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銀の月は口吻を乞う



 ――愛とは、愛するとは、何なのだろう?
 心の奥底でずっと考えていた。
 何かを、誰かを愛するとは、一体どういう感じなのだろうかと。
 また、その逆も然りで。何かに、誰かに愛されるとは、どういった感覚なのだろうかと……。
 漠然としたものだが、何となくは想像が付く事は出来る。然し、その想像した映像や偶像が己自身に当て嵌まるかと言ったら、恐らく首を傾げる事となるだろう。何せ、そういった経験をした事がこの世に生まれて来てから二十年余り一度として無いのだから。例え、想像する事は出来ようとも、現実として自分に降ってかかる事象として捉えられるかと言えばそうではない。何故ならば、己はそういった対象の視野には端から勘定に入らぬものと思っているから。
 故に、私は、“誰かに愛される”といった事や“誰かを愛する”といった事柄からは除外される人種という風に考えていた。とある男から言外に“愛”の言葉を語られるまでは……。

 或る男は、強くなる為、修業の旅に出た。そして、おのが力を極める事に成功し、満を持して我が城へと帰ってきたのだ。
 男は、器物に宿った付喪であり、歴史を守るべくして召喚された刀剣男士なる者であり、我が臣下で部下たる存在でもあった。嘗ては帝の池田輝政を元主とし、刀としての真価を認められ、『天下五剣よりも美しい刀』とも言わしめ、“東の横綱”の称号を欲しい儘にした、真に美しき刀剣。の者の名を――大包平、と言った。古備前派の刀工、包平により打たれた刀である。
 その大包平が、修業の旅より帰還して間もなく、私へこう告げたのだ。
「俺は、俺を愛してくれる者に報いたいと思っている」
 修業の成果を見せ、そのまばゆい程の煌めきに圧倒されたばかりの頃合いに、そう言ったのだ。澄んだ鋼の如く銀の双眸を真っ直ぐと此方へ向けて。
 まるで射抜くような眼差しに、一瞬その場へ縫い留められたみたいな感覚を覚えた。動こうと思えば動ける筈なのに、何故か思うように体を動かせない。一瞬の事なのに、大層大きな驚きが胸中に広がった。瞬きすら許さないような、真っ直ぐとした射抜きに、私は息継ぎしようとした喉を震わせた。
 どうしてそんな風に動揺してしまったのか――。ひとえに、彼の心が自身へと傾けられている事を如実に理解したからだ。今までそんな素振り一度も見せなかったであろうに――否、仮に見せた場面があったとしたならば、見て見ぬ振りをし気付かぬ振りをしたのではないだろうか……?
 何故ならば、その慕情が己へ向けられる事は無いと勝手に決め付け、絡め取られる前にその手の内から擦り抜け逃れていたから。認めようとはしてこなかったからだ。
 然し、男は此方をひたと見つめて離さなかった。ひらりひらりと躱してばかりいた蝶花を、遂に捕らえたと信じて疑わない、そんな確信に満ちた瞳だった。
 男は眦を和らげると、スッと眇めて笑みを浮かべて言葉を継ぐ。
「俺を愛するお前の事を、正式に愛しても良いかの許しを得たい。……数多の剣の中より俺を選び顕現してくれた時から、俺は、お前の事を好いていた。屹度きっと俺を選んでくれるに違いないと一人自惚れていた事は、今や恥ずかしい笑い話だが。お前と接する日々を重ねる毎にお前への想いは募り増すばかりだった。初めの内は理解出来なかったが、次第に噛み砕いて飲み下し切った頃には、見える景色が変わっていた。お前の存在が、痛く大切なものとなったのだ。今この時にて、改めて言わせてくれ。――俺は、お前を愛している。願わくば、永遠とわにお前の隣で共に支え合いながら歩み続けていきたい。勿論、俺の、伴侶として……っ」
 言葉の一つ一つをしっかりと刻み付けるように口にした彼は、時を止めたかの如く動けぬ私の手を取り、口付けた。所謂、接吻というものである。口付けられた場所は唇でなく手の甲であったけれども。皮膚の薄い場所への其れは、初めての感触を伝えるには十分であった。
 触れた事も無い柔いものが、己の手の甲に触れている。柔く軽く押し付けられただけの其れは、ほんの少し触れたに過ぎないものであった。けれど、熱を与えるには十分過ぎる程のものだったのだ。
 初めて受けた感覚に帯びる熱が途端に頬を火照らす。次いで、まともな口を利けなくなる言葉。何かを言いたいのに戦慄くばかりで何も発せない喉がもどかしかった。
 せめて何か一言くらい返さねばと躍起になった私は、言葉にならぬ声を漏らした。然し、言葉を紡ごうとしたその先を遮るように唇へ人差し指を突き付けられ、制される。私は瞬いてその意図を探ろうと目線を投げた。すると、彼は甘やかに双眸を蕩けさせてこう述べたのだ。
まだ・・、何も言わなくