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夜辺の殻に迎える



何の変哲も無い日常を送っていた。

あまりにも平凡で、其れでいて且つ何の刺激も無い驚きも無い、退屈に溢れた日常だと思った。

其れがいけなかったのだろうか。

何時の日からか、そんな事を思う暇も無いくらいに多忙で窮屈な日常へと塗り変わるように変わってしまった。

まるで、退屈だと思った事が悪くて、其れこそ罪だったのだと言わんばかりに変動してしまった。

私は、何か罪となるような事を犯してしまったのだろうか。

そりゃ、子供の頃は、幼心から善悪の区別が付かずに色々とやらかしてしまった記憶は有れど、罪と言うにはあまりにも小さ過ぎる事だった。

私が何か仕出かしたのだろうか。

私は、ただ何も無いよりは彩りの有る鮮やかで愉しげな毎日を送りたいと願っただけなのに。

何故、人生というものはこうも上手くいかないものなのだろうか。

何度、私は挫折を繰り返し、其れを味わえば良いのだろうか。

幾度となく苦しみや辛さを味わった。

もう此れ以上は要らないという程、沢山経験してきた。

いっそ身に余る程だ。

其れなのに、私にはまだ不幸という雨が降ってくる。

疫病神でも憑いてしまったのだろうか。

其れとも、自分の身には不相応な事を願ってしまったから、其れが災いして、自身の存在自体が厄なるものと堕ちてしまったのだろうか。

どうして、何で。

詮無き言葉達が心の中を止めどなく溢れて止まない。

何がどうしてこんな事になってしまったのか。

嗚呼、神よ、私が何かしてしまったのでしょうか。

ならば、教えてください。

居るのならば、答えてください。

迷える子羊をどうか救ってください。

私は、もう何かに誰かに救いを求めなければ、心が折れてしまいそうなのです。

何時しか泪も枯れ果て、呼吸の仕方すらも忘れてしまいそうです。

この身に余る罪とも言える、私に課せられた罰は何なのですか。

私は、其れを知りたい。

出来る事なら、その罪を償いたい。

其れを知る事も償うべき事も解らぬままならば、私は、何時か惨めにも無惨にその命を自ら擲って死んでしまうかもしれない。

嗚呼、私は、一体どうすれば良いのでしょうか。

どうすれば、この無限の暗闇から脱け出せるのでしょうか。

居るならば答えてください。

そして、教えてください。

私は、まだ生きていても良いと値する存在に成り得るのでしょうか。

嗚呼、神よ、居るならばどうかお救いください。

迷える子羊を、生きる事に疲れ果て路頭に迷う私を…。


―まるで、何処かの劇場で行われる哀れな末路を飾った喜劇のような話だった。

其れが、端から覗き見たように、他人事に劇のように語った己の此れまでの生涯という物語の過程なのだが…。

全く面白味に欠けてしまう内容だと思ってしまうのは、気のせいだろうか。

いやはや、しかしながら、此れ程にまで私の心中は摩耗してしまっていたかな。

確かに、泥のような日々を這いずり回り、何とか生という名の根を張って生きているだけに過ぎない日常を送っていた自覚はあったが。

流石の此れじゃあ、何かに頭が触れたか気が触れでもしたのかと思わざるを得ない内容だった。

一時的にも、私の脳味噌は狂って、あらぬ方向へと傾いてしまっていたのかな?

