仕事の合間の休憩と称して縁側に腰掛けていると、ふと、誰かの視線を感じる気がして、首を巡らせた。そしたら、遠く離れた位置から、膝丸が此方をジッと見てきている事に気が付いた。
何か用があるのだろうか。審神者は小首を傾げ、取り敢えず軽く手を振っておく事にした。すると、向こうはハッとしたように顔を赤らめた後、慌てふためくようにして自身が担当していた仕事へと戻っていった。
一体、何だったのだろうか。審神者は、あからさまに首を捻って頭を傾けた。
其処へ、
「ねぇ、兄者や……今しがた、君のとこの弟から、離れたとこから何かジッと見られてたみたいなんだけど……理由分かるかい?」
「うん? 弟がどうかしたのかい?」
「いや、意味も分からず視線投げられてた訳を知りたくて……」
「うーん……たぶんだけれども、意味も無く君の事を見つめていた訳じゃあ無いと思うよ?」
「じゃあ、一体何の用だったんだろ……。何か言いたい事があるなら、
「ん〜……まぁ、僕は弟じゃないから、弟が考えている事までは分からないけれども、時を見てまた何か主に対して行動を起こすんじゃないかなぁ? 君は、其れまでのんびり気長に待ってあげてよ。きっと、悪いようにはならないからさ」
「兄者の君が言うのなら……一先ず、また彼の方から何かリアクションあるまで待つとしますかぁ……っ」
取り敢えずはそういう事で頷く事にし、審神者は側に置いていたお茶を啜る事にした。髭切は暇だったのか、そのまま隣の空いたスペースへ居座る事にしたようで、お茶と共に置いていた盆の上の菓子をにこにことした笑みを浮かべて摘まんでいた。この刀、三日月の次に自由な刀である。まぁ、本日は内番などの当番も入っていない非番組だったから、サボリではないだけマシだが。片や、弟の彼は畑当番であったので、畑の整備作業が終わったら戻ってくる事だろう。その時までには仕事を片付けてしまっておこうと、残りの茶を飲み干し、腰を上げた。
其れからも、通りすがりやら何やらで度々彼の視線を感じた。決してねちっこく陰湿な気は感じないし、見つめられているのも寸の間の数十秒間という程で、そんなに嫌な感じはしないものである。けれど、何を言うでもなく、ただ視線を投げられるだけなので、見つめられる側の彼女は不思議に思っていた。
夜の食事時もそうだった。時折、何か言いたげな空気を見せての視線を向けられるも、結局は何も言わずのまま、食事に戻っていく。兄の髭切に何もせずただ待っていて欲しいと言われただけに、此方は如何にもし難い。ただもどかしい感覚だけが尾を引いて付き纏った。
事の動きが見られたのは、その日の夜、寝る前という頃になっての事だった。彼女が寝る支度を整えていると、不意に部屋の外……襖の向こうから声をかけられたのだ。勿論、声のぬしは膝丸である。審神者は漸くかと思いつつ、腰を上げ、入室を許可する為に部屋の戸を引いて招いた。其れに、彼は些か緊張したような面持ちで頷き、審神者のプライベートルーム兼寝室へ足を踏み入れた。彼も眠る前だったのか、様相は寝間着の浴衣姿であった。
取り敢えず、彼には座布団へ座るよう勧めて、自身は布団の上へと座した。彼は大人しく座布団へ腰を据えたのちに改めて口を開き、この度夜も遅い時分に彼女の部屋を訪ねた事を詫びた。
「すまない、こんな夜分遅くに押し掛けるような真似をして……。君と二人きりで面と向かって話すなら、今の時分くらいしかタイミングが無かろうと思ってな」
「其れで……話とは何ざんしょ? たぶんだけど、昼間もちょいちょい見つめてきてた事に関しての話だよね?」
