朝、まだ部屋で寝ていたら、先に起きた母が下の居間へと降りて開口一番にこう言った。
「あら…?**ちゃんは?」
その母の言葉に、母よりも先に起きていた父が機嫌が悪そうな口調で返す。
「は…?まだ上で寝ちょるやろうが…。」
「え?でも、部屋の前にスリッパ無かったから…もう起きてきてるのかと思った。違うの?」
「見りゃ分かるやんか…。起きてきちょったら此処に居るわい。訳分からん事言う人やなぁ。」
「だって、部屋の前にスリッパ無かったんだもの…だから、てっきり起きてきてるかと思ったんだけど、違ったのね。トイレにでも起きて行ってたから無かったのかしら?」
何を可笑しな事を言っているのか。
居間の真上に在る部屋で寝ていた私は、その母達の会話が聞こえて目を覚ました。
朝から変に大きな声で喋らないで欲しい。
私の寝室は、居間の部屋の真上に位置するせいで、かなり音が響く。
昔ながらの古い建て方をされた家でもあるせいで、真下で騒がれれば直に響いて煩くて叶わない。
せっかく気持ち良く眠っていたところを起こされ、不快な気分になる。
ついでに、何を馬鹿な事を言っているんだと、起き上がり布団から這い出て、閉めた障子の飾り戸から部屋の外を覗き込んでみた。
部屋を出てすぐの廊下の床を見遣れば、何だ、ちゃんとあるじゃないか。
少し部屋の真ん前からはずれた位置に移動していたが、この部屋に入る前に脱いで置いていたスリッパはちゃんと廊下に置いてあったままだった。
たぶん、父が起きて廊下を通った際にでも蹴っくり回して定位置からずれてしまっただけであろう。
私の寝室は、階下に降りる階段の目の前に在る配置だから、そのせいでよく部屋の前に置いていたスリッパをどっかに蹴られて移動させられたりするのだ。
その後、定位置に戻されていなければ、そりゃそのままになってしまうのも当たり前である。
きっと、荷物を持っていたから足元がよく見えなかったんだろう。
其れで勘違いをしてしまったのだ。
全く人騒がせな人である。
私は溜め息を吐いて、寝直す為に布団の元へと戻った。
今はまだ寝ていたい気分なのだ。
もう少し静かに寝かせてはくれまいか。
そう思いながら、私は布団を頭まで引っ被り完全に中へと潜り込んで、再び眠りの世界へと微睡んだ。
―また或る日の事だ。
「あら…?**ちゃんは?」
「まだ寝ちょる。」
「え?でも、部屋の前にスリッパ無かったから…もう起きてきてるのかと思った。」
「まだ起きちょらんよ。」
「そう…。部屋の前にスリッパ無かったから、てっきり起きてきてるのかと思ったのだけど…なぁんだ。まだ寝てたのね。またトイレにでも行ってて無かったのかしら?」
二人の会話で目を覚ます。
相変わらず、この間と同じような会話をしているが、私は此処で寝ていて一度もまだ起きていないのだが…。
学習能力は無いのか。
ちょっと考えれば分かる事だろうに、面倒な人だ。
きっとまた誰かが起きる時か何かで蹴りやってそのままになっているのだろう。
面倒くさい。
呆れて起き上がりつつ、布団から這い出て、またこの間みたいに障子の飾り戸から外を覗き込んでみた。
あるじゃないか。
何たってしょうもない会話を繰り広げ、其れを延長線に不毛な言い争いを繰り広げ出すのか。
もっと他に遣る事は無いのか。
面倒な親を持つと、子は苦労するものだ。
『………はぁ…。』
私は溜め息を吐いて、そのまま障子戸を引いて廊下へと出た。
季節が冬に変わろうとしているせいか、家の中だというのに空気が冷たくて寒々しい。
さっさと用を足して部屋に戻ろう。
そして、またあったかな布団の中へと戻って惰眠を貪ろう。
部屋の前にあったスリッパを履いて廊下を移動する。
全く、人の睡眠を邪魔してくれるなと言いたい。
言ったところで、其れをまともに聞いてくれた試しは今までに一度といって無いが。
手を洗って、外気に触れて冷えた身を圧していそいそと自室へと戻っていく。
そうして部屋の前に脱いだスリッパは、きちんと揃えて部屋の前に置いておく。
次履く時に履きやすいように、すぐに履けるように備えて。
障子戸を閉めて、廊下との空間を遮絶する。
まだ眠気があって寝足りないから、私は布団へと戻って眠りに入った。