何とも滑稽で狡猾な話であった。

未だ罪意識なるものは内に燻ったままだが、其れなりに正常な精神でもって己が生を保てている。

きっと、居もしない、もしくは本当に居るのかさえも解らない何かに縋らねばならない程、色々と追い詰められていたのだろうと思う。

まぁ、そんな風に考えてしまう程、一人黄昏てしまってはいるのだが…。

私という個の人間に、一体何れ程の価値があって存在出来ているのだろうか。

時偶に疑問に思い、そう頭に掲示してみる。

答えは無限通り。

つまり、己が納得出来得る解答には辿り着けないまま、何度も同じ問いを投げかけるだけに終える。

つまりは、無限ループだ。

端から見れば、何とも下らない問答を繰り返し、無駄に時間という枠を浪費しているに過ぎないと思われるであろう。

だが、時折、哲学者のようにそう掲示でもしないと、己が精神をまともに保っていられない気がするのだ。

全くもって、何故人間という生き物はこうも複雑化した構造をして生まれてきてしまっているのだろうか。

もっと簡単で容易な思考の構造を持って生まれていれば、もう少し楽な方向に考え、生きる事が出来たのではないかと思ってしまう。

そもそもが、こんな詮無き事を考えてしまう事自体が悪いのだろうか。

得てして、人間という生き物は、時に己の存在価値に疑問に思い、其れを例え己でなくとも他者の存在に問うたりする生き物だ。

そういう意味合いで言えば、正しく私は人という生を全うしていると言えるのだろうか。

ふむ、此れもまた答えを得ぬ問答か。

一度頭の中を空にしてみよう。

偶には何も考えないで居てみようとするも、つい何かしらを考え込んでしまう癖があっていけない。

私は動いていないと死んでしまう鮪か。

否、私は魚類なんてカテゴリーには属さない。

歴とした人間としてのカテゴリーに属している筈だ。

どうやら、ついこうも考え込んでしまうのは、私の悪癖に値するらしい。

直さなくては、何れ破滅の精神へと辿り兼ねないか。

いや、しかし、思考を止めてしまっては、私の生きる価値は下がる一方なのではないか。

其れもまた違うか。

最早、何が何やら解らなくなってきてしまっているか。

やはり、一度頭の中を空にしてみる必要がありそうだ。

さすれば、少しの間くらいは、この罪意識を感じる柵から解放されるだろうか。

黄昏に時を委ねて、無為に思考する。

少し疲れてしまったか…。

一旦、思考する事自体を止めにしようか。

夜の束の間の暇に持て余してしまった時間を、ベランダの柵に身を預け、眼下に映る夜の町を眺め、一人物思いに耽っていた。

季節は移ろい、すっかり秋も深まって、もうすぐすれば冬が訪れる頃だろう。

季節というものは、得てして昔から人というものを置き去りにして過ぎ去り、次々と暦を書き進めていくものだ。

私もまた、その置き去りにされた人の一部に過ぎない者だ。

故に、一人となれた時間に、夜というある意味孤独を感じやすい空間で黄昏、己の思想を繰り広げるのである。


「…にゃあん。」
『おや…お前、また来たのか。何時もながらに思うが、私の棲み処なんぞに来ても何の得にもならんぞ。其れこそ、私なんかに構ってる暇があるなら、もっと良い事に時間を当てた方が有意義なんじゃないか…?例えば…お前に飯をくれる処へ行くとか、お前を飼ってくれそうな心優しい家の在処を探したりするだとか。ウチは、そのどちらも提供してやれないんだから、そういうのをお探しなら他を当たってくれよ。』


そういえば、ここ最近、こうして一人夜にベランダで黄昏ていると。

何処からやって来たのか、黒い野良猫が時折私の元へやって来るようになった。

大して構ってやったつもりは無いが、何故か私が一人夜に黄昏ていると、決まったように足元へとやって来て、私が家の中へと戻るか、彼が満足してこの場を去るかするかまでは、勝手知ったるやと言った我が物顔で居座るのである。

彼と称すのは、以前来た時に気紛れで触れ合い、抱き上げた時に雄であるものと確認したからである。

残念ながら、ウチは猫を飼えるような家でもなければ、その余裕すらも持たない家だ。

現状、それぞれがやっとといった具合に生き、保たれ生活している。

そんなちぐはぐな家族集まる家なんかに居ても窮屈極まりないだけだろう。

猫というのは、自由に生きる生き物だ。

羨ましくも、憧れを抱くには相応しい生き物だった。


『…お前は何もしないでも、私に寄り添ってくれようとするのだね。特に、傷心に浸っている時は常といった具合に…。まるで、慰めるような存在で居てくれるよね。…たった其れだけの事なんだとしても、私は嬉しいよ。』
「……ぐぅるるる…。」


低く唸るように鳴いた彼に導かれるように、そのボサついた毛並みをした頭を撫でてやった。

すると、彼は其れを待ち望んでいたかのように心地良さそうに擦り寄ってくる。

本当、気紛れ且つ気儘に生きる猫は、癒しを求める存在としては打ってつけだ。

この猫からしてみれば、飛んだ傍迷惑な事かもしれないが。

うりうりと可愛がるように頭を撫ぜ、顎下や額を擽ってやる。

すれば、真っ黒な雄猫の野良猫は、途端に気持ち良さげに喉を鳴らすのだ。


『…っふふふ、お前は優しいね。一人黄昏てた私を構おうとしてくれるなんて。…大丈夫、何時も静かな夜のベランダに居るからって死んだりなんかしないよ。私は、まだ色々とやってみたい事がいっぱいあるからね…。其れこそ、すぐには思い付かない程漠然としたものだけど、沢山あるんだよ。お前にも、何かやりたい事はあるのかい?』
「…な゙ぁ゙う。…っが、くかかかか…っ。」
『うん…何て言ってんのかは解らんが、何かしらやりたい事があるんだな。なら…其れが何時か叶う時が来れば良いね。私なんぞが願う必要も無かろうがな…。』


