窓辺でゆるり寛ぎつつ読書に耽りながら、下ろした前髪を
「――この本丸に来て早くも数年という時間が経過したが、君にとって此処は心安らげる場所になっているかい?」
ふと、傍らに座して、午睡に微睡み寝転ぶ子猫の癖毛を手遊びに弄くる小鳥が、そう何の気無しに問うてきた。
私は紙面へと落としていた視線を上げ、彼女の方を見つめる。すると、彼女は視線は子猫の寝顔へ固定したまま、口元に小さな笑みこそ浮かべていたが、何処か遠くを見ているように思えて首を傾げた。今しがた届いた言葉と彼女の纏う空気とが一致しないのだ。何処となく危うげで儚さを孕み、また、この世を憂いているかのような悲哀さが何とも言い難い艶を帯びている風に見える。
一先ず、問われた事への返答を返さねばと、一旦書物の中の世界の事は忘れ、一寸ばかり思考に耽る。そうして、長くもない時を置いて答えた。
「そうだな……其れなりの時を此処で過ごしたが故に、今の私の答えとしては、手放すには惜しい程に居心地の良い巣であると思う。今実装済みの我が一文字一家の者達は揃っているし、沢山の若鳥達に溢れていて毎日が発見の日々で飽きない。勿論、その中に小鳥も居るからこその平穏というものだ。そう心配せずとも、既に十分と言う程に心休まる場所となっているさ」
「そうかい。其れは何よりの答えだな」
「時に、何故そのような事を問うてきたかの質問をしても……?」
「いや、特に深い意味があってとかではないから、そう構えないでいてもらいたいんだが……っ。単にちょっとばかし気になったからってので訊いてみただけだし」
「そうか。だが、いつも言っている事だが、私相手に遠慮は無用だ。一家の長とは言え、私も一介の部下……君の刀だ。何でも言ってきて良いのだぞ? 君は遠慮しい気質故に、私のような立場の者には少々気後れするのやもしれないがね。君の刀になってもう三年にもなるんだ、いい加減慣れて欲しいところなのだが……っ」
「はははっ……此れでもだいぶ砕けてきた方なんだがねぇ。まだ堅さが残っているかい?」
「君もこの本丸の長たる立場だ、威厳を残しているという意味では好ましいと思う。然し、其れは飽く迄執務中の間のみだけに限定してくれたならば、もう少し気が楽になって良いと思うのだが……此れは独り善がりの我が儘になってしまうかな?」
「すまんねぇ、此ればっかりは染み付いた癖みたいなもんさ。大目に見てくだせぇや」
「承知した。では、君の気が許すまでを気長に待とう」
会話の途中で目線が交わされたが、やはり気持ちは此方に向いているというよりは何処か別な方へと向いている。どうしても其れが気になって、一度会話が途切れた後も彼女の視線を追うように見つめ続けていると、再び口を開いた彼女の口から言葉が零れた。
「ねぇ、ちょもさんや。俺は、どうしようもなく情けない審神者だけれど、俺という存在は君の止まり木に成り得ているかい……?」
漸くきちんと視線が合ったと思った。だが、その瞳は自信無さげに揺らいでいた。
今の今まで不安……だったのだろうか。言葉尻が揺れているのは、明らかに不安の顕れであろう。
今代、我等が一文字を傘下に率いる持ち主は、気の弱い御人だ。其れも、か弱い女人の身である。我々とは異なり、若き身ながら苦労を重ねてきた事が、立ち居振る舞いから見て取れる。故に、なかなかの気概の持ち主である事も。だからこそ、齢の割りに随分と口調が古めかしく老齢の者然としているのだ。ただのか弱い娘御と見誤り侮れば、忽ち此方が飲まれてしまう程熾烈な輝きに圧倒されてしまう。小鳥とは、そんな御人なのだ。
此れは、回りくどい言い方をせずに直接伝えた方が良さそうだと判断した私は、気持ち言葉尻が優しくなるよう意識して答えた。
「相変わらずの自信の無さだが……私にとって帰る場所とは、君が居る場所以外に他には無い。君は既に私の羽根を休める止まり木となっているよ。此れは本心からの嘘偽り無き言葉だ。信じて欲しい」
「そうか……其れなら、良かった」
「逆に問うが……小鳥にとって、私は止まり木になれているか?」
「っ……、」
同じ事を投げ返した途端、彼女が言葉を詰まらせ返答に迷う素振りを見せたのを見逃さなかった。この際だと追随を許さぬように言葉を重ね、胸の内に燻らせていた思いの丈を告げる。
「小鳥よ、私は君が心安らかに休めるような止まり木になりたいと常日頃より思っている。だから、少しで構わない……私にも甘えて欲しいんだ。君は、真面目で努力家であると同時に繊細な心の持ち主だ。其れも、些細な機微で敏感に反応してしまう程に。故に、これ迄幾度となく思い悩み苦しんできたのだろう……“過呼吸症候群”と医者に言われてしまう迄に。どうか、これ以上の無理は重ねてくれるな。見ていて此方まで悲しく苦しくなってきてしまうから……っ」
