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水無月の折



 巷でよく聞く言葉がある。涙というものは、何時いつしか枯れるらしい。
 でも、私の涙は、一向に枯れる事は無かった。まるで、枯れる事すら知らないみたいに。何度も何度も頬を伝っては落ちて、ぐちゃぐちゃに濡れて、染みを増やしては汚していくばかり。
 涙って枯れるものじゃなかったのか。あまりに泣いてばかりいる日々が増えたから、その内ふやけてしまうのではないか。お陰様で、目蓋は常時腫れぼったくなってしまった。あまりに不細工で、酷い顔過ぎて、とてもじゃないが鏡で見れたもんじゃない。このところ、いつもそんな感じだ。ずっと暗い顔ばかりして、浮かない思い詰めたような顔をしていたせいか、比較的最近来たばかりの新刃しんじんにまで心配をされてしまう始末だ。本丸を纏める長の立場にある者として、このままではいけないと分かっているのに、どうしても出来なかった。
 心というものは、どうしてこうも儘ならないのだろうか。誰に投げるでもなく頭の中で疑問を思い浮かべる。其れに答えをくれる者などありはしないと分かっている癖に。いっそ、泣き暮れてばかりの私に嫌気を差して、見捨ててくれたら楽になるのだろうか。そんな卑屈な事ばかりが脳裏を占める。
 そうして、また、何もしていなくとも溢れてきた大粒の涙を、ぽたりぽたり、目から零して顔を俯けていたら。ふと、視界が暗くなって、自身の目の前に影が出来ている事に気付いた。頭上に影を落とすヌシを見上げるべく俯けていた面を緩慢に起こすと、其処には、背中を丸めて屈み込み此方へ気遣うような視線を向ける脇差の子が居た。いつも明るい笑顔を絶やさない、虎徹兄弟の末っ子の、浦島だ。彼は、此方を覗き込む体勢のまま、気遣わしげな声を発した。
「大丈夫? 主さん……」
「ん……御免ね、心配かけちゃって……っ」
「ううん、其れは気にしてないから全然良いよ。ただ、ここのところずっと泣いてる気がしてさ……。話しづらい事なら、無理に話す必要は無いし、俺達も聞かないけど……話して楽になるようなら、何時だって聞くから、頼ってね?」
「うん……有難う、浦島君……」
「俺は、主さんの笑顔が見れたら其れで十分だからさ! あんまり無理しないでね。主さんは頑張り屋さんだから、根の詰め過ぎで倒れちゃわないか心配になっちゃう」
「ふふっ……大丈夫、まだ・・大丈夫よ」
 当たり障り無いようにそう受け答えて、垂らしっ放しにしていた涙を拭うべく、持ち上げた手でゴシゴシと少し強めに擦る。すると、すぐにその手を制止するように掴まれ、顔から離された。何で、と思っている内に彼が答えをくれる。
「駄目だよ、そんな風に強く擦っちゃ。主さんの綺麗な肌が傷付いちゃうし、目にも良くないよ。無理に止めようとなんてしなくて良いから……。誰も迷惑になんて思ってもないから、泣きたい時は泣いたって良いんだよ。だって、主さんは人間なんだから。悲しかったり泣きたくなったりした時は、我慢せず泣いちゃえば良いんだよ。そしたら、モヤモヤしてたの、少しはスッキリするだろ?」
「……でも、面倒臭いでしょ?」
「どうして? 泣いてる女の子が居るのに、そんな事思ったりしないよ?」
「浦島君は優しい子だから、そういう風に思えるんだろうけど……。私の周りに居た人達は皆、泣いてばかりいる私を見て疎ましそうにしてた……。めそめそ泣いてたって何の役にも立たないし、鬱陶しいから泣くなって……たぶん、そう言いたかったんだと思う。敢えて何も言われはしなかったけれども……こっちを見る目がそう物語っているようで、居心地が悪かった」
「そっかぁ……。でも、俺達は、主さんがいつも頑張ってるの知ってるよ! 主さんが誰も知らないところで努力してるの、ちゃんと分かってるからね!」
 真夏に輝く太陽や向日葵の如く眩しい笑顔が、目の前で咲いている。彼みたいに明るく居れたなら、少しは違ったのだろうか。そんな風に思えた私は、やはりイジケた子供みたいだ。勝手に泣いて、勝手に不貞腐れている。なんて情けない大人なのだろう。良い歳した大の大人が、子供みたいに一人部屋で蹲っているだなんて、滑稽過ぎる。なんて、情けない。
 私は知らず知らずの内にまた新たな涙を作って頬を濡らした。さっきからずっと泣いてばかりだ。出来る限り不細工な有り様になった顔を見られたくなくて、再び顔を俯ける。折角せっかく心配してくれているのに、碌な言葉すら返せやしないなんて、審神者失格だ。屹度きっと、皆何も言わないだけで、本当は呆れ返っているのではないか。私が傷付くから、敢えて言わないでいてくれるだけで。本当は、皆誰しもがそう思っているのではなかろうか。拒絶される事が怖くて確かめようの無い事だが。
