遠慮せずに付き合っていこうぜ。」


朝食に箸を付けながら、彼はそうはっきりと口にした。


「アンタとは、何も構えずに向き合っていきてぇと思ってる。…アンタが不安に思うような事とか全部に、俺はちゃんと向き合ってアンタそのものを受け止めたい。アンタの帰る居場所が、俺の居る元になるくらいには努力するつもりだ。だから…アンタを、アンタという時間の全てを俺にくれ。…絶対に後悔はさせないようにするからさ。」


これ程にまで自分が望んでいた言葉の数々を貰えるなんて、なんて素敵な時間だろうか。

自分自身も、不思議な事に、もう彼の全てを受け入れようとの心構えは出来ていた。


『…そっちさえ良ければ、どうぞ宜しくお願いします…正国さん。』


無用者同士、繋がりを持った私達は、太陽の影を追うように必死に生に縋り付き生きていく。

きっと明日も明後日も明々後日も、変わらず“無用者”である私達は互いが互いを補いつつ支え合って生きていくのだ。

だから、もう日常という日々を恐れ不安に思わなくても良いのだ。

今の自分には、彼という存在が支えに在る。

私達は互いに全てを受け入れ、共に笑い合いながら手を取り合う。

そうして、先に在る未来を歩んで生きていく。


執筆日:2019.07.22
加筆修正日:2020.04.09