懇願するみたくなってしまったのは、些からしくなかっただろうか。言った後で迷いが生じた。今己のした発言が彼女の重荷になりはしないだろうか、と……。
だが、其れは杞憂に過ぎなかったようで、思わず彼女の頬へと触れてしまった手に重ねる如く置かれた柔い手に、下げかけた視線を戻す。
「心配かけてすまなんだや、ちょもさん……。でも、もう自分を蔑ろにするような事はしないから、信じて。これ迄苦労かけてホンマにすまんやで」
「本当にな。だが、君本人の口から聞けたんだ……君が私を信ずるならば、私も君を信じねば忠義に反するというもの。再三言うように、私は今や君の刀だ。君が先を目指し進むと言うのなら、その道先を照らす灯りくらいにはなりたいものだな」
「ふふっ、……もうなっているでしょうに、今更取って付けたような事を仰る」
「少々格好付け過ぎたかな……?」
「いいや。君はそのままが良いよ。野を翔ける山鳥の如し姿のままで」
憂いは晴れたのか、迷いに揺れていた瞳が力強く煌めいていた。同時に、互いに心配事が無くなった途端、口元に笑みが戻ったのを認識する。先程まで感じていた空気も何処かへと消えたようで、今流れる空気は清々しいものだった。
それにしても、私の事を“山鳥”と称すとは……まるで誰かさんのようだ。先代殿は、よく私を“山鳥”と言って
安堵したついでに少しの不満を抱きつつ会話に一段落着いた辺りで、不意にムクリと起き上がった子猫が徐ろにボソリと愚痴を零した。
「ったくよぉ……そういうのは、二人きりだけの時にしてくれや。オチオチ昼寝も出来やしねぇし……っ。頼むから、金輪際俺を間に挟むんじゃねぇーにゃっ!」
起きて第一声に言われた一言に、二人して顔を見合わせ苦笑を浮かべながら詫びた。
「
「すまなかったな、子猫よ。詫びと言っては何だが、今度外出を共にする時は何か買ってやろう。その時は遠慮せずに好きな物を言いなさい」
「んっ……絶対だからにゃ。今言った事忘れんなよ」
「勿論だとも」
此方を気遣っての事なのだろう。邪魔をしては悪いと言う風に部屋を出て行く子猫の背に、修行に出た事でより大きくなった背中が微笑ましく思えて、つい堪え切れなかった笑みが口を衝いて出た。
子猫が起きた事で手遊びに弄るものが無くなってしまった小鳥は、手持ち無沙汰なままも如何なものかと考えたのだろう。かと言って、早くも今日一日の日課は終わらせてしまった後のようだ。あとは、午後の演練を済ませた最後に遠征部隊を編成して見送るのみと見た。一昨日まで賑わっていた催物が終わった今、次の催しが用意されるまで少々暇である。英気を養いながら一週間の休息期間を満喫するのが最適解であろう。子猫の後へ続くように腰を上げた彼女が立ち上がる。
己も其れに続くように腰を上げれば、此方に気付いた彼女が振り向く。
「あれ、ちょもさん読書は良かったのかい? 俺はただ、午後の演練まで暇を持て余してたから何か手伝える事あっかなぁ〜って本丸内お散歩しに行こうとしてただけで、ちょもさんまで付いて来んでもええんやで?」
「いや、私も非番であるが故に暇を持て余していてな。石田殿のように
「そういう事なら別に構わんが、親鳥の後を付いてくヒヨコみたいに俺の後を付いて歩いたら、お頭の威厳に関わるんじゃねぇんですかい?」
「確かに、一家の長という立場だけを切り取ればそう見えるやもしれないが、私も他と同じく一介の部下に過ぎない。故に、小鳥の後を付いて歩いたとて何も問題は無いという事だ。其れに……此れはとても
「っ……、あの、唐突に口説いてくるの止めません? 心臓に悪いし、慣れない故に保たないんだが??」
「ははっ、此れは失敬。今のは、君にもう少し甘えて欲しかった、というだけの私なりの主張だ。私の小鳥は、君のみだと定めたからには、少なからず欲を覚えてね……。何、君はいつも通り素直なままで居てくれたら其れで良い」
言葉巧みに翻弄した訳では無いが、初心な彼女からしてみれば今の言葉の応酬とて刺激に感じたのだろう。全て好感触であるのを見るに、あともう一押しという感じか。今の反応的に、己の手の内に落ちてくるまでそうかからないだろう。内心で小さくほくそ笑みながら、小鳥と共に部屋を出ようとした。
そうして出口に差し掛かった際に、
