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春の雨と朧月



ゆらゆらと意識が揺れる。

深い深い処で微睡み眠っていた意識がゆっくりと浮上して、閉じていた目蓋を震わせる。

そうして開いた視界でぼんやりと自身の正面に浮かぶ真上の景色を見つめた。

未だ覚醒し切れていない頭が、"此処は何処だろう"との問いを掲示してくる。

緩慢な動きで瞬いた後に、ゆっくりと静止していた頭の働きを取り戻すように思考を巡らせ、その場に寝転んだままに首を動かし視界に移る世界をぐるりと見渡した。

未だ寝惚けたようにぼんやりとしたままの意識の中で出した回答に、"此処は何かの箱のような中だろうか"という答えを出した。

ゆるりと緩慢な動きで躰を起こすと、其処は見知らぬ舟の中だった。

広く穏やかな湖のような処にポツンと一隻浮かぶ舟の上に、一人寝転んでいたようだ。

そこで、"何かの箱のようだ"と思ったのは、舟に付いた恒のような物が屋根のようになって寝転んだ私の頭上の視界を塞いでいたからだと気付く。

何処の湖とも知れぬ場所に、私一人だけ舟の上にポツンと居た。

眠ってしまうまでの前後の記憶が朧げで曖昧にしか思い出せず、ぼんやりとした思考を傾け、首を傾げる。

不思議と恐怖は感じないが、何だか非道く寂しい心地だ。

此処は何処だろうか。

見覚えの無い場所だった。

ポツリ一隻だけで水面に浮かぶ舟は、漕ぐ者も居ないのにゆらゆらと水面の上で揺られ、進んでいた。

舟には私一人だけで、漕ぐ為に有る筈のオールは無い。

ゆるゆると緩やかな流れに沿って進むこの小さな舟は、何処へ向かうのだろうか。

行き先も分からぬまま、ただただ小さな舟の上で揺られ、彷徨うように水面を漂っていた。

私は何故此処に一人で居るのだろう。

こんな一人か二人でしか乗れないような小さな舟の上に。

其れに…此処は、何処なのだろうか。

仮想世界か、夢の中の世界か。

はたまた、誰かの創造世界か。

何も分からないまま、舟は何処かを目指して進んでいく。

緩やかに穏やかに、流れに沿って進んでいく。

そんな水面で漂う舟の上に、私は置かれていた。

ゆらゆらと揺れる意識を抱えて俯き、起き上がった身を丸めた私は、ゆっくりと膝を抱えて舟の隅に蹲った。

辺りは静かで、緩やかに吹く風に凪ぐ音が耳を撫ぜ心を落ち着ける優しい心地を運んでいた。

何を考える訳も無しにただ漂い進み行く先を見つめ、眺める。

湖以外に映る世界は無くて、他への境界線も見当たらない。

私は何処へ向かっているのだろう。

さっきと似た考えが頭に浮かんでは何の回答も得られぬまま沈んで霧散していった。

次第に、朧げとした意識に呑まれて、ゆらゆらとまた意識が沈み出す感覚を感じて、再び躰を舟の上に横たえた。

さっき意識が浮上する前と同じ体勢へと戻る。

舟の蓋のような小さな屋根が視界を遮る恒になって、良い具合に視界が薄暗くなる。

固い板の上に寝転んでいるせいで背中は痛かったが、案外寝心地は悪くなかった。

緩やかに沈み始めた意識に全てを委ねるように、躰の力を抜いてゆっくりと息を吐き出す。

そうして、水面を静かに進み行く舟の上に躰を横たえたまま目を閉じた。


ーそれから暫く経った頃だろうか。

顔に当たる小さな冷たい何かの感覚に再び意識を浮上させられて目を覚ました。

視界を開くと、舟の外の世界では小雨が降っていて、其れが屋根から食み出ていた顔の一部に当たっていたようだ。

ポツリ、ポツリ、顔に当たる粒は小さなものだった。

だけども、地味に冷たくて、傘もヒト一人を雨に濡れる事から防ぐ為の屋根も無かった。

故に、成すがまま、冷たい小雨に舟の上で打たれた。

ひんやりと冷たい、春の雨だった。

しかしながら、舟は変わらずポツンと一隻のまま湖らしき処を進んでいた。

行き先は未だ知れず。

自身が向かう先も知れず。

ただただ彷徨い、漂い、流れに沿って進むだけ。

冷たい小さな粒が頬を打ち、肌を伝って、次第に熱を奪っていく。

何も知れぬまま、雨に濡れていくだけで、躰の熱はどんどんと冷えていった。

寂しいと感じる心情を表したような心地だった。

段々と肌寒さを感じてきて、再び膝を抱え躰を丸める体勢を取る。

少しでも体温を温存するように、努めて躰の面積を縮めるように小さくなった。

春の雨は弱いながらも舟に浮かぶ私を濡らした。

膝を抱えて蹲る私は、次第に辺りを見つめるのにも飽きて、膝に額を擦り付けるようにして俯き、目を閉じた。

聞こえるのは、雨の音を、自身の鼓動が脈拍を打つ音だけだった。

どうしてこんな場所に私一人だけなのだろうか。

再び同じ問い掛けが頭に浮上する。

帰りたい。

何処へ?