ベランダの柵際に屈み込み、足元にくっ付くようにして寄り添う彼の背中を撫でる。

こうしてやれば、毛羽立った毛並みも少しはマシに整えてやった風に見えるだろうか。

彼は、猫にしてはなかなかに凛々しくも逞しい精悍な顔付きをした猫だった。

雄猫である事も相俟って、きっとモッテモテなんではなかろうか。

其れを、人間なんかの、しかも私なんかに構っていて良いのだろうか。

番の相手は、既に見付けて居るのだろうか。

そんなどうでも良い事が脳裏に過って、ふと口にしてみた。


『…お前、パートナーは居るのか…?まぁ、お前程顔も良くて立派な雄なら、相手は選り取りみどりなんじゃないのかなぁ〜とは思うけどさ。』


そう口にした途端、意味深に動きを止めた彼が、私の目を見つめてきた。

その視線に私は特に深い意味を持たずに答える。


『うん…?私なら、そんな相手始めから居ないぞ?そもそも…私なんか変わり者を貰ってくれるような相手が居る事自体稀ってもんだ…。まぁ、私も其れなりの歳にはなってきてるから、そろそろ結婚とか視野に入れて考えなきゃいけないんだろうけどなぁ…ぶっちゃけ面倒というか、私に見合うような相手が居ないというかな…。人間生きてくだけでも大変なのに、もう一人そんな相手を抱えなきゃいけなくなるのかと考えると、其れもどうかなぁ…って思っちゃうんだよな。』


言葉の通じない猫相手に、一人寂しい独り言をごちて零す。

其れを、彼は黙って耳を傾けて聞いてくれていた。

私は其れに気を良くして、あらぬ事を零してしまった。


『…もし、お前が人間に成れたなら、凄く惹かれる対象に成り得たんだろうなぁ…。……って、猫相手に何言ってんだよって話だよな。ごめん、可笑しな変な話して。一人こんな時間に黄昏過ぎて、寂しくでもなっちゃったかな…?忘れて。』


思わず自嘲気味な笑みが漏れ、乾いた笑いが口から漏れた。

猫は変わらず、澄んだ金色の眼を私に向けたまま、黙っていた。

その意味深にも取れる視線と無言の台詞に、疎く鈍い私は気付かなかった。

故に、何時もと変わらず適度に構ってやった後、躰が冷えてきたから別れの挨拶を一言告げて、家の中へと入っていった。

その後も彼は、暫くその場から動かず、ジッと私が去っていった方角を見つめていたのだった。


―数日後。

またもや夜の暇を持て余してしまった時間を、一人ベランダに出て夜風に当たりながら黄昏ていた。

すると、何時ぞやの如く野良猫の彼がやって来て、私の足元へと近寄ってくる。

今日はどうしたのか、珍しくも着飾っていて、黒い襟巻きのような布を何重かに首や腹に掛けて巻き付けてやって来ていた。

その物珍しさに、私はついお節介を焼くみたいに口にした。


『おや…、今日はどうしたんだい?随分とめかし込んでいるじゃないか。さては、良い家に貰われたか、良い彼女さんでも見付かったのかい…?』


口にした後になって思ったが、随分とおっさんくさいようなおばさんくさいような事を口にしてしまったな、と思った。

今のはちょっと頂けなかったかな…と内心反省する。

そんな私を他所に、何時もの如く私の足元へやって来た彼は、徐に首に巻き付けた布に噛み付き手前に引っ張って、まるで“お前にくれてやる”と差し出すかのように端を咥え、低く「ぐぅ。」と鳴いた。

一体どうしたというのだろうか。

突然こんな風に接せられても、反応に困ってしまうのだが…。

取り敢えず、このまま放置するのも如何なものかと思い、何時も通り屈み込んで、足元に寄る彼へと視線を合わせた。


『な、何だ…?どうしたどうした一体…っ。其れ、お前が誰かから貰った大事な物なんじゃないのか…?』
「…ふがっ、うがぅるる…っ。」
『……いや、何て言ってんのか全然解んないんだが…っ。もしかして…其れ、私にくれるって事か?』
「ぁ゙あ゙う…っ。」


そう訊いたら、まるで早く取ってくれと言わんばかりに、くぐもった声で低く鳴かれ急かされた。

せっかく誰かに貰った大事な物だろうに…そんな大層な物を貰う程、私は彼に何かしてやった記憶は無いんだが…?

