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この指止まれ



 気分転換にお庭へ出て散歩していたら、ふと視界の端を飛び交う数匹の蜻蛉の姿を見付けて思う。
そういえば、もうそろそろそんな時季になってきていたっけか。
 夏の暮れ、気候が段々と涼しくなり始める頃になると外を飛び回り出す生き物――蜻蛉。
この時季の風物詩に、また一つ季節が移ろい行こうとしているのを感じた。
とある刀の言葉を借りたら、風流と言ったところだろう。
雅に歌を一句詠んだり…とまではいかないものの、それなりにひっそり個人的に楽しむ分には十分な風景であった。

 蜻蛉を見掛けたら、ついやってしまいたくなるのがアレだ。
目の前で飛び交う蜻蛉達のすぐ近くにちょい、と人差し指を出して、暫くそのまま動かず大人しく待つ。
そうすると、飛ぶのに疲れた一匹が羽を休めにぴとり、と指先に止まるのだ。
 まるで、子供の頃のお遊びのようにも思える。
“○○する人、この指とぉーまれ”…みたいな感じで。
遠い記憶を遡り、懐かしみ、そして今も昔も変わらない景色がある事を嬉しく思って。
つい、自然と笑みが零れてしまった。
クスリ、笑った拍子に肩が揺れて、腕を通して僅かな振動が指先に伝わってしまったのか、先っぽに止まっていた蜻蛉が逃げてしまった。
あらら、残念。
 しかし、そう簡単にはめげないぞと再び挑戦するかのようにそのまま指を固定していると、今度は別の個体が羽を休めに止まりに来た。
指先にぴとり、引っ付いて離れない様子を見て、ゆっくり優しく腕を引いて顔の近くまで引き寄せる。
大丈夫、どうやら今度の子の方が肝が据わっているようで、ちょっと揺れたくらいじゃ逃げて行かずに留まり続けてくれた。
 虫は得意ではないけれど、蜻蛉は比較的平気な部類で、此れくらいの触れ合いならば可愛らしいレベルだ。
昔、子供の頃は気が急いてここまでのんびり蜻蛉に構っている事は無く、指を差し出しても目の前を行き交うばかりでちっとも止まってくれた試しが無かったっけか。
子供の頃の小さくささやかな夢が叶ってしまったな。
此れぞ、大人になったが故に持てる余裕というやつか。
…なんて、またくだらない事を考えては込み上げてきた含み笑いを堪えて、クスリ、と笑む。

 そうして、一人穏やかに蜻蛉の群れと戯れていたらば、ざくり、ざくり、と土を踏み締める足音が背後からやって来て。
後ろ背に声がかかり、振り向いた。


「此方に居られましたか、主よ」
「あら、蜻蛉さん。どうも。私をお探しで、どうかしたの?」
「いえ、特に用といった用はございませんでしたが、部屋に戻りましたら居られないご様子でしたので。もしや…と思い、此方に」
「そうだったの。変に探させちゃって御免なさいね。書き置きのメモ一つでも残して出て来れば良かったかしら」
「構いませんよ。主の行かれる先はいつも決まっておりますし、何処に行かれるか、行き先は大体把握しておりますから。庭への散歩に行かれたのも、部屋に籠ってばかりでは息が詰まるからとの事からでしょう?少しは気分転換出来ましたか…?」
「んふふっ…十分な程に」


 ざくざく、と大地を踏み締めて近寄ってきた彼に驚いたのか、はたまた彼の躰の大きさから放たれる威圧感に慄いてか、指先からずっと離れず止まっていた蜻蛉がぱっ、と空へと飛んで逃げてしまった。
まぁ、十分に羽も休まった事だろうから、そろそろ行きたいところへと飛んでいくが良い。
君が行きたいところへ好きにお行き。
また巡り逢うかは分からぬが、君の旅路に幸あらん事を祈ろう。
指から離れ飛び去って行った蜻蛉へと別れを告げる為小さく手を振れば、その様子を見ていた彼が緩やかに微笑んだ。


「蜻蛉と戯れておいででしたか…。もしや、お邪魔になったでしょうか?」
「ううん、気にしないで。もう十分に遊ばせてもらったし、気分転換も出来たから」
「そうですか、其れは良かったです。…ですが、貴女の“蜻蛉”は自分だけではなかったのですか?」


 そう茶目っ気たっぷりに口にした彼に、私は一瞬きょとんとした後に口許へ手を遣って軽く驚いた風におどけてみせた。


「あら、まあ。まさか貴方がそんな事を仰るだなんて。普段はクソが付きそうなくらい生真面目に己を律してそうなのに…どういった風の吹き回しで?」
「すみません、自分も“蜻蛉”の名を戴く者ですから…其れ故の醜い嫉妬でございます」
「今のくらいで醜いだなんて…ふふっ、本当に蜻蛉さんは真面目な方ね。私からしてみれば、まだまだ可愛らしいもののように感じたけれど…?」
「嫉妬程醜い感情は無いでしょう?…しかし、主である貴女から直接許されたのならば仕方ありませんね。今のお言葉に免じて、これから言う事も許してはもらえないでしょうか…?」
「良いけれども…何かしら?」
「貴女の指先に止まる蜻蛉は、許される事なら自分だけが良いと…思ってはいけませんでしょうか」


 そう呟いて、先程まで蜻蛉達の群れの止まり木代わりに差し出していた私の指先をそ…っ、と包み込むように触れてきた。
同時に私へと注がれる熱く愛しげな蕩けた視線に、胸の奥がズクンッ、と鷲掴まれたようにときめいて私は堪らず頬に熱を迸らせた。
一直線に注がれる視線に堪え切れず、一度恥ずかしげに逸らしてからもう一度控えめに目を合わせて応える。


「わ、私としても…出来る事なら、貴方だけが良いと思うのだけれど……主として、審神者として答える返事としては駄目、かしら…?」
「…いいえ、自分としましては、とても良いと思いますよ。自分の我が儘を受け入れてくださって有難うございます、主よ。…どうか、これからもこの手を取る役目は自分にお任せくださいね。加えて、何処かへふらりと消える貴女を迎えに行く役目も」


 私よりもウンと大きく逞しい身が私を引き寄せて歩き出す。


「さぁ、もう日も暮れてきましたし、風も冷えて参りました。お躰が冷えぬ内に戻りましょう。部屋に戻りましたら、温かいお茶を淹れて差し上げましょうね。鶯丸殿のお墨付きのお茶ですから、味は保証致しますよ」
「んふふっ、其れは楽しみだわ。ついでに、お茶と一緒にちょっとした甘味も頂きたいわね」
「お夕飯前ですから、少しだけですよ…?」
「はぁい、分かってるわ」


 がっしりとした逞しい体躯に守られて、今日もゆるりと平穏無事な一日を過ごす事が出来た。
明日も明後日もそのまた明明後日も、きっと私はこの腕に守られて生きてゆく。
私を大事そうに包んで離さない、強くて大きなこの腕に。


執筆日:2021.09.05