出来る事なら、私を待っている人の元へ。

其れは誰だ?

分からない。

そもそも、そんな人自体私には居るのだろうか。

分からない。

何も、分からない。

自分の事も、分からない。

私は、一人だ。

何処へ向かえば良いのかすらも分からない。

私は、孤独だ。

寂しい。

温もりが欲しい。

誰かの、優しい温もりが。

寒い。

誰かの体温を欲しい。

誰か、私の側に寄り添っていてくれるような体温が。

そうやって望んできた小さな願いは、果たして叶うのだろうか。

私は、何処かしらにちゃんと着地出来るのだろうか。

ゆらゆら、ふわふわと漂う意識は、地に足を着けていない感覚で覚束無い。

頼りない感覚が私は惑わせる。

非道く憂いを帯びた感傷が心の内を侵食してきて、涙が出てくる。

何故か悲しくなってきて、厭になってくる。

そんなよく分からない感情に襲われて、私は思考を塞ぐように心をシャットアウトした。

何も、何も考えたくない。

私を侵食しようとしてくる何かから逃れるように心を閉ざした。

そうやって今まで生きてきた。

そうしないと自分を保てなくなると思ったから。

拙い処世術で自己を守る為にそうしてきた。

だから、同じように何もかもから自身を閉ざすように目を閉じた。

耳も塞ぐように頭を抱えて蹲った。

そうして私は舟の上でただただ雨に打たれた。


ー気付いた時には、私は疲れたようにまた舟の上に身を横たえていて、固い床板の上に寝転んでいた。

雨はいつの間にか止んでいたのか、空は明るくなっていて、代わりに時間の経過を告げるように夕凪を連れた夕陽が視界の先に浮かんでいた。

緩やかに頬を撫で付けた風に身を起こして、其処で初めて私以外の存在を見た。

眠ってしまうまで無かった筈の布が、眠る私の頭の下に来るように敷かれていた。

其れに内心首を傾げながら、ゆっくりと座る体勢へと身を起こす。

そうすると、躰の上をずるりと落ちる何かに気付いて、其方に意識を移した。

見れば、眠る私の躰が冷えぬようにと布団の代わりに掛けられた布だった。

其れは、よくよく見遣れば誰かが着ていた服のようで、どうしていつの間にこんな物が此処にあるのだろうと思った。

そうしていると、ふと耳に自分以外の音が聞こえてきた。

キィ、キィ…と舟を漕ぐ音だった。

その音に、瞬きをして、視界を移した。

そしたらば、どうした事が。

知らぬ間に自分以外の誰かが舟の上に居るではないか。

自身が居る反対側に向かい合うようにして、彼は居た。

静かにゆっくりとした動作で舟を漕ぎながら、夕陽が映る景色を眺めていた。

緩慢な動きで瞬きをして、未だ寝惚けた頭を働かせる。

彼は、誰だったか。

少しだけ逆光のせいで顔が翳って見えない。

小さく身動ぎをして、衣擦れの音がする。

その音に意識を移した彼が此方を見遣る。


「ーよぉ。ようやっと起きたか…。よく寝てたな。」


そう言って、優しく低い声音で言葉を紡いだ。

記憶の其処に在るような、非道く柔らかな表情で。

そっと寄り添ってくれるみたいな優しさを伴って、目を細めて笑みを形作る。


「まだ眠てぇんだったら、寝てて良いぜ。舟は俺が漕いでるからよ。」


そう優しく紡がれる音に、私は何故かとてつもなく心を揺さぶられて、また涙が零れてきた。


ー嗚呼、そうだ…私は、きっと……。


今まで漠然としたものだったものが明瞭となっていくような感覚に、心の奥底が非道く落ち着きを取り戻していく。

さっきまであんなに不安だったのに、不思議と何も怖くなくなっていく。

さっきまで一人きりだった筈なのに、初めから其処に居たように、初めから側に寄り添っていてくれたような温かな感覚を感じて、涙が溢れてくる。

一人そうして訳も分からず泣いていると、小さく笑みを浮かべた彼が笑って言った。


「どうしたよ、急に…そんなに嫌で怖い夢でも見たかよ?」


違う。

此れは夢なんかじゃない。

今までが逆に夢だったのかもしれないだけだ。

悪い悪い夢だ。

私を脅かすだけの、怖い夢。


「…大丈夫だ、アンタは一人じゃない。俺が付いてるさ。だから、んな風に泣くなって。もう寂しくねぇよ。」


嗚呼、此れは私が望んだものだ。

私が望んでいた温もりだ。

彼は、私の願いそのものだ。


「泣いてばっかで下ばっか見てねぇで、上見てみろよ。日が沈んで、もうじき夜が来る。…アンタが一人で怖がってた夜だ。けど…、今は一人じゃねぇだろ?」


