▼▲
Mement mori.メメント・モリ



漸く本日の仕事に区切りを付けた彼女を労って、自ら彼女の食事を取りに行ってくると名乗り出た。

何時もの事だ。

疲れていた彼女も其れに二つ返事で快諾し、彼を部屋から送り出した。

嬉々として厨へ向かったまでは良かった。

しかし、其処からが最悪であったのである。

彼女へ出す予定だった食事を取りに行ったら、器に盛られた葉物野菜に小さな蠅が這っているところを見付けたのだ。

小さな蠅は何も知らぬと言わんばかりに、其れは自由に無造作に皿の上を這い回っていた。


「―貴様、其れは此れから我が大切な御方に出す予定の食事だと知っていて這っているのか…?」


彼の喉奥から地を這うような低い声が絞り出された。

だが当然の如く、虫如きが人の言葉を解する訳も無く、小さな蠅は変わらずに皿の上を這いずり回っていた。

刹那、彼の眼は人為らざる者の其れに等しきものと変貌し、鋭く尖った視線を皿の上へ遣った。


「其れは我が主の為にと用意した神聖なる食事だ。汚らわしい貴様等のような奴が食して良い物ではない。死ね。」


正しく、視線だけで射殺したようなものであった。

彼に睨まれた小さな蠅は、突然何かに貫かれたかのように動きを止め、身を震わせたかと思った途端、その身は破裂したかのように皿の上の食べ物の上で散々になった。

その様は何とも惨たらしく汚ならしかった。

いっそ酷い嫌悪感さえ抱く程の絵図だった。


「……ふんっ、虫けら如きめ。神聖な主の食事に手を出した罰だ。二度と同じ事を犯すなよ。」


すっかり食べ物として提供出来なくなってしまった其れ等を、彼は淡々とゴミ箱の中へと捨てていった。

そうして片している内に、何か物を取りに来たのだろう、厨へやって来た燭台切が背後から姿を見せた。


「あれ…?長谷部君、何やってるの?」
「ん…?嗚呼、燭台切か。いや、ちょっとな…主の元へ用意していた食事を運ぼうと取りに来たのだが、その食事の上に蠅が鬱陶しくも我が物顔で悠々と這っていたのでな。今しがた片していたところだ…。全く…奴等ときたら、なんて卑しく物分かりの悪い屑共なんだ。ちょっと目を離した隙に何処からともなく現れおって。鬱陶しいにも程がある。お陰でせっかくの主への食事が台無しだ…!」
「あらら…、今日は暖かかったからかなぁ。春になって虫達も冬眠から覚めたりして活動し始める時季だものね。僕も失念してて、まだ新しい小蠅取りを用意してなかったのもあるかも…。ごめんね、用事終わった後すぐにでも設置しておくね。」
「是非ともそうしてくれ。俺は今から新しく主の食事をよそい直すので忙しい。」
「うん、僕の方も此れから気を付けておくよ。まだ御飯もおかずも沢山余ってるから、好きにおかわりしてね。どうせ長谷部君も食事まだなんでしょ?」
「臣下たる者、主より先に食事を頂いたりなど出来るか…っ。俺は主と共に頂くのだ。俺は近侍であり、主の身の周りのお世話係も担っているからな。当然の事だ。」


そう言って新しくよそい直した食事を持って、慕いし彼女の居る部屋へと戻っていく。


「失礼致します。遅くなってしまい、申し訳ありません。お食事を持って参りました。」
『おぉ、有難う長谷部。其れにしても、やけに持って来るまでの間が長かったね…。途中で何かあったかい?』
「いえ、大した事ではございませんよ。所詮些末事に過ぎません。…ただ、正直に申し上げますと、主へと提供する筈だった食事に小蠅が無造作に這っていたものですから…。そんな物を主へとお出しする訳にはいきませんので、新しくよそい直したりなどしていて時間が掛かってしまいました。申し訳ありません…俺とした事が、管理が行き届いていなかったようで。今後同じような不手際が無いよう努めますので、ご安心ください…!」
『おや、まぁ。其れで戻ってくるのが遅かったのね。わざわざ気遣ってくれて有難う。長谷部は本当によく気が利く気遣い屋さんだねぇ。偉い偉い…!』
「な、なんのこれしき…!主の為を思えばこそ、当然の事をしたまでです…っ!」


先程まであんなに不機嫌そうだった空気はいとも簡単に崩れ去り、愛しき彼女から労いと感謝の言葉を同時に掛けられたからか、至極嬉しそうに薄桃色の花弁を舞わした。


「ささ…っ、俺なんて者への施しは良いですから、冷めない内にどうぞ。お待たせしてしまった分、お腹を空かせておいででしょう?さあ、一緒に頂きましょう!」
『其れもそうだね。はぁ、今日も頭使いまくったからお腹ペッコペコ…!此れはいっぱいエネルギー補充しなきゃね!…ふふっ、今日も美味しそうな御飯!それじゃ、いっただっきま〜す!!』
「頂きます。」


男がまこと人のように振る舞えど、その実はやはり人の者ではなく、神に近しい者であったのだった。


執筆日:2020.04.25