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私の心、根こそぎ奪って拐って貪り尽くして



 畳の軋む音、次いで聞こえたとこを滑る衣擦れの音に、最後脳へと直接捩じ込まれた言葉はとてつもなく甘さを含んだものだった。
「良いんだな……?」
 耳元より囁かれた声は声量を抑えたものであったが、その一言に込められた意思も圧も抗えざるものであった。
 ――端的に言って、誘われている。底無し沼の入口へ、底の見えぬ海溝へ、いざなわれているのだ。
 ひたすらに昂る欲も猛りも抑え込んだ言葉には、此方が溶けてしまいそうな程狂おしい熱情が込もっていた。熱い吐息の掛けられた付近が熱く火傷してしまいそうだ。
 其れでも、私は首肯の意思を見せるべく、薄暗闇の中恥じらいながら頷いてみせた。互いにこれから始める行為への緊張と興奮が入り交じっているのだ。
 私がこれからするであろう行為への許可を認める意図を返せば、触れ合ってしまいそうな程近く目の前に迫る彼がゴクリ、と生唾を飲み込んだ。たった其れだけなのに、僅かな灯りより浮き出て見えた彼の嚥下する喉仏が、偉く生々しく見えた。きっと、興奮しているせいだろう。
 彼の熱い掌が頬に宛がわれる。許してしまった手前だ、もうその前には戻れぬのだろう。緊張に震える吐息を堪えるように、固く唇を噛み締めた。次いで、ぎゅっと力強く目蓋を瞑って視界を閉じる。此れ以上、暴力的なまでに鮮明になまめかしく映る彼を見ていられる余裕は無かった。故の、視界のシャットアウトであった。其れを、合意と受け取った彼が更に近付いてきたのだろう、物凄く近い距離から生々しくも衣擦れの音が響いた。よりガチガチに固まる体を和らげるように肩を滑るみたく触れてきた、彼の熱いもう片方の掌。遂に、鼻先が触れんばかりの距離に詰められ、口先が触れ合う。
 一呼吸分、間を挟んでから、此方の様子を窺いながらゆっくりとした接吻行為が始まる。此方の緊張をほぐすように、また興奮を煽りこの先の行為を高める為に、ゆっくりと時間を掛けて口付けられた。意識が蕩けるような口付けであった。
 息が続かなくなったところで、一度、唇を離される。固く閉じていた目蓋が綻ぶように開く。その一瞬、目が合った。何もかもき尽くしてしまいそうな程熱の宿った眸だった。そんな目に見つめられ、赤くならない訳が無かった。羞恥から涙目になりながらも見つめ返していれば、ふと気を抜いた如く目の前の彼がフ……ッ、と笑った。忽ち惚けてしまう私はもう末期だ。そんな私へ、彼が擽ったそうに囁いた。
「見過ぎだろ……ったく、どんだけ俺の事大好きなんだか」
「そりゃ、好きだよ………もう末期ってくらいに惚れてて手遅れなくらいには」
「そうかい。……なら、俺も其れに応えてやっか。アンタと比べ物にならないくらいどうしようもなく惚れてんだって分からせてやる為に」
 獣みたいな眸だと思った。此れでもかと言う程滾ってしょうがない欲を抑え込んでギラギラと煌めく金色の目から与えられる視線は、毒のように私を芯から蝕み、絆していった。
「たぬさんの好きにして、もう戻れないってとこまで落として、狂わせて」
「……本当、あんたってそういうとこあるよなァ」
「え…何……?」
「いや……俺も大概あんたに溺れてるなって思っただけだ」
「そうなの?」
「そうなんだよ」
 ぐるり、視界が反転させられるかの如く後ろへと押し倒された。途端、ポフリッ、と柔い音が頭の後ろから聞こえた。思ったよりも優しい力加減で布団の上へと押し倒されたらしい。お優しい事だ。きっと、此方を傷付けまいとしての気遣いであろう。そんな事にすら好きだとの感情が溢れた。好きで好きで仕方がないと、いっそこのまま壊してくれと言わんばかりに彼を受け入れた。
 先の言葉以外から何も口にはしていなかったのだけれど、目から伝わる感情だけで此方の言わんとしている事が分かってしまったのだろう。彼が最後の宣告だとばかりに口を開いた。
「――言われずとも、端っからその気だっつの…」
 彼は其れきり黙って行為の続きを再開した。そうして、彼からの狂おしいまでの愛を感じて、「嗚呼、私は彼に愛されていたんだなぁ……」と今更な事を思うのだった。


執筆日:2022.03.20
公開日:2022.03.24