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猫は忘れない



少し散らかったままの部屋に、一つの布団を敷いて、幾重にも重ねた毛布の中に包まったまま出てこない。

だから、何時になっても起きてこない主の私を起こしにやって来たんだろう。

その役目に当てられたのが、偶々今日近侍として割り当てられていたたぬさんだった。

何とも地味に面倒な役割である。

起きてこない主をわざわざ起こしにいかなくてはならないとは…。

そう思うのなら、さっさと起きてやれば良いだけの話なのだが…生憎、その気が起きなかったのである。

今日は、何だか起きる気力が湧かない。

何もやりたくない。

何もしていたくない。

起きて、御飯を食べなくてはならないのに。

何かを口にする気も起きなかった。

当然腹は減っている筈なのに、食べる気がしない。

起きて、朝のお務めもしなくてはならないのに。

何もする気になれない。

ただ薄暗い空間の中、ぐるぐると曖昧な感情が行き交い、籠るだけ。

布団の中に籠ったまま、虚ろに思考を漂わせる。

そうしていると、審神者部屋の戸が開かれ、奥の寝室の方まで入ってくる物音が聞こえた。

たぬさんの足音だ。

静かに、しかし、少しだけ遠慮がちに立てられた足音は、寝室の襖の前で止まる。


「同田貫だ。朝餉の時間になっても起きてこねぇから、起こしに来たぞ。主、起きてるか…?」


一応、起きてはいるが、声を出す気にもなれなかった為、返事は返さなかった。

返事が無い事を、まだ寝ているのかと勘違いした彼が、躊躇いがちに言葉を濁しながら入ってくる。


「あ゙ー、まだ寝てんのか…?あんま直接起こすのは気が引けるんだけどなぁ…部屋、入るぜー。」


ドスドスと遠慮無く踏み込んでくる足音に、少しだけ身構えて躰を固くする。

枕元近くで止まった足音に、無意識に息を潜めた。

衣擦れの音がした後に、近い位置から溜め息の吐く声がした事から、恐らく躰を屈ませたのだろうと推測を立てる。


「めちゃくちゃ布団着込んでんな…。暑くねぇのか?というか、重さで潰れねぇのか、コレ…。」


幾重にも重なった布団の様子に、呆れの声を滲ませるたぬさん。

だって、此処のところ寒かったんだから、仕方がないじゃないか…。

ぐるぐると考えている思考の片隅で、そんな事を思った。


「主、朝だぞー。飯だ、さっさと起きろー。」


たぬさんが気怠げな声で起きろと呼びかけながら、頭があるであろう位置の布団の上をぼすぼすと叩く。

分かってはいるけども、やはり声を出す気にもなれなくて、反応を返す事はない。

目を開ける気にもなれない。

だから、まだ動く気にもなれない。

無反応が返ってきたからか、たぬさんが再び声をかけてくる。


「おーい、起きてくれよ…。布団剥がなきゃ起きねーつもりかぁ?」


答えるつもりはない。

黙ったまま、真っ暗な中、少しだけ薄ら目を開いても、すぐにまた目蓋を閉じる。

静かな空気が流れていく。


「…チッ、あんましたくはねぇが、強行突破だ。…布団、剥ぐからな?後で愚痴垂れても知らねぇぞ。」


面倒くさそうに舌打ちし、そう言ったたぬさんは、宣告通り、布団を剥ぎに掛かった。

むんずと掴まれた隙間から光が漏れ、僅かに眩しさが目蓋の裏を照らした。

地味に眩しい。


「…アンタ、本当は起きてんだろ。嘘寝してんのバレバレだぜ…?」


捲られた布団のせいで、肩口が寒い。

微かに身震いをして、ごろりと寝返りを打って反対側へ向き、捲られた布団の残り部分を引っ張り寄せた。


「おい、コラ。人が起こしに来てんだから、さっさと起きろや。」


引っ張り寄せようとした布団を引っ張られ、余計に捲られた。

覆っていた筈の上半身が外気に晒され、急激に体温を奪われていく。

声を出すのも億劫だったが、流石に寒いのは堪えたので、小さく唸り声のみ返事を返す。


『…ぅ゙…っ、んん゙ぅ゙………っ。』
「いや、唸るんじゃなくて…起きろ。」


寝癖でぐしゃぐしゃになっている後頭部をペシンッ、と軽く叩かれる。