しかしながら、贈り物と体したような物を差し出されては受け取らざるを得ず。

一先ず、一言礼を述べてから頷き、断りを入れてから、その首に巻かれていた黒い立派な襟巻きのような物を外しに掛かった。


『解った…解ったから、そう急かすな…っ。其れを私にくれるんだな…?有難う。わざわざ私なんかに贈り物くれなくったって良いだろうに…。私、そんなにお前に何かした事あったか?無いだろ。…まぁ、くれるんなら、有難く受け取っておくけどもさ…。本当に良いのか?私なんかが貰っちゃって。もっと良い相手居たんじゃないのか…?』


外しに掛かる手前、一応確認の為にと思い、問うてみる。

すると、良いからさっさと受け取れと言わんばかりにまた急かされて眼を怒らせられた。

いや、そんな風に凄まれても、いきなりの事で何が何やら…。

嘗て昔、近所を縄張りとして彷徨いていた野良猫が、何を思ったのか、或る日お供え物でもするかのように、玄関のドアの前に何処から持ってきたのか解らない土竜や鼠の死骸なんかを置いていった事はあった。

衛生上宜しくないので、其れを見付けた母が丁重に土に埋めてやったと言っていたが。

思わず、そんな子供の頃の昔話を思い出してしまった。

しかしながら、何処のどの野良猫がやらかしたのかは不明だが、その謎のお供え物事件をやらかした猫は、恐らくこの彼とは違う猫の筈だ。

だって、その謎の事件があったのは、もう何十年と前の昔の事である。

きっとその猫は既にこの世から去っている筈だ。

だから、彼は、また別の猫という事になる。

にしても…こうも真っ正面からアピールされ、贈り物をされるとは、初めてな事だ。

まさか猫相手に贈り物をされる日が来ようとは思ってもみない事だろう。

彼に改めて断りを入れつつ、触れた襟巻きのような黒い布は、お世辞にもあまり手触りの良い物とは言えなかった。

取り敢えずの形で有難く受け取っておくかと思い、彼の首から外した布を手に持って立ち上がり、何も巻いていなかった首元へと巻き付けてみる。

すると…成程、確かに手触りはあまり良くないが、肌寒くなってきたこの季節、且つ冷たい夜風に当たって冷える身には丁度良い温かさだった。

改めて礼を述べようかと俯けていた視界を上げた時、其処に彼の姿は居なくなっていた。

代わりに、目の前には夜闇に溶け込んでしまいそうな程に黒い姿をした男の人が立っていた。

否、先程まで猫の彼が居た場所に立つ彼は…恐らく“人”ではないのだろう。

しかし、変わらぬ気配に、身の毛がよだつ事も無く、ちょっと驚いただけで、後は常と変わらぬ平常を保っていた。

…まぁ、頭の中は少しばかりこんがらがったように混乱していたが。

彼と同じ金色をした双つの眼が、私を射抜くように見つめてきた。


「…アンタには此れまで世話になった。だから、その恩を返しにやって来た…。」
『……、はぁ………って、お前…喋れたのな…。人の言語喋れんのなら、始めからそう言えよ………っ。』


空気を読まない私の突っ込みが宵闇の空気へと溶け込んで消えていった。

彼が、真っ直ぐと私を見据えながらに言ってくる。


「…俺は、同田貫正国。…今宵は、アンタの事を貰い受けに来た。其れが、せめてもの餞別さ。」


貰い受けるとは、餞別とは…何を指し示して言っているのか、ちっとも解りはしなかった。

私は、そういう事に疎いから…すぐに察してやる事が出来なかったのだ。

だがしかし、其れでもこんな私を望み、求愛を求めてくる相手が居ようとは、誰が予想付いただろうか。

しがなく無為に生きているだけの何の魅力も無いであろう、人間の女に…果たして、求愛を求めるに値する価値や意義があるのだろうか。

またしても、こんな時に限っても私の悪癖は出てきて、無駄な思考を繰り広げようとし始める。

其れを遮るかのように一歩前へと踏み出した彼は、私への距離を詰めて口にしてきた。


「……アンタが望んだろ?俺が人の身ならば惹かれていた、と…。だから、こうして人の身を持ってしてアンタの元に出向いた訳だ。…アンタの心が変わっちゃいないなら、その気持ち、俺が貰っちまっても良いか…?」
『え……………っ。』