「うむ……。実は、その……こうやって改めて話すには、大した内容ではなくて申し訳ないのだが……。君は、いつも俺の事を呼ぶ時、名前の“膝丸”ではなく源氏の弟刀としての意味の“弟者”と呼ぶだろう? 其れは、俺が兄者に対して、いつもいつも“兄者”と呼ぶが故に、其れが移っての事なのは分かるし、其れ自体は俺も至極嬉しく思っているのだ……っ。……でも、時折、弟としてではなく、一振りの刀としての名で呼ばれたいな……と、そんな風に思ってしまったのだ……。我が儘な事を言っている事は分かっている……っ。其れでも、君の口から俺の
「ありゃ。何だ、そんな事だったの……? わざわざ二人きりになれる時間まで引っ張るから、てっきりもっと深刻な話でもされるのかとばかり……」
「そ、其れについては、本当にすまないと思っている……っ。君も、寝ようとしていたところだったのだろう? 其れを邪魔するような真似となってしまい、実に申し訳なく思っている……」
「あ、いや、別に責める気は無いから勘違いしないでね……! 私はそんな気にしてないから、そっちも気にしなくて良いからね!」
「有難う。君は、何時でもそうやって優しくしてくれるな……」
「いや、そんな特別優しく接してるつもり無いねんけど……っ」
「君は優しいぞ。俺達がどんなに傷付いて帰ってきたとしても、其れを温かく迎え、きちんと手入れまで施してくれるのだから……俺は恵まれているのだ、と感謝すらするくらいだ。有難う、主。俺は、君のような人の居る本丸に顕現出来て、誠に嬉しく思う……っ」
「えぇっ……何よ、藪から棒に〜……」
突然の感謝の言葉に何て返すべきか考えあぐねていると、目の前で姿勢良く座す彼が改まった態度で問うてきた。
「其れで……先の言葉に対する返事は、もらえるのだろうか?」
「あ、うん、何か御免ね。えっと……別に、名前呼んであげるぐらいの事なら、何時だって呼んであげるよ? 君が望むんだもの。何なら、これから君の事呼ぶ時は名前で呼ぶようにしようか?」
「いや、そんな急に変えたりはしなくて構わない……! さっきも言った通り、俺は今の呼び名も気に入っているのだ! 君にしか呼ばれない呼称というのも、何だか特別な感覚がして……変な事を言うようだが、君の特別になれたような気がして、嬉しいんだ……。だから、呼び方そのものは変えずのままで居て欲しい」
「そう……? じゃあ、名前で呼ぶのは、君と二人きりで居る時だけにしよっか!」
「ッ……! 其れ、は……その、そういう意味と捉えて良いのだな……?」
「うん……? 取り敢えず、二人きりの時は名前呼びするのオッケーって事で良いのかな? んだば、そういう事で、君からの珍しいリクエストもあるし、早速呼んでみるとしますぞ……!」
そう口にすれば、ただでさえ緊張していた面持ちに更に力が入ったような顔付きとなって、彼女をひたと見つめた。審神者は彼と違って、いつも通りの様子で気兼ね無く口を開き、彼の名を呼んだ。
「膝丸」
「ッ〜〜〜……!!」
「ふふっ、名前呼ばれただけなのに、そんな桜舞わせる程嬉しい?」
「いやっ、その……普段、“弟者”としか呼ばれないだけあって、何だか無性に感動してしまってだな……っ。すまない、桜は無意識だ」
「まぁ、確かにそうよね〜。兄者の髭切にも、いつもまともに名前呼んでもらえてない訳なんだし……偶には、ちゃんと名前で呼ばれたいと思ってもしゃーないわなァ」
「う゛ぅ゛……っ、俺の悲しみを分かってくれるか君も……!」
「名前って、単なる個を判別する為の記号にしか過ぎないとは言えど……やっぱりその者をその者たらしめるとする名前を呼ばれるのって、大事な事だもんねぇ〜。私も、結構色んな名前持ってるもんだけども、その中でも気に入ってる名前とか、本名は特別だしなぁ……。つって、本名自体はそんな気に入ってないんだけどね。そんな話はさておき……っ! 此れにて、君の中でのお悩みは解消されましたかにゃん?」