力はあまり入れられていなかったのか、大して痛くはなかった。

再び、シン…と静まり返る部屋。

たぬさんの低い溜め息が零れ落ちた。


「……どっか具合でも悪ぃのか。」
『……………んぅ゙………別に、そんなんじゃないよ…。』


小さく掠れた低めの寝起き声で、漸く発した言葉。

其れだけの事なのに、何故か酷く喉が疲れたような気がした。


「なら、何で起きねーんだ…。食欲ねぇのか?」
『…んぅ……食欲は、無いなぁ…。お腹は減ってるんだろうけど……たぶん。』
「何だそりゃ…?意味が分かんねぇよ。」
『……単純に食べる気がしないって事…。もう少ししたら起きるから…、布団返して。』
「今起きんなら、布団返してやる。でなきゃ返してやらねぇ。…起こしに来た意味がねーからな。」
『…寒い。このままじゃ風邪引くから…布団返せ。』
「嫌だ。返して欲しけりゃ起きろ。」


ぐいぐいと強い力で引っ張ってみたが、それ以上の力で引っ張られ、引き寄せる事は叶わない。

次第に力尽き、面倒になってきて、地味な攻防戦は終わる。

寒さ故に身を縮こまらせ、丸まった体勢を取る。

その間も、たぬさんには背を向けたままで、ジトリとした彼の視線をずっと感じていた。


「…なぁ、何でアンタ此方を見ねぇんだ…?」
『………………。』
「寝起きの顔見られたくねぇとかか…?」
『……そういう事にしといてぇー…。』
「は…っ、んなの今更な話だろ。もう何度も見られといて、今更恥ずかしがる事でもねぇだろ?」
『…乙女からしたら、そうじゃないかもしれないでしょ?』


曖昧な言葉が静かな部屋で交わされていく。

また少しの間が空いて、たぬさんが話しかけてきた。


「…じゃあ、アンタは何を気にしてんだ…?」
『…………別に。』
「別に、な訳ねぇだろーが…っ。平常でいれてねぇから、此方見ねぇんだろ…?黙ってねぇで、はっきり言いやがれ。」
『……………………寒い。』
「何もねぇんだったら、此方向け。」


背を向けたままでいたら、バサリと布団を返された。

急に被せられた布団は、すっかり冷えて冷たくなっていた。

話すのには、顔を見られたくなかったから…丁度良かった。

優しいたぬさんの配慮に温もりを感じて、もそもそと躰の向きを元の方向へ戻す。

同時に畳を踏みしめるような音が頭の近くでしたから、たぶん、すぐ近くの場所に腰を据えたんだろうと思う。

被った布団から、僅かに頭の天辺と指先を出して、初めて此方から話しかけた。


『…ねぇ、知ってる…?猫って…一度嫌な事を経験すると、ずっと覚えてる生き物なんだって。』
「は……?」


突然に、某豆犬のCMの如く問いかけると、困惑したような様子で返事を返してきたたぬさん。

まぁ、当然の反応な上に、当然の結果だと思う。

急な言葉の返しに、戸惑いつつも、彼は返答を返してきた。


「き、急にどうした…?」
『別に…どうもしないよ。』
「いや、明らかに今可笑しかっただろ…。大丈夫か、アンタ?」
『…たぶん、大丈夫じゃないんだろうね…。』


また曖昧に返したら、再び深い溜め息を吐かれてしまった。

気怠げなのは変わりはしないが、それでも話を聞いてくれようとする意思はあるようだ。

黙って言葉の続きを促してくれているようだった。

布団を被ったままだから、私が今見えているのは、布団の隙間から見えるたぬさんの手と足元しか見えないが。

側から離れていこうとする様子は見受けられなかった。

だから、私も静かに言葉を続けた。


『…私ね、昔から猫っぽい奴だって言われてきたの…。あんまりにも猫に似てるから、“お前の前世は人間になりたかった猫なんじゃないか”って、しょっちゅう言われたんだ。私自身も、何となくそんな気がしてて、そうなんじゃないかって信じてた…。……だからね、どんなに辛くて厭だという事も、どれだけ忘れたいような事があっても、覚えたままなのかな、って…。』
「……………。」


彼は、黙って私の話に耳を傾ける。


『どんなに忘れたいと思っても、厭と思う記憶だけは、何時までも残って消えてくれないんだ…。他の楽しかった記憶や、幸せな記憶は、薄れて忘れていってしまうのにね……。』


