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烏の一声が凪ぐ



 嫌な夢を見た。
一月ひとつき巡る度に月のものが来る故か、はたまた、情緒不安定になる時季が来た故か。恐らくは、何方ともであろうか。兎に角、嫌な夢を見た。
 また、“子供の自分が泣き喚いている”と思うような内容の夢だった。
ただ、ただ、悲しくて、辛く苦しかった時の感情が蘇り、思考を占拠する。
だから、春は嫌いになってしまったんだ。元々、花粉が飛び出す季節はイコール自身が苦しむ季節との方程式が出来てしまっているが故に、ではあるかもしれないが……。(何たって、花粉は杉だけに終わらず檜もあるから、結果一月末いちがつまつから五月半ば近くまでと約半年は苦しむ事になるからだ。)
 理由は其れだけに終わらないのだ、きっと。心の奥底でいつも燻っている苦い記憶が、その時の事の区切りを付けたのが、丁度春の季節の到来を言祝ことほぐ、一年の節目を迎える三月の終わりであったから……。断ち切れないままでいる未練が足を引っ張って泥沼に引き摺り込もうと嘲笑うのだ。
 いい加減、前に進めたら楽だと思えるのに…。否、人間という生き物は複雑に作られてしまったが故に、そんな風に生きてしまうのだろう。なんて、生き辛くなってしまったのだろうか。
 世の中は非情だ、残酷だ、地獄だ。世知辛過ぎて、不器用にしか生きれぬ自分には、ただ、ただ…………。
 其れでも、己は前へ進もうと足掻き、亀よりものろく牛歩のようにゆっくりとした歩みで、少しずつ前進しようと前を向いている。心に巣食う蟠りを解するように、少しずつ、少しずつ、紐解いて、許して、受け入れての作業を行っている。
 人の一生は長いようで短いと言われているように、子供の時は長かった一年が大人になってからはあっという間に過ぎ行く。ゆっくりのんびり考える時間も猶予すらも無くなっていく。けれども、其れが人であるが故の事なのだろう。
 その葛藤故に、幾度と人を辞めたいと思った事であろうか。
 …そんな事すら思ってしまうように、思考を囚われてしまっている時であった。
『大丈夫だ。我が付いておるでな。辛ければ吐き出せ。泣き止むまで存分に泣くが良い良い。其方も我の大事な子に変わりはない。安心して泣くが良い。我が付いておるでなぁ』
 何処からか、意識の遠い端の方から、聞き覚えのある優しい声音がそう囁きかけてくるのが聴こえた気がした。
 パパ上様の声だ。どうして彼の声がしたのだろう。でも、彼のなだめるような、優しい声音が、波立っていた心根を凪ぐように落ち着かせてくれたみたく思えた。
 夢の内容とは全く関係の無い存在だった。
しかし、彼の声が切っ掛けで、嫌な夢に満たされていた思考は霧散して、少しだけ別の事を思考出来る余裕が戻ってきた。溢れ出ていた涙も次第に引っ込んでいき、気持ちも落ち着き、再び眠りへと微睡み始める。
 その内、思考は完全に睡魔に落ち、眠りに落ちた。


 起きたら嫌な夢の内容は朧気で、何となく嫌な夢を見たという記憶はあるのだが、はっきりとは思い出せなかった。起きて顔を洗いながら記憶を巡ってみたが、やはり朧気にしか思い出せなかった。だが、あの声を聴いた事だけははっきりと覚えていて、私は近侍に据えていた彼に会って告げた。
「パパ上様、おはよう。昨日?…というか今朝方の事になるかな、有難うね」
「うん…?何の事だかさっぱりだが」
「ふふふっ……嫌な夢見た直後だったかな、パパ上様の声を聴いた気がしたのよ。だから、その御礼。その後は、比較的マシに眠れたからさ。有難うって伝えておきたくて」
「そうかそうか。其れは良かったの。我は特別何もしておらなんだが…まぁ、我は刀剣の父たる者故、其方の父とも変わらぬ者よ。この父が居るからには心配は要らぬぞえ。父の目が届く内に外敵は入れぬでなぁ……主の外敵も、我が払って見せようぞ」
「うん、有難うパパ上様。助かる」
「ホホホッ……まことき人の子よなぁ。可愛くて可愛くて仕方がなかろうて」
 パパ上様は、そう言って黒すぐりのように美しきまなこを細めて笑った。
 優美に微笑む姿こそ雅に思えたが、きっと、その内に眠るは烏のような鋭さなのであろうな。……畏れ多くて、口にはしなかったけれども。


執筆日:2022.03.10