俺の主は、何時も暇さえあれば本を書いていた。
夢物語を描いた小説なんだとか。
例えばどんな話を書いてるんだと聞けば、内緒、との含み笑んだ返事しか返ってこなかった。
言いたくないのなら別に構わなかったし、其れ以上問うのも憚られた上に、当初はそこまで気にする程気にもならなかったから詳しくは聞かなかった。
だけども、何時しか気になるようになり、どうして何時もそんなに意識を傾倒するまで書きたいものなのか、知りたいと思うようになった。
其れで、俺はこっそり主が部屋に居ない隙を狙って、主が大事に物語を書き綴っている本を手に取り、中身を盗み読んでみた。
そしたらば、驚く程に紙は隅々までに真っ黒な墨で埋め尽くされていて、どの頁を捲ってもびっしりと文字の羅列で書き連ねられていた。
何を此処まで真剣に書き連ねていたのか、話の内容が気になって、俺は適当に捲った頁を読んでみる事にした。
すれば、真っ黒な墨で綴られた俺の名前を目にした。
内心驚きつつも、その先が気になって、続けるように目で文を追ってみた。
何れも驚く事ばかりだった。
他の頁には何が書かれているのか。
更に気になって、ぺらぺらと捲った先の頁の全てに目を通してみた。
その全てに俺の名前が出てきた。
遂には、俺は自分の口を塞いで堪えるように息を止めた。
そうして思考停止していたら、がらりと部屋の戸が開かれて、主が入ってきた。
途端、固まる俺と主。
遣り場の無い感情に、俺の頭ははち切れそうだった。
何も口に出来ないまま突っ立っていると、動きを取り戻した主が気恥ずかしそうに言葉を口にした。
『あーあ、バレちゃったか…。まぁ、何時かはバレちゃうんじゃないかなぁ〜とは思ってたけども、まさかこういう形でとはねぇ…。流石にちょっと恥ずかしいかなぁ…っ。』
主はそう言って、小さく照れたように笑った。
其れは、珍しい表情だった。
俺の前では、初めて見せる表情だった。
はにかむように表情を崩した主は、そのままの調子で固まる俺に近付き、俺が勝手に盗み読んでいた本を手に取り言った。
『ふふふ…っ、私の秘密見ちゃったね…?』
そう言った主は、開いたままの本で口許を隠し、艶やかに笑った。
妖艶な空気さえ纏った其れに、俺はいとも容易く射止められ、声にならぬ呻きを漏らした。
何でアンタが大事に書き連ねていた本に俺の名前が出てきたのか。
どうして俺の名前ばかり綴られていたのか。
聞きたい事は山程頭に浮かんでは喚いたが、全部音として口から出てくる事は無く、ただただ開閉だけを繰り返した。
その様子に、主は愉しそうに笑んで言ってきた。
『…どうしてたぬさんの名前が沢山書かれていたのか、知りたい?』
そう、上目遣いに問われた。
俺は首を縦に頷く事しか出来ず、後に続くであろう主の言葉を待った。
『一度しか言わないから、しっかりと聞いてね…?』
そう俺を焦らすように間を置いてから言葉を続けた。
『たぬさんの名前が沢山書かれてたのはね…?私がたぬさんの事をそういう意味の対象として好いてるからだよ。』
主は、内に秘めていた秘密をこっそり打ち明けるように俺に告げた。
つくづく俺はしてやられたと思った。
そして、二の次の言葉を吐こうと開いた俺の口は、まんまと主の人差し指に封じられた。
『一度しか言わないって最初に言ったから、もう一回は言わないよ?教えるのは一度だけ。後で聞かれても内緒だから。』
くすくすと愉しそうに笑む主は、正しく女だった。
しなやかで丸みを帯びた、妖艶さをも隠し持つ女だった。
俺は、知らぬ間にこんなにも主を好いていたのかと思い知らされた。
思い知った時には、時既に遅い程、知る前には戻れぬくらいに女の事を知ってしまっていた。
俺は、主の事を、溺れる程恋慕ってしまっている。
Title by:ユリ柩