「嗚呼……っ! 有難う、主! 此れで、俺は明日も元気に過ごす事が出来よう!」
「其れは良かった! 名前呼んで欲しくなったら、何時でもおいで。君が望むだけ呼んだげるから」
にこり、笑ってそう告げれば、昼間見た時みたくボッと顔を赤らめてわちわちと慌てる素振りを見せる。うん、髭切ではないけれど、こうも可愛らしいと
「あまり、そのような事を気安く言っては、勘違いを起こしてしまうやもしれんぞ……?」
「え……っ?」
「そもそもが、俺が訪ねた時分がこのような時分であり、男が女人たる君の部屋を訪ねてきたという時点で、少しは警戒を抱いて欲しいところなのだが……そういう意識の薄い君に言っても無駄という話だったな」
「えっと……膝丸……? どう、し……、」
「このタイミングで敢えて名前を呼んだという事ならば、そういう意図と解釈して、俺は君に触れるぞ?」
「えっ、触れ、うんん??」
急な展開とわざわざ分かりやすく選んで言われた言葉なのだろう其れに、加えて彼の見せる態度に、流石のその手に鈍い彼女でも気付いて焦ったような表情を見せた。おまけに、僅かに頬を赤らめている。その事に、彼は期待を混ぜて問うた。
「拒まぬ…という事は、良いのだな……?」
「んっと……その、……触れるくらい、なら……? だい、じょうぶ……だと、たぶん……っ」
「……では、少しだけ失礼させてもらうぞ」
「へっ? ア、ハイ……ッ、どうぞ……」
許可も得た事である、彼はそっと慎重な手付きで彼女の身を抱き締めた。慣れぬ事なせいか、途端彼女は緊張から体を強張らせるが、優しく傷付けないようにとの意識でそっと抱き締められた事に、次第に体の力を緩めていく。ふわりと抱き締められた感覚に、恥ずかしくも決して嫌ではないと思えた事に、審神者は内心混乱した。一方、どういう展開か、彼女を抱き締める事となった膝丸は、自身の取った行動に困惑しつつも、腕の中に感じる柔い感触と温かなぬくもりに、次第に落ち着きを取り戻していった。そして、彼女の存在が己の腕の中にある事を痛く愛おしく思い、少しだけ腕へと込める力を強くした。
「……君は、
「え……そりゃあ、生きてますから……??」
「嗚呼……君は生きているのだったな……故に、こうして温かなぬくもりを感じる事が出来るのだな……。淡く甘い果実のような匂いがする……此れは、君が使うシャンプーとやらの匂いか。他にも、風呂の後だからか、石鹸の匂いもするな……」
彼女を抱き締めたままの彼が、すんすんっ、と鼻を髪や首筋へ埋めに来る。其れに気恥ずかしくなった彼女は、音を上げるように口を開いた。
「あ、の……膝丸……?」
「何だ」
「え、っとぉ……その、あんまりそんな匂い嗅がないでもらえると助かる、かな……っ。端的に言って恥ずかしいから……っ」
「すまん。君を抱き締めてみたら、あまりにも落ち着く優しい匂いがしたから……気に障ったのなら謝ろう」
「あー、いや……君が落ち着くのなら良いのだけれど……今度からは、ハグしたいなら“ハグしたい”って始めに言ってくれ……っ。じゃないと、こう……気持ちの問題というか、心の準備ってのがだな……」
「其れについても、誠にすまんと思っている……っ。実のところをぶっちゃけると……半ば衝動的に君を抱き締めるなどの行為に走ってしまった故な……どうしたら良いのか分からんのだ」
「可愛いかな??」
「なっ……可愛いなどと言うな! そういうのは、君みたいな者に言う言葉だろう……!」
「んふっ……御免て。悪気は無いから、許してちょ。お詫びに、気が済むまでぎゅってしてくれてて構わないからさ」
