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亀甲貞宗の性癖



 亀甲が近侍で書類を捌くのを手伝ってもらっている最中、視界の端でブンブンと飛び回っている羽虫の存在が居た。其れの立てる羽音と電球にぶつかる物音に静かに苛立ちを募らせていた主は、徐ろに立ち上がると部屋の隅に立て掛けていたハエ叩きを手に取るなり、壁に止まって忙しなく蠢いていた羽虫を叩き潰した。そして、トドメにイライラとした感情を隠さぬ様子でこう呟きを落とす。
「俺の視界で飛び回るな、鬱陶しい……ッ」
 忌々しげとも言わんばかりの冷たい物言いに、一部始終を見ていた亀甲はウットリとした恍惚な表情を浮かべて見つめた。そのタイミングで彼の方を振り返った主は、一瞬ギョッとした顔で驚き、「えっ、なん……ど、どうしたお前……っ?」と若干引き気味な態度で声をかける。其れに、亀甲は興奮した様子を隠しもせずに身を乗り出してお強請ねだりした。
「ご主人様! 今の台詞をもう一度聞かせてくれないかい!?」
「えっ……? 今のって、叩き潰した羽虫に対して言った事についてか??」
「そうっ!! 同じ言葉を、今度は僕に向かって言って欲しいんだ!! 出来る事なら、今のものよりも数倍憎さと殺意を込めて、思いっ切り!! さあッッッ!!」
「っ゙……な、何かよく分からんが、リプレイしろ……という事で解釈するぞ??」
「ああ!! 何時いつでもどうぞっ!!」
 何でかよく分からないが、何故かやたらと期待に満ちた感情を向けられている事だけは理解した。取り敢えず、乞われた通りにするかと無理矢理頭を納得させた主は、少しだけ先の自分の行動と抱いていた気持ちを頭の中でリフレインする。そんで、そのままの調子を保つ形で彼の方を向いて言い放った。
「“俺の視界で飛び回るな、鬱陶しい……ッ”…………こんな感じで良いか?」
「嗚呼っ……! 流石は僕のご主人様だ!! 最高だよ!! 欲を言うなら、もっと蔑んだ目で罵ってくれても良かったけれど、今のでも十分に良かったよ!! 有難うご主人様!!!!」
「あ゛っ……お゛ぅ゛……っ。君が満足したんなら、良かったわ……。あーっと、とりま、後ででも良いので、手が空いてたら叩き潰した羽虫の後処理任せても良いかい……?」
「勿論良いともさ! ご主人様のご命令とあらば、どんな事だって遣り切ってみせるよ!! 僕のご主人様は、僕の要望に応えてくれる素敵な方だからね……! ご主人様が嫌う虫の後始末をした後は、屹度手を洗うまで“汚らしい手で触れてくれるな”という感じに冷たい目で僕を見るんだろうな……っ! 嗚呼、想像しただけで堪らない……っ!! ふふふふふふっ……!」
 実際彼が言うような事は無いと思うのだが……。完全悦なモードでゾクゾクと身を震わせる亀甲に呆れを見せた主は、其れ以上余計な口を開くのも逆に墓穴を掘りそうだと判断したのか。その後は、ずっと口を閉ざして仕事を片すのに集中するのであった。


執筆日:2023.07.16
公開日:2023.07.17