彼より受け取った襟巻きに顔を埋めるようにして彼の事を見ていたら、徐にそう言われて、私は初めて彼の言っていた言葉の意味を理解し、自覚する。

確かに、私は先日そのような事を口走ってしまった気がする。

だけども…まさか其れを本気で捉えるような輩が居たとは思わず、つい言葉に詰まって口を噤んでしまった。

其処へ、美しい金の眼を柔らかく細めた彼が、不意に顔を寄せてきて、軽く口許へと口付けを落としてきた。

その衝撃に情けなくもへなへなと力を失って体勢を崩しかけ、地面へと尻餅を付くかとなった時、逞しい彼の腕が伸びてきて、あっさりとも私の腰を支えて立たせ直してくれた。

いとも簡単に縮まった彼との距離感に戸惑って、変に焦り始めた躰が熱を持ち始める。

意識していないが、恐らく頬も赤く染まっていやしないだろうか。

嗚呼、何という事だろうか。

確かに非日常的な事を望んだ覚えはあるが、幾ら何でもこの結果はないのではなかろうか。

此れでは、心臓が幾らあったとてもたないではないか。

私は、色んな羞恥に駆られながらも、不思議と離せない金の眼から視線を外せずに見つめていた。

そんな私の様子に、彼はご満悦な様子で口許へ笑みを浮かべ、眼を細めた。


「……っふ。…偶には、アンタもそんな顔するんだな…。俺好みの、戸惑った風の“女”の顔だな…?」
『は……………ッ!?』


くつくつと喉の奥で笑う彼の眼が、猫の時の弧を描いた其れと似通って、堪らず何かが込み上げてきて、私は息をするのにさえも詰まってしまった。

そんな私の赤く染まりゆく頬に手を添え、低く抑揚のない声で囁くのだ。


「…俺はアンタを迎えに来た訳だが…アンタは其れをどう受け取る?…是と返すのか、否と返すのか。全てアンタ次第だ。俺はその返事にこの身を委ねる…。アンタが決めてくれ。俺は何時までも待ってやるからよ。…アンタがどう答えを返すのか、見届けてやる。」


私がしてきたように、今度は彼の方から私に触れ、髪やら頬やらを撫ぜられる。

擽ったくて、身を捩れば、其れに合わせて触り方を変えてくる彼の接し方にもどかしくなってきて、遂には口を割るように言葉を口にした。


『ッ〜……っもう!その触り方止めて…!擽った過ぎて何だかむず痒くなってくる…っ!!』
「…アンタにされてきたのを真似てやってるだけなんだがなァ…?」
『うゔぅ゙…っ、其れはごめんて……!好き勝手触ってきて悪かったよ!ごめんなさいでしたぁ…っ!!』
「…っふ、……で?答えは決まったのかよ…?」


何時までも待てるとか言っておきながら、結局はそうやって急かすんじゃないかとの愚痴を、敢えて口には出さないまま飲み込んだ。

そして、急かすように先の言葉を促すように触れてくる彼の手を取って、口にした。


『………わ、私なんぞで構わないのなら……お前の行く先まで連れて行って欲しい…っ。』
「…其処がどんな場所でも構わねぇんだな…?」
『……元より、今の日常から抜け出したいって思ってたから………其処から連れ出してくれるのなら、何処へだって良いよ。…私に寄り添っていてくれるのなら、何処へでも…。』
「…そうかい。なら、誓いは果たされたな。」
『え………?』


そう告げた彼に、ふわりと抱き抱えられて、トン…ッと柵の上に飛び移ったかと思うと、更にその上へと運ばれ、気付けば屋根の上に位置していた。

おっかな吃驚、思わぬ高さに忽ち私は竦み上がって、彼の何も付けられていない首元へ縋り付くようにしがみ付いた。

其れに対し、彼は愉快そうに笑った。


「今宵を持ってして…アンタは俺の番だ。…精々飽きる程にまで慈しんで愛を注いでやるから、覚悟してろよ?」
『ひぇ………っ!?』


にやり、金の眼を耀かせて言った彼の言葉に、今更ながら恥じらいを返す。

そんな私の身を大層大事そうに抱えたまま、彼は何処とも知れぬ宵闇の中へと消えていってしまった。

…その後の私の行方を知る者は、きっとこの世には居ないだろう。


執筆日:2019.10.29