「むっ……また、そういう事を平然と言う……っ。だから君は警戒心が足らぬのだと言われるんだ。おまけに、隙に付け込まれ、こういった事も許してしまうのだぞ」
はて、一体何の事を言っているのやら。内心で首を傾げた途端、彼女の首筋へ妙な感覚が襲った。自身を抱き締める膝丸に浅く牙を立てられたのだ。軽く歯を立てただけの甘噛みにしか過ぎぬ其れは、決して痛くは無かったが……代わりに、何とも形容し難い感覚がゾクリと走って、思わず彼女は小さく声を漏らしてしまった。其れに気を良くしたのか、もしくは本能的に煽られてしまったのか、彼は行為をエスカレートさせ、牙を立てた箇所にちろりと舌を這わせた。其れにもまた敏感に反応を見せた彼女は、息を詰まらせ、言葉を発する代わりに鼻にかかった掠れた甘い吐息を零す。何とも従順に反応してくれるものだ。
意地らしくなった膝丸は、目を
「すまない!! うっかり空気に飲まれて、衝動的に君を犯してしまうところだった……っ!! 本当にすまん!!」
その謝罪様に、見ていてこっちが哀れに思えてくるくらいの潔さである。突然の事に驚きはすれど、嫌では無かった事を踏まえ、彼女は頭を上げるように促した。地面に頭がのめり込む程綺麗な土下座をかましていた彼は、その声に渋々
「えーっと……そのぉ、……いきなりの事過ぎて吃驚したのは事実だけども……その、嫌……では、無かったから…………膝丸が、その……そういう事したい、って事なら、考えなくもないし……事前にちゃんと言ってさえくれれば、私の方も心構え出来る、と思う、ので…………っ」
なんと、まさかの此方も可哀想なくらいに顔を赤らめていたのである。羞恥が勝る故に、直接目を合わせる事が出来ぬのだろう。斜め下方へと視線を逸らした様子で彼女はそう口を利いた。堪らず、彼は問うてしまっていた。
「其れは……あの、本当にそういう意味で受け取っても良い、という事か……?」
「えっ……ア、ハイ……そう、デスネ…………っ。所謂、そういう方向で受け取ってもらえれば……。というか、そういうの込みで、二人きりの時だけ名前呼んで欲しいのかとばかりに思ってたのだけど……もしかして違った?」
「あっ、いや……! 寧ろ、本音を言うと、そういう事まで期待した上での事だったのだ……っ。まさか、あっさりお許しが出るとは思っていなかっただけに、多少動揺してしまったのだが…………。その、最後に確認なのだが……本当に、そういう意味で解釈しても良いのだな?」
「う゛っ……何か、そう改まって訊かれると、無性に恥ずかしくなってくるんだけど……!」
「すまない、大事な事だから一応は確認をと思ってな……。だが……、そうか……。これからは、君をそういう意味で触れても許されるという事なんだな……っ。ならば、もう一度、君の事を抱き締めても良いだろうか?」
改めて問われる言葉に、彼女は気恥ずかしくもコクリと首を縦に振り、頷く。途端、ぶわりと大量の桜を舞わせた彼は、無言で彼女を抱き締めた。晴れて恋人同士である。恋仲となったならば、もう遠慮は要らぬだろう。彼は彼女の髪を撫でながら、改めて口にした。
「俺は、君が好きだ……っ。この気持ちを受け入れてくれて、有難う主……! 君の事は、生涯を懸けて幸せにすると誓おう!」
「えと……此方こそ、私みたいなのを好きになってくれて有難うね、膝丸」
「嗚呼、俺はほんに果報者だ……っ!」
「う、うん……っ、嬉しいのは分かったから…桜ちょっと抑えよう? 目の前凄い事なってるから……っ」
「すまんが、今ばかりは無理だ。許せ」
「おぅっふ……今夜は桜の花弁に埋もれて寝る事になりそうだなァ……っ」
あまりの大量に埋め尽くす桜色に、審神者はポツリと感想を零すのだった。
執筆日:2022.05.15