それは、いつも通り政府から任せられた仕事という名の執務をこなしている時だった。
何の気兼ねもなく、意識下に無いところでふっ、と浮かんだ名を口にした。
『―ねぇ、みっちゃん。この書類の件なんだけど…ちょっとよく分かんないから、教えてくれる…?』
自身の後ろに控えている本日の近侍に、文机に向かったままそう問うたのだが、返事は無く。
いつもならすぐに返ってくるのにな…、と不思議に思い、くるりと首だけを後ろに向けると…。
ポカン…と口を半開きにして固まっている様子の光忠が目に入った。
心なしか、彼の隠されていない方の片目が見開かれている様にも見えた。
「うん…?」という感想を脳内で零して、未だ固まる光忠に、取り敢えず回復してもらおうと距離を詰めて目の前へ掌を翳した。
『おーい、光忠ぁー…?生きてるー?』
「…っ!ぁ…、ご、ごめん主…!ちょっと吃驚しちゃって……っ。」
『大丈夫…?どっか悪いとかあるなら、ちゃんと言ってね?私、審神者だけど、大した事出来ないから…。』
何だか理由は分からないが、ぼーっとしていた光忠が心配になり、気休め程度にしかならないけれども、気遣いの言葉をかける。
至近距離に詰めていて顔も近かったせいか、復活した光忠は急に慌てたように身を引いた。
「もしかして、執務続きで疲れていたのかな…?」と彼からして見当違いな事を考えていると、彼がおずおずといった様子で口を開いた。
「…ねぇ、主…、今、僕の名前を呼ぶ時…何て言ったか分かるかい…?」
『え…?いつも通り、“光忠”…じゃなかったっけ…?あれ…違ったかな……?』
「うん…。今、君…僕の事、“みっちゃん”って呼んでたよ…。」
『え゙………っ。』
僅かに顔を赤らめて言う光忠は、どこか恥ずかしげでいて、それでいて嬉しそうな…そんな雰囲気を纏っていた。
俯き加減に口にしてきたから、若干上目遣いなのは、もう慣れてきたから気にしない。
それより、今は自分が先程発したであろう言葉を脳内で思い出しつつ、再生する。
“―ねぇ、みっちゃん。この書類の件なんだけど…ちょっとよく分かんないから、教えてくれる…?”
確かに、いつもの“光忠”ではなく、“みっちゃん”と呼んでいた。
そう理解した途端、ぶわっと顔に熱が集中してくるのが分かった。
たぶん、きっと、今の私は顔を赤く染めているんだろう…。
心の何処かに居る冷静な自分がそう呟いた気がする。
そんな事を考えるくらい、今の自分はちょっとだけ放心していた。
そして、短い時間の我が世界へのトリップを終えると、我に返って言葉を紡いだ。
『ごっ、ごめん光忠…っ!!何か無意識でそっちの方で呼んじゃってて…!ホラ、私、審神者になる前は普通に現代で暮らしてたじゃん…?だっ、だから、その時の癖っていうか…その…っ。あっ、愛称でよく呼んでたから!それで、咄嗟に出ちゃったというか……っ!!』
「うん…っ、そっか。」
『だから…!もし、気に障ったりしたのなら…ごめんね…っ?』
「ふふ…っ。別に怒ったりとか、そんなんじゃないから。そこまで慌てなくても良いよ?」
『え……っ?あ…、ごめん…。違ったのなら、良いんだ…。』
「もう…っ、だから何で謝るの。主は何にも悪くないのに…。悪いのは、主が勘違いするような態度を取っちゃった僕の方だよ?」
『あぇ…っ、と……っ。』
「テンパり過ぎだよ、主。落ち着いて?」
少し間を空けて深呼吸すると、幾ばくか落ち着いたので、改めて光忠と向き合う。
『それで…、何でそんなに吃驚しちゃったの…?』
きゅるりとした金色のぱっちりおめめを見つめて問う。
すると、しっかりと目を合わせた光忠は優しげに目を細めると、朗らかな表情で語りだした。
「その“みっちゃん”って呼ばれ方…まだ此処には来ていない、貞ちゃんに呼ばれてた呼び名なんだ…。」
『あ、そっか。そういやそうだったね?』
「僕がまだ伊達に居た頃…貞ちゃんとはいつも一緒に居るような仲だったから、よく覚えてるんだ。僕が“貞ちゃん”って呼ぶように、貞ちゃんも僕の事を“みっちゃん”って呼んでた。懐かしいなぁ…。」
『なるほどね…。急に、身内に呼ばれてた慣れ親しんだ呼び名を耳にしたら、そりゃ驚くよね。だって、そう呼んでたのって、太鼓鐘貞宗こと貞ちゃんしか居なかったんでしょ…?』
「うん…。だから、何だか懐かしかったのもあるんだけど…主に、そう呼ばれた事が嬉しくって……。つい、呆然としちゃったや…。かっこ悪いね。」
なんて、蕩けた笑みを浮かべながら言うもんだから、再び思考を停止せざるを得なくなる私の脳内。
ただでさえ、容量の大きくない脳味噌なのに、そんな顔して言われたら、処理しきれなくてキャパオーバーになるじゃないか…。
一度は冷めた筈の顔の熱が、再び火照りを戻してきているのを感覚で感じた。
「ねぇ、主…?今の間だけ、さっきの呼び名で呼んでもらっても良いかなぁ…?」
『………い、良いよ…っ。』
「ありがとう、主。」
だから…、そんな風に可愛げにこてんと首を傾げないでくれっ!
上目遣いも心臓に悪いからダメ…ッ!!
なんて言える筈もなく、言われた事にただ首を縦に頷く事しか出来ないのであった。
…何だろう、この謎の敗北感。
『……ぇっと…。み、みっちゃん………?』
「うん、なぁに…?」
『ぅ、や…、呼んでって言われたから…呼んでみただけ…っ。』
「うん、ありがとう。僕、今とっても幸せだよ。」
『ぇ、ぅ、え………?』
「ふふふ…っ、可愛い主…っ。」
『!??』
蕩けた瞳で見つめてくる光忠に堪えられず、俯いてしまった私は悪くない。
だって、元々イケメンには免疫が無いのだ。
こんな顔してるのを直視しろという事自体無理な話である。
しかも、素敵な笑みの上に、クスクスと含み笑んでいる。
こりゃ、無理に決まってる。
「無意識に呼んじゃう程馴染んでるって事は…それだけ、審神者になる前から僕の事を想ってくれてたって、思っても良いのかな…?」
『…〜ッッッ!?やっ、べっ別に!そういうんじゃなくて…!!ネットとか、巷で皆がそう呼んでたから、私もいつの間にか同じように呼んじゃってただけで…っ!!』
「うん、今はそういう事にしといてあげるよ。でも…、」
ススス…ッ、と近寄ってきた光忠は、耳元に顔を寄せて…。
「いつかは、君の僕への本当の気持ちを聞かせて欲しいな…?」
―そう、囁いたのだった。
『みみみみっちゃん…!?いきなりの打撃は死んじゃうから待って…!?もう少し気持ち寄り、私の心への距離感を持って欲しいなっ!!つまりは配慮が欲しいかな…っ!!?』
「う〜ん…。主はもっと気持ちに素直になった方が良いと思うよ?」
『ん!?何の事かな…!?取り敢えず、その無駄に良い低音ボイスで耳元で喋るの止めようか!!マジでこれ以上は私が持たないよ!?』
取り乱し過ぎて、逆に空回ってるとか、もう知らない。
ウチのイケメンオカンが色々とイケメンレベルをカンストしてるとか知らない。
執筆日:2016.12.24