「全く山鳥毛の言う通りだぞ。主はもう少し僕達に甘えるという事を覚えた方が良い。なぁに、遠慮する事なんか一つも無いさ! 何処まで行っても僕等は物で、人という生き物と寄り添い生きていくものだ。だからこそ、相手がどんな人間であろうと関係無いのさ。僕達は人を愛して止まない……其れが歪であろうとなかろうとも、な」
壁を背にして告げる御前の言葉にポカンとする彼女も、どうやら自分と同様に彼等が来ていた事に気付いていなかったようだ。そうこう呆気に取られていたらば、彼の横から身を乗り出すようにして存在を主張する姫鶴までも同様に口を開く。
「何か屈辱的だけど、今のには俺も同意見だから。主ったらホンット俺達の事頼ら無さ過ぎ。もうちょい頼ってくんなきゃ寂しいじゃん。主の健やかな生活を守っていくのも、歴史を守っていく上で大事な事なんだからさぁ……っ。ぶつけたっていんだよ? ちゃあんと受け止めたげるからさ。あんま気負い過ぎんの止めな? その内マジで押し潰されちゃいそうだから。主居ないと俺等存在出来ないんだからね。ダイジョブ、主は超が付く程頑張ってる偉い子だから、周りが何か言ったって俺達が払い除けてやるって。ねっ、にゃん君?」
わざと付け足されたかのような響きに姫鶴の背後を覗き込んでみると、なんと先程部屋を出て行ったとばかりに思っていた子猫の姿までもが其処には在った。但し、本当は見付かりたくなかったというように身を縮こまらせた状態であったが。
「おや、子猫も居たのか」
「ぅ゙っ……姫鶴の兄貴に捕まったんだにゃ……。俺は、盗み聞きなんて悪い事してるみてぇーで気が乗らなかったから、端から聞くつもりは無かったんだけどよぉ……っ」
「南泉の坊主も、其れなりに主を心配しているという事さ。僕達一文字の中で修行を終えているのは、南泉の坊主だけだからな。その分、主に対する気持ちも強かろう。主は、ちと肩肘張り過ぎなんだ。もう少し気楽に行け! その方が何事も上手く行くようになるさ。どれだけ思い悩もうが構わん、だが其れを溜め込み過ぎるのは頂けんな」
「ゔっす、すんませんっした……ッ。善処出来るよう努力致しやすんで、此処はどうか穏便に……っ」
それぞれに言い募られて押され気味となる彼女が不憫に見えて、堪らず制止の声を上げれば、己への小言まで飛んできてしまった。
「まぁ、あまり言い過ぎても返って小鳥の負担となろう。そのくらいに留めてやってはくれないか、御前よ?」
「けっ。山鳥の坊主が一丁前に気取っているのが見え見えだぞ。全くお前まで主に甘くなってどうする?」
「小鳥が我々に隠れて苦しみに涙する姿は、あまり見たくはないのでな」
「気付かれてたのかぁ〜っ…………ハッズッッッ」
「まぁ、この世を憂いて儚げに涙する姿も、其れは其れで美しさがあって目の保養にはなるが……やはり、君には微笑っていて欲しいというのが我々の願いだ」
恐らく、本心ではとっくに気付いていただろうに。この場を軽く流す為に初めて気付いた振りをして誤魔化す彼女の目が、涙の膜で潤んでいる事には敢えて目を瞑るとしよう。羞恥からの照れも多分に含まれるのだろうが、その実は
「さて、小鳥が望む通りに、手持ち無沙汰なのを埋める為に本丸内を練り歩くとしようか。だが、その前に一度厨に寄ってからにしようか。暦の上ではすっかり秋の筈なのだが、今年は昨年にも増して異常気象が続いている所為か未だ残暑が厳しい……っ。また小鳥が脱水症状を起こして倒れられても困る、故に水分補給はしっかりと行わなければな」
「そうそうっ。人の体って
「Oh……ッ、俺の初泥刀がつおい……!」
「良い部下を持ったな、小鳥よ」
「ほん其れな!!」
自棄っぱちになったのだろう小鳥が勢い良く私の言葉に賛同する。
元気がある内は安心だ。その元気が無くなってしまった時は、我々の出番となるが。例え偽りだとしても、笑えている内はまだ大丈夫。その笑みすら消えてしまわぬように災厄を払うのが、私達刀剣男士の使命である。
私の焔は、常に燃えているぞ。我が巣を、我が愛しの人の子を侵さんとする者が近寄ろうものならば、私の瞳が燃やし尽くしてしまうぞ。我等が守る領域を侵さんとするは、則ち、その覚悟があるものとして斬り伏せられるという事だ。またとなく大侵寇のような襲撃があるとも分からない。其れに備えて本丸の総力を強化する事に専念している審神者の小鳥に付き従い、己の力を揮う時を待つ。
どんな困難が待ち受けようと、小鳥は私達を裏切らない。どんなに辛く苦しい立場に立たされようとも、諦めずに前を向き、運命に抗い道を切り開く。ならば、私はその背を支えるのみだ。互いに命を預け合う程の信頼を勝ち得た者の務めとして。
執筆日:2023.09.21