其れは、何の変哲も無い、平和な日常での事であった。
「あーるじっ」
初期刀の彼が、執務室の入口の戸から顔を覗かせて、無邪気な声音で審神者を呼んだ。
呼ばれた彼女は、ゆっくりと背後を振り返り、柔らかに眦を和らげた視線を傾ける。
「なぁ〜にぃ、清光?」
「今、暇? お仕事終わってる……?」
「今? 丁度、暇になって本でも読もうかとしてたトコよ」
「じゃあ、構って!」
ニコニコと嬉しげなのを隠す気も無さそうな彼が、いそいそと部屋へと踏み入り、彼女の側へと駆け足気味に近寄っていく。其れを擽ったげに見つめる審神者は、彼が側まで来るのを静かに待った。
程無くして、机の前に座す彼女の背後へ抱き付くようにして戯れ付いてきた彼が、嬉しさを抑え切れない風に笑みを零した。
「んふふふっ……! 主大好き!」
「もぉ〜っ、大層嬉しそうにしちゃって可愛いんだから。そんなに久々に近侍になれたの、嬉しかったんかァ?」
「そりゃあね! だって、名実共に堂々と主の事一番独占出来る、取って置きのポジションだよ? 当ったり前じゃない」
「まぁ、ウチもすっかり大きくなって、もうじき百振りに到達するくらいの大所帯だものねぇ〜。そりゃ、中々近侍の順番が回ってこなくて不満がらせちゃうのも無理ないかぁ〜……っ」
「其れは、主が決める事だし。主が意図を以てして采配してる事なんだから、その事自体に不満は無いよ。……でも、あんまり構ってもらえない期間が続くと、流石の俺だって寂しくなるよ? 俺、主に愛される為だけに此処に居るんだから」
「ふふっ……! 勿論、清光の事は愛してるよ? 俺の可愛い可愛い、世界で一番大好きな初期刀様?」
愛たっぷりなその言葉を聞いた加州は、「エヘヘ……ッ」と小さく照れ笑いを零した後、「俺ってば、愛されてるぅ〜」と何とも擽ったげに呟くのだった。
そんな彼を痛く可愛がるみたいに、抱き付き回された腕へ触れながら緩く微笑む彼女は口を開く。
「ご所望通り構ってあげるから、どうしたいとか、どうされたいとかあったら言ってみな?」
「え〜? じゃーあー……俺の頭、撫でてっ。誉取った時とか、遠征から帰ってきた時みたいにさ」
「そんなんで良いの?」
「もう十分我が儘聞いてもらってるようなものなんだから、いーのっ!」
「なんとまぁ、控えめな我が儘です事……っ。もっと欲出してきたって良いのよ?」
「俺は今言ったくらいで十分幸せだから良いんですーっ。……お願いだからさ、早く撫でてよ。ねっ?」
「ハイハイ、畏まりました……! 世界一可愛い可愛い初期刀様の仰せのままに?」
控えめなお願いとして、頭を撫でて欲しいと乞われた審神者は、好奇心が疼くままにその手を目の前へと差し出す彼の頭へぽふりっ、と置いた。次いで、髪を梳くようにゆるゆると優しく撫で始める。
すると、どうだろう。相手の温もりが髪の毛越しに伝わってきて。つい、思わず審神者は、「あ、生きてる感触だ……っ」と思い、一瞬だけ撫でる手の動きを止めてしまった。其れを不思議に思った彼が、頭はそのままに、徐ろに閉じていた瞳を開け、彼女の方を見遣る。
「主……? どしたの?」
「あー……や。何でも無い」
「何……教えてよー」
「いや、本っ当何でも無いから……っ」
「良いから、今不自然に手ェ止めた理由、教えて」
「えー……。本当、大した事じゃあないんだけど……。何か、こうして頭撫でてたら、清光の温もりが掌越しに伝わってきてさ……唐突なんだけど、生きてるんだなぁって、何か感慨深く思えちゃったの。ただ、其れだけッス……!」
まぁ、その気持ちと同時に、彼の事を無性に愛しく思えてしまった事については、そっと胸の内に仕舞っておくけれど。
密かに胸の内に仕舞っておこうとした感情にすら気付いてしまったらしき彼は、嬉しさに表情を緩めながら桜の花弁を舞わせた。
「うん……俺、生きてるよ。大好きな主に愛して欲しいから。愛して、愛されて……いつかは、その貰った愛を俺も返すから……期待してて待ってて」
「ふふふっ。有難う、清光。お前は、やっぱり俺の最高の刀だね」
「主が審神者になって一番初めに選んだ刀だからね。そりゃ、当然でしょ」
「そうね。清光は、俺の始まりの刀……一等大切で特別な刀だよ」
審神者は、ユルユルとした笑みを湛えて言った。
「だから……これからも、どうか、俺の側に居て頂戴ね?」
その言葉に、彼は迷い無く応えた。
「言われなくても、そのつもりだっての。俺は、ずっとずっと主と一緒に居るよ。あんたがしわくちゃのお婆ちゃんになっちゃっても、ずっと……。俺の居場所は、あんたの隣なんだから……っ。其れだけは、絶対に誰にも譲ってなんかやらないんだかんね!」
思わずと言った風に審神者へと正面から抱き付いた加州。審神者は其れを温かく受け止め、優しく背中へと腕を回した。
そうして、愛しさ余って再び頭を撫でるのを再開させていたらば、あまりの触り心地の良さからか、無意識で夢中になって、一頻り撫で回してしまっていたようで……。わしゃわしゃと撫で繰り回す彼女の手の温もりを感じながらも、幸せそうに彼女の肩口で微笑んだ彼は、照れ隠しに「ちょっと、撫で過ぎだろ……っ」と、呟いた。
途端、ハッとして我に返った彼女は、無駄に照れてしまったのか、体を離してからもはにかんだ様子で顔を赤らめていた。其れを見た彼もまた、照れ気味になって、自然と互いに視線を絡め合わせた後、二人して幸せそうに穏やかな笑みを零し合うのだった。
加筆修正日:2025.01.02