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神様の気紛れ



それは、いつもの帰宅途中の事だった。

電車で通勤している私は、帰りが遅くなる遅番の日は、丁度利用客の多い時間の電車に乗る事になる。

従って、その時刻の電車は、いつも満員だ。

運が良ければ、数席の空席があって座れるが、ほとんどが次の駅を過ぎないと座れない為、立っての乗車になってしまうのである。

偶々、その日は空席を見付けたので、何とか座る事が出来たのだ。

しかし、車内は変わらず満員である為、窮屈だ。

仕事の疲れも相俟って、深く息を吐き出すと、最寄りの駅に着くまで一眠りする事にした。

その日は本当にクタクタで、ただでさえ寝不足気味だった身体は、空腹も重なって限界だった。

故に、睡魔はすぐにやってきて、私は眠りに身を委ねた。


―幾分経った頃だろう…。

停車駅で乗り込んで来た客が、偶然にも私の隣が空いていた為に、其処へと座った。

それが、ただ座ってくれただけなら良かったのだ。

だが、その他人は、寝ている私の頭が僅かに隣の席へ傾いでいるのも確認せず、どっかりと座り込んだのだった。

それも、荷物ごとケツを思い切り頭にぶつけておいてである。

唐突の痛みに、思わず「ぅ゙…っ。」と呻いた私は、傾いでいた頭を元の位置に戻してから、当たった場所に手を当てる。

せっかく深く眠っていた意識を起こされ、気分は最低値まで降下する。

ゆるりと首をもたげ、ずれた眼鏡の位置を戻し、ちらりと横目で当たってきた奴を見てみた。

耳にイヤホンを突っ込み、ガンガンと音漏れする程の音量で音楽を流しながら携帯を弄る、如何にも他人様の事など気にしないチャラ男だった。

恐らく、このチャラ男は、私にぶつかった事など意識下にも置いていないだろう。

否、そもそものところ、ぶつかった事にさえ気付いていないのではないか。

全くもって理不尽である。

ジロリとその男を睨め付けていると、反対側の隣席に座る人に声をかけられた。


「―君、大丈夫かい…?」
『え…っ?』


突然の事だった為に、驚いた私は、その人の事を凝視してしまった。

モデルみたいに格好良い、お洒落な男性だった。

黒のロングコートがよく似合う人だ。

一瞬、何でこんなイケメンに話しかけられてるんだ、と頭が混乱しかけたが、その男性が優しい声音で再び話しかけてきたので我に返る。


「今、頭当たっちゃってただろう…?痛かったんじゃないかなって思って。」
『あ、あぁ…、そういう事でしたか…っ。お気遣い、どうもありがとうございます…。』
「いや、御礼を言われる程じゃないさ。それより…君、体調が優れないんじゃないかい?顔色が悪いよ。きっと、凄く疲れてたんだね…。だから眠っていたんだろうに、彼は周りの人間を顧みずに自己中心的。君にぶつかったのにも関わらず、謝罪の一言も無いなんて…酷い奴だ。」


名も知らぬ、初めて出逢った赤の他人が、何故ここまで私の事で腹を立ててくれるものなのか。

別に、自分自身には関係の無い事だろうに…。

寝起きもあって、彼の会話に付いていけていないと、彼が此方に微笑みかけてきた。


「僕の肩で良ければ、貸してあげるよ。どうぞ、ゆっくり休んで?」
『ええ…っ!?いやっ、そんな、申し訳ないですし…っ!それに、本当に大丈夫ですので…!お、お気持ちだけ頂いときます…っ!』
「遠慮しないで、ほら。君、今、酷い顔色してるの自覚無いだろう?僕の事は気にしなくて良いから、寝てなよ。」
『ふぇ…っ!?』


ひょいと伸ばされた腕は、私の頭を掴むと自身の方へと引き寄せられた。

何が起こった…?

片頬に当たる人肌の温もりに、全身が沸騰するかのように血液が巡り始め、心臓はバクバクと忙しなく鳴る。

自然に顔は火照り始め、気付けば真っ赤に染まっていた。

しかし、此処は電車の中である為、鏡を見て確認するという事が出来ない。

が、直感的に、今、自分は思い切り赤面してしまっているだろう事は理解出来るのであった。


「ふふ…っ、顔真っ赤…。耳まで真っ赤だよ…?可愛いね、照れ屋さんかな?」
『ッ…!?』


距離的に、必然的にそうなってしまうのでしょうがないのだが、耳元でクスリと笑われて余計に恥ずかしさが増すし、何より擽ったかった。

緊張のあまり、身を固くしていると、気持ちを和らげるように頭を撫でられた。

おまけに、髪の毛を梳かれる。

ただでさえ、体力の限界だった故に、段々と目蓋が下がり始め、身体が言う事を聞かなくなる。

思考がうつらうつらとし始めた頃合いだろうか。

彼が、また心地の良い低音で話しかけてきた。


「そのまま眠ってしまっても良いよ。時が来たら、僕が起こしてあげるから…。ゆっくりおやすみ。」


まるで呪いの言葉のような其れは、睡魔に抗えぬ私を眠りの世界へと誘っていったのだった。


―どれ程の時間が経っただろうか…。

ふと、意識が浮上してきて、目が覚める。

ゆるりと目蓋を開いて、今はどの辺りの駅であるかを確認しようとして…沈黙した。

正しくは、絶句したのである。

目に映る光景が信じられず、私は未だに夢でも見ているのかと首を動かして、辺りを確認する。

何処からどう見ても、電車内の風景ではない。

それどころか、自分は、何処かの広い御座敷の真ん中で、上等な布団の上に寝かされていたのだ。

一体、どういう事なのか。

皆目見当も付かない。

取り敢えず、此処は私が居るべき場所ではないと、腕を立て身体を起こしかけていると…。


「―やぁ、目が覚めたんだね?おはよう。少しはゆっくり眠れたかな?随分と消耗していたようだからね。君みたいな女性は、しっかりと身体を休めないと駄目だよ…?」
『ぁ…っ、貴方は…、さっきの…ッ!』


