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空蝉が誘う



夏になると、時々何かに誘われているような気がして、部屋の外――廊下に面した窓の外を見つめてしまう。

夕暮れ時、あんなにも暑く日を照らしていた太陽が西の方角へ沈み行く黄昏時だ。

不意に、視線を窓の外へ投げれば囁いている気がするのだ。

“此方へお出でよ”…と。

未だ、誘いに乗った事は無いが、何時しか誘われていってしまいそうな気がするのだから不思議だ。

そう思いながら、ぼんやりと外の景色を眺めていたら、何処からともなくやって来たお小夜に服の裾を引かれ、注意を逸らされた。


「行っては駄目だよ、主。」


鋭く大きな目を此方へ向けた彼が、他に何を言うでもなくそう言った。

その言葉に、私は小さく笑みながらのんびりと返した。


『流石に、そんな簡単には行かないよぉ。』
「どうだろう…今の主は、何処となく危うさを持ってるから、誘われるがままに拐かされてしまいそうだよ。…まぁ、もしそうなってしまいそうになったら、僕が止めるけれどね。」
『えぇ…?そんなに私って危うげに見えるの?』
「うん。見えるよ…。この間、兄様達も心配してた。」


ミンミンしゃわしゃわと鳴き声を響かせる蝉達の声の間に、カナカナカナ…ッ、と控えめな鳴き声を鳴らす蜩の声がしていた。

山の方から聞こえる其れに、再び意識が其方へと移っていく。

蜩の声が、夏の黄昏時が、呼んでいるのだ。

人の世ではない世界へと誘うように。

また、誘われているかのような音に、私は意識を引かれて視線を向ける。

すると、今まで居た現世の全てがどうでも良くなってくるのだ。

そうなると、いよいよ危うくなってくるというものだ。

すかさず私の意識を引き戻すように、脇に居たお小夜が服の裾を引っ張って呼びかけた。


「行っては駄目だってば……っ。主は、まだ行っては駄目だよ。」


半ば必死な呼び声に、私は小さく微笑んで返した。


『…大丈夫、大事な君達を置いて行ったりはしないよ。其れだけは絶対にしないから、安心して。』
「………貴女がそう言おうとも、僕達は心配するからね。ただでさえ、貴女の実家は古い建物だから、何かが貴女の心を付け込んでくるかもしれない…。歌仙や三日月様達も、その事を心配していたよ。…今の貴女は、特に危うげだから。」


外では相変わらず、カナカナカナ…ッ、という声が聞こえていた。

夕暮れ時故に、夏の暑さも和らいでくる頃合いだ。

赤い夕焼けが、家々や町を赤く染め彩っていく。

同時に、黄昏時の狭間で彼方側の世界が手招いて呼びかけてくる。

まるで“此方へお出で”と誘っているかのように囁くのだ。

夕陽の赤が、やけに心を惹いて。

誘われるがままに、手を伸ばしてしまいそうになる。

容易にも、彼方側へゆるゆると足を踏み入れてしまいそうになるのである。


『…今年もすっかり夏になってしまったねぇ。』
「うん…そうだね。此方に居たままだと、貴女が拐かされてしまいそうだから…帰ろう。僕達の本丸に。…今日の晩御飯は焼き肉だそうだよ。歌仙が言ってた。山伏さんが猪を狩ってきたんだって。一緒に山へ行ってた同田貫さんがすぐに血抜きをして捌いたらしいから、新鮮なお肉が食べれるよ。」
『そっかぁ…其れは楽しみだなぁ。猪肉の焼き肉とは、また豪華だ。』
「最近の主が食欲無くてあまり食べていないのを心配して、山で獲ってきたらしいよ。祢々切丸さんと一緒にちゃんと弔った後に捌いたそうだから、安心して良いと思う。」
『其れはまたアレだなぁ…変に心配かけちゃったな。』
「うん。だから、早く帰ろう?僕達の本丸に。貴女の家も居心地は悪くはないけれど…やっぱり本丸の方が落ち着くよ。」
『そうだね…じゃあ、帰ろうか。私達の本丸に。』


彼方側の誘いには応えない代わりに、己の配下の刀剣男士であるお小夜の声には応えて、彼に引かれるままに手を取る。

そうして、私は自分の本丸へと帰っていく。

…あ、そういえば、今日の晩飯要らないって伝えるの忘れてた。

本丸へ帰ってすぐに其れを思い出すと、手を引いていたお小夜がぽつりと零した。


「其れなら、僕が後で書き置きを残しに行っておくから…主は手を洗いに行っておいでよ。早く席に着いておかないと、歌仙が口煩くなっちゃうよ。」
『おや、有難うお小夜。気が利くね。』


そう遣り取りを交わした後、彼はこっそりと本丸を抜け出て、私の実家の居間のテーブルへ置き手紙を残しに行くのだった。


執筆日:2020.07.18