もぞり、布団の中で小さく身動いだ。

覆い被せていた布団をもっと引き上げて、頭の先まですっぽりと隠れる。

今きっとたぬさんからは、枕元に散らばった髪しか見えていない状態だ。

冷えて冷たくなってしまった指を、布団の中へと引っ込める。


『辛くて厭なのに、思い出したくもないのに蘇ってきて、今でも私を苦しめるんだ…。どれだけ忘れたいと願っても、忘れられない…薄れもしてくれない記憶が、脳裏にこびり付いたまま離れてくれないよ……っ。だから…私の本質は、きっと猫なんだ…。』
「………良いんじゃねーか?別に猫でも…。俺は、アンタが猫であろうと何だろうと気にはしねぇよ。厭な記憶だって、覚えたまんまで居ても良いんじゃねーか?其れを経た上で、今のアンタが居るんだろうからなァ…。」


酷く優しさに満ちた声が、布団越しに届いた。

思わず、僅かに身動いで、感情を誤魔化す。

それでも、もぞもぞと布団の中を動いていたら、不意に彼から布団を捲られた。

隠していた筈の顔を晒されて、外気に触れる。


「まぁ…其れで、どうしても辛くなった時は、一人になるんじゃなくて…俺達を頼れ。アンタが必要としてくれりゃ、俺達はアンタを支える為に動く。其れは、アンタの部下だからとか臣下だからとかの義務感からじゃない…。純粋にアンタを支えてやりてぇから動くんだ。」


目尻を流れていた涙を、傷だらけの武骨な指先が拭う。


「…だから、一人で隠れて泣いたりすんな…。泣きたくなる程辛くなったら、側に居てやるから。泣くなら、俺の前で泣け。」


優しく紡がれる優しい言葉に、流れ出した涙は止まらない。

次第に、鼻がぐずり出して、ずびりと鼻を啜った。

その際、鼻の奥が詰まって、代わりに口で呼吸しようとして、嗚咽が漏れた。


『ッ………、ぅ゙ぇ…っ、』
「我慢すんな…。ほら、此方来い。」


ぼろぼろと溢れゆく涙を止めようと目蓋を擦っていると、その手を取られて、制される。

布団から出ていた身を引き寄せられ、気付けば私の身はたぬさんの腕の中だった。

さっきまで寒かったのが嘘のように、熱を取り戻していく。

たぬさんの腕の中は、酷く温かくて、冷え切っていた身も心もすぐに暖まっていくのを感じた。

彼の温もりを感じて、波立っていた気持ちも段々と落ち着いていく。

未だに鼻はぐずついていたが、次第と涙の方は止まっていったのであった。


「…落ち着いたか…?」
『………あったかい…。』
「そりゃ、良かった。アンタが冷えて寒くなったってんなら、何時だって俺の温度を分けてやるよ。俺は、他の奴よか幾分体温が高いからな。」
『ん……。』
「アンタが温もり切るまでこうしててやっから、温もったら起きろよ。」


彼の腕の中は、酷く心地が好かった。

心地が好過ぎて、そのまま、また眠ってしまいたかった。

だけども、起こしに来てもらった手前、そうは出来そうにはなかった。

本物の猫で居れたなら、素直に甘える事が出来ただろうにな…。

またとなく潤んだ瞳に、涙が溢れてしまわないよう目を瞑る。

そうして目尻に浮かんだ涙を、拭うように目元に口付けられ、舐め取られた。

ビクついて、思わず目を見開き、俯けていた顔を上げてしまった。


「…やっぱり、しょっぺえな…。」


ぺろり、涙を舐めたたぬさんが唇を舐めながら呟く。

瞬間、彼の視線と目が合ってしまった。


「漸く此方見たな。」


ニヤリ、たぬさんの目が弧を描く。

詫びも礼の言葉も口にしない内に、開きかけた言葉はたぬさんの口に封じ込められた。

ちょっとだけ熱い温度を残して離れた唇に、思考はフリーズしたままである。


「…ん、やっぱり此方のが甘ぇわ。」


するりと自然に奪われた唇の記憶は、ある種、忘れたくても忘れられない記憶になるだろう。


執筆日:2019.02.01
加筆修正日:2020.04.09