 止まりかけたと思っていた涙が、次々と溢れてきて止まない。何時いつになったら、この涙は枯れるのだろうか。枯れる日は、来るのだろうか。漠然とした不安が押し寄せ、枯れる事の知らぬ涙を流す。どうすれば、この涙は止まるのだろう。今ある不安が何一つ無くなれば、止まってくれるだろうか。
 泣きながらぼんやりと考えに耽っていたらば、目の前に屈み込んだまま動かない彼が懐から手拭いを出して、未だ濡れたままで乾かぬ目元と頬を優しく拭ってくれた。先程、手で擦るように拭おうとしたのを止めたから、その代わりの物という事なのだろう。決して傷付けぬよう加減された力で、優しく目元をぽんぽんと拭ってくれる……その優しさが、今は沁みる程に痛くて。拭いてる端からポロポロ零れていった。其れが申し訳なくなって余計に溢れてしまって、無限ループである。
 そんな私の様子に気付いたのか、単なる哀れみから来る感情かは分からないが、徐ろにポツリと呟いた。
「何だか……あんまり沢山泣いてるから、いつかその涙が洪水みたいに部屋いっぱいに満ちて、主さん溺れたりしない……?」
「えっ……そ、そんなになる程泣けないとは思うけど……。何方かと言うと、体中の水分が無くなっちゃいそうって方面で心配する気持ちなら分かるけれども……っ?」
「う〜ん……でも、ほら……前に主さんが見せてくれた童話の『不思議の国のアリス』って物語にはさ、今の主さんみたく沢山泣いたせいで涙が海みたいに溢れて、其れに飲まれたアリスが溺れかけたシーンがあったろ? このまま行くと、その時のアリスみたくなっちゃうんじゃないかなって思っちゃったや」
「あぁ……そういえば、そんな話もあったっけかぁ」
 彼の言った話とやらは、まだこの本丸が出来て間もない頃の話である。審神者になったばかりで慣れない事の多さに右往左往していた、本丸が出来てすぐの黎明期の頃。私は、皆の手隙の暇な時間を埋める何かになれば良いとの思いで、自身が子供の頃に読んだ絵本や童話の本を歴史資料とは別に書斎へ持ち込んでいた。その中の一冊を彼は読んでいたようだ。
 ルイス・キャロルが著作『不思議の国のアリス』。誰もが知っているであろう有名な作品で、世界中の人々に愛され、今の時代にまで長年語り継がれてきたものだ。その話題を、今この時に持ち出されるとは思ってもいなかったが。
 ついさっきまで悲しい気持ちが占めていた思考が、途端にキョトンと呆けたように固まる。
 『不思議の国のアリス』だなんて、随分と懐かしい話だ。子供の頃と言わず、大人となった今でも愉しむ事の出来る、夢物語のような御伽噺。英国より伝わり、古くから愛されてきた童話。何度見ても読んでも飽きの来ない、そんな本の世界。少し不思議で不気味な世界観は、しかし未だに心を惹いてやまない、スパイス混じりのお話。どうして、その話題を今……?
 涙に濡れた目蓋をぱちくりと瞬かせて見つめれば、彼はタレ目の目をとろりと優しく細めてこう返した。
「“何で今その話するんだろう?”って思ったでしょ?」
「う、うんっ……思った……」
「へへっ、主さんって分かり易いもんなぁ〜。訳を打ち明けるとさ……今の主さんが、まんま物語に出て来るアリスみたいだなぁ〜って思ったからだよ! 道に迷って途方に暮れてるアリスと一緒だ。行き方も帰り道も分からなくなって、一人で泣いてる……。でも、本当は一人じゃないよ! だって、主さんには俺達が居るじゃん! 主さんが一人ぼっちで悩んで思い詰めて泣いていたとしたら、必ず俺達の誰かが駆け付けて側に寄り添うよ。俺達は、何時いつだって主さんの味方だからね……っ! もし、仮に、主さんがアリスみたいに涙の洪水に飲まれて溺れそうになってたら、颯爽と助けに行くよ! なんたって、俺は浦島太郎を冠する刀だからね! 海亀の背に乗って、そのまま竜宮城まで連れてってあげる!! 行き方分かんないけど!! でもでも、亀吉も一緒だから怖くないよ! ねっ、だからそんな悲しそうな顔ばっかしてないで笑っててよ。俺、主さんには笑ってて欲しいんだ……主さんの笑ってる顔が好きだからさ……! へへへっ。まぁ、無理に、とは言わないけどさ……その内また笑った顔を見せてくれると嬉しいなぁ」
 眩しい笑顔で照れ臭さを滲ませて言った彼の言葉の数々に驚かされると同時に、そんな風に思われていただなんて知らなくて。大海のように何処までも広く大きな懐に導かれるように、気付けばぽすりと彼の開いた腕の中に飛び込んでいた。涙はすっかり止まってしまった。代わりに、言葉では言い尽くせない程の温かみが溢れてきて、けれど、じわりと遅れたように羞恥心も滲み出てきて。彼の肩口で隠すように顔を伏せた。其れでも、彼は怒らない。頼ってもらえたのが嬉しい、胸を借りる事を選択してくれたのが嬉しいと体現するかの如く笑みを零して笑っている。見えなくとも、体全身で表していたから、手に取るように分かった。彼は今、屹度笑っている。私の身を受け止めて、嬉しはにかみの笑みを湛えた顔で。


執筆日:2023.07.06
公開日:2023.07.07