部屋は静かさを保っていた。
―とある日だ。
今日は何だか目が冴えて何時になくすっきりしていたから、早々と起き上がり、服を着替えて部屋を出ようとした。
そしたらば、私のスリッパがどっかに行って無くなっていた。
何処に行ったのやら。
私は無言で首を傾げ、辺りを見回す。
すると、何処からか手が伸びてきて、部屋から少し離れた位置の廊下にそっとスリッパが差し出され、置かれた。
其れに特に疑問を抱く訳でも無く、何を考える事も無く私はそのスリッパに足を通した。
冷たい廊下を素足で歩くのは嫌だ。
スリッパを履いた足でペタペタと廊下を歩いていった。
その日は、そのまま起きて、階下の居間へと降りていった。
―また或る日である。
朝から元気な夫婦がまたしょうもない事で不毛な言い争いを始めたのか、真下の部屋で騒ぎ立てていた。
其れがモロに響く真上の自室で、私は目を覚ました。
今日は何を言い争っているのか。
どうせ、何時もながらに下らない事を発端に口論しているのだろう。
朝っぱらから良い迷惑である。
私は溜め息を吐きながら身を起こし、布団から這い出て、部屋を出る為障子戸を引いた。
そしたらば、何時ぞやの如く私のスリッパがどっかへと行って無くなっていた。
何処に行ったのかな。
私は首を傾げて辺りを見回す。
探すのも何だか面倒だと思った矢先、私はそのままの素足で廊下へ出る事にした。
すると、何かに塞がれたように先へと進めず、私は困惑した。
目の前を遮る物は何も無い。
だがしかし、前には進めず、部屋から出られなくなってしまった。
一体全体どうしてしまったのか。
訳が分からなくて途方に暮れる。
其処へ、背後から大きな影が忍び寄ってきて耳元へと囁いた。
「―まだお主が起きる必要はあるまい…?眠たければ、何時ものように布団に戻って眠っておれば良い。後の面倒事は我等に任されよ。」
黒く長い鋭き爪をした手が私の視界へと伸びてきて、視界を遮るように目元を覆い隠してきた。
大きな影は、まだ言葉を続けた。
「お主は我等の大事な主なのだ。その主の躰を労るのは当然の事であろう…?お主は、何時も苦労し眠たげにしておるからなぁ。時間はまだ早い…。もう暫しゆるりと寝ているが良いぞ。」
大きな影が、そう囁いてきた。
何も怖くはない。
が、私は其れに一つ思って、視界を塞ぐ黒き大きな手に触れた。
『…私が何時起きるか寝るかは、私の自由だろう?其れをお前が勝手に決めるな。』
私はその場で振り向いて後ろを見た。
大きな身をした影が、僧侶のような格好をして鋭き眼を光らせていた。
「主であるお主を気遣ってやるのは、臣下である者の務めであろう。何を気にする必要がある?」
『其れで余計な真似をされても困るだけだ…。現に、今、下の部屋ではウチの両親がまた下らない事で喧嘩して言い争っちまってるじゃないか。どうしてくれる…。止めるのも一筋縄じゃいかないんだぞ?頼むから、面倒な諍いは起こさないでくれ…。』
「何だったら、我等が手を下して黙らせてやっても良いが…?」
『良いから、余計な事しないでくれ。…あと、私のスリッパを変に隠すのも止めて。ついでに部屋から出られるようにして。此れは主命だよ。』
そう不機嫌さを露にして言えば、肩を竦めつつも言う事を素直に聞いてくれた彼が、懐から私のスリッパを取り出して目の前へと差し出した。
私は其れを受け取って、再び出口側へと向き直り、部屋の前の廊下に置く。
其処で初めて漸く部屋の外へ出る事が叶い、私は自身のスリッパへと足を通した。
「…本当に起きてしまうのか?まだ寝ておっても良いのだぞ…?お主がまだ寝ていたとしても、誰も怒ったりなどせぬぞ?」
『お前達が怒らずとも、下に居る人達が怒るの。…お願いだから、変な真似とか、余計な事しないでね。そのせいで面倒事起きたら、其れ解決すんの私だから。面倒事片付けんのは御免だよ。』
私はそう言い残して部屋を後にした。
残された大きな影は、一人肩を竦めてやれやれといった風に笑う。
そして、電気の点けないままの部屋の暗がりへと姿を消していった。
ウチの大きな影は、どうやら過保護なようだ。
執筆日:2019.11.09