再び目にしたモデル染みたイケメンの男は、余裕の笑みを湛えて、手に盆を乗せて現れた。


「覚えていてくれたのかい?嬉しいね。一応、自己紹介はしとくべきかな…?」


未だ中途半端に横たわる私のすぐ側に膝を付き、傍らにコトリと静かに盆を置くと、不思議な金色の眸で此方を見た。


「僕は、燭台切光忠。青銅の燭台だって斬れるんだよ?」


にこりと薄ら寒気のする笑みを浮かべた彼は、何だか可笑しい。

否、何か、根本的な物が、私達とは違う気がするのだ。

それに、先程電車内で見ていた服装と違って、今は黒い燕尾服なる物を身に纏っていた。


『あの…、此処は…っ。電車の中ではないですよね…?』
「嗚呼。その事なんだけど、まずは、君の身体を起こそうか。そんな中途半端な体勢のままじゃ、せっかく休んだのに疲れちゃうだろう?」


そう言って、何処かはぐらかすような雰囲気で私の身を起こして、楽な体勢にしてくれた。

そして、喉を潤す為のお茶を差し出された。

飲めという事だろうか。

反射的に受け取りつつ、本当に飲める物なのか疑問に思い、一口だけ口を付ける。


「実は、僕等は現世へと遠征に出掛けていたところでね。それで、君と出逢ったんだ。一目で、かなりの消耗をしてる子だと思ったから、声をかけたんだ。一刻も早く休ませてあげないと、過労で倒れてしまい兼ねなかったからね。」


さらりと述べたが、今、物凄い事を言われたような気がするのだが…。


「それと、此処は、君みたいな子達を休ませてあげる為の場所なんだ。其処の仕切りの向こうでも、君と同じような子が休んでるよ。」


ちらりと僅かに開けた襖の隙間からは、確かに、私同様起きたばかりで呆然と驚く女の子が居た。

彼女の目の前には、神父様みたいな格好をした男が、慇懃に跪いている。


「現世で疲れた子達を癒す為に、此処で少しの間休んでもらってるんだよ。まぁ、初めは、君達の意思を聞かずに連れてきちゃうから…拐かすようなもんだけどね。」


柔く苦笑しているが、要は誘拐紛いの事をしているって事だろう。

冗談じゃないぞ。

思わず引き攣り笑みを浮かべるが、何の力にもならない。

ただ、此処は、あまり長居して良い場所ではない事は確かだ。

明らかに、異様な場所だ。

己の脳が危機感を訴え、警鐘を鳴らす。


「目は覚めたけれど、好きなだけ居て良いからね?君が好きなだけ居ると良い。また眠って休むのも良し。話に興じるのも良し。君の望むままだ。」


燭台切光忠と名乗った彼は、するりと私の手を取ると、甲に口付けた。

忽ち、赤くなる私は、慌てて身を引く。

すると、彼は少し残念そうにしながらも、小さく笑って離した。


『い、いえ…っ!私、そろそろ帰ります…っ。もう十分休ませてもらいましたから…。その、ありがとうございます。身体を気遣って頂いて…っ。』
「そう…。解ったよ。君がそう言うのなら、無理に引き留めたりはしないよ。でも、また倒れそうな程消耗した時は、何時でも此処を利用すると良い。此処は、そういう場所だからね。」
『は、はぁ…。』
「これを君にあげよう。君を此処へと繋いでくれる物だ。」
『え……っ。』


手渡されたのは、小さな鈴だった。

よく見れば、その鈴には、家紋のような物が彫られている。


「それは刀紋と言ってね、僕達で言う家紋のような物さ。」
『…伊達の紋…?』
「おや、君は歴史が好きな人だったのかな…?嬉しいね。その鈴を鳴らせば、この場所へと通じるようになっているよ。何時、何処に居ても、その鈴一つあれば此処へと来れる。大切に持ってて。」
『う、ぁ…。えと、たぶん、もう来ないとは思いますけど…頂いておきます。ありがとうございます…。』
「どういたしまして。さぁ、帰る時は、一度も後ろを振り向かずに真っ直ぐ帰るんだよ?もし、一度でも振り向いてしまったら…どうなるか、解るよね?」


ゾワリと悪寒が走り、彼の言わんとする事が何となく解って、急いで一礼すると、一目散にその場を去った。

やはり、アレは普通の場所ではない。


「…僕は待っているよ。君が、また此処へ来るのを…。君は、きっと、また此処へ来る。……きっと、ね…。」


私が居なくなった部屋で、彼は愛おしげに私の体温の残る布団を撫でながら、そう呟いたのだった。


執筆日:2017.10.22