彼に言われて、初めて伏せていた顔を上げて周りの世界を見渡してみた。

またもや気付けば時間は進んでいて、いつの間にか輝きを放っていた夕陽は沈みゆき、代わりに空を照らす月が天へと昇ろうとしていた。

辺りは相変わらず静かで、舟を漕ぐ音と風が凪ぐ音に、私と彼二人の息衝く音しか聞こえない。


「今宵は良く晴れてるみてぇで良かったな。お陰で月がよく見えらぁ…。」


彼が空を見上げた事で、釣られるように私も上を見上げ月を見てみた。

さすれば、彼の瞳を映すようなまんまるお月様が此方を見下ろしていた。

煌々と輝くまんまるなお月様はゆっくりと天の真上へと昇っていき、私達二人を淡く優しく照らした。

素直に綺麗で美しいなと思った。

まるで彼の瞳のようにまあるい姿に、純粋に心惹かれるような感覚を感じた。

だから、ポツリとうっかり口から本音が滑り出してしまった。


『ー綺麗、だね…。まるで、たぬさんの双つ目みたいだ。』
「俺の目…?」
『え、あ、うん…。ほら、あのお月様みたいに黄金色で、丸くて……あと、どんなに暗い夜闇の中でも照らしてくれそうな光加減が?』
「俺の目の例えが、月…なぁ……。まぁ、強ち間違ってはねぇかもしんねぇーな。」


此処に来て初めて口を利いたところで吐き出した言葉に、彼はそう返してきた。

単純に気になって、私は小首を傾げて無言で先を促す。

すると、彼は此方を見遣りながら笑みを浮かべてこう述べてきた。


「だってそうだろ?俺は、アンタを照らす月になりたい。何時何処で真っ暗闇に落ち込んじまっても、寂しがって泣いてるアンタを見つけ出してやれるように…暗がりに一人きりで居たがるアンタを優しく照らしてやれるように、さ…。だから、俺はアンタにとっての月で良い。」


そう、何とも優しげな顔で言ってのけた彼に、私は非道く面食らって言葉を失う。

暫くそうして彼の顔を見つめていたら、彼が舟を漕いでいた手を止めて此方に手を差し伸べてきた。


「…俺は、何時だってアンタの側に居てやるさ。アンタが望むのなら…俺はアンタを照らす月になってやる。闇の中を彷徨いそうになったら、俺が導いて混沌の中から救い出してやるから…アンタを一人にはさせねぇよ。だから、怖くなったり寂しくなったりしたら俺を呼べ。アンタが望めば、俺は何時だってアンタの元へ行く。」


どうして、彼はこんなにも私が欲しい言葉をくれるのだろうか。

不思議と落ち着く声音にさっきから涙が零れてきて止まない。


『………本当に、私が望めば…来てくれるの?』
「嗚呼…アンタが俺みたいなのを望むのならな。」
『本当に…?』
「本当さ。」
『私なんかが呼んでも……?』
「アンタだから俺は側に居るんだよ。」
『望んでも…良いの?』
「アンタぐらいじゃなきゃ、俺を上手く扱えねぇだろ?だから、"アンタが良い"んだよ。」


差し出された掌に恐る恐る自身の手を重ね伸ばせば、其れを緩く受け取った彼が柔く引き寄せ懐に受け止めた。

優しく受け止められた身は、少し勢い付けて受け止められたにも関わらず痛くない。

戸惑いしかなかった世界に色と温もりが灯って、朧気だった意識と感覚が戻ってくるみたいだった。


『あったかい、…ね。』
「ったく…すっかり冷え切っちまってるじゃねぇーか。んなまんま上着も何も羽織んねぇまま居るから寒くなんだよ…。ほら、一時こうして居てやっから、遠慮せずくっ付いてろ。」
『…うん、有難う…。』


水面の上を漂う舟はゆらゆらと揺り籠のように進んでいく。

きっと、進む先は此れから私達が向かうべき道だ。

だから、もう安心して身を任せていよう。

冷え切っていた筈の躰の熱も、心細さしかなかった筈の憂いも、皆々全部彼が溶かしてしまった。

代わりに灯った熱と温もりに、私は安堵の息を吐きながら目を閉じた。

今度こそ、きっと大丈夫だ。

次に目を開いた時には、私は地に足を着けた状態で着地点に着ける。

大丈夫。

今は、一人じゃない。

私には、彼が居る。

彼という存在が、私を照らす月が居るから、寂しくない。

何も恐れなくて良い。

私は彼という月に照らされて、夜闇の中でも道を歩ける。

彼と一緒なら、怖くない。

だから、もう前を向いて歩ける筈だ。

舟の先に陸地が見えてくる。

きっと、その先に私の未来が待ってる。

彼と二人で進む道が。


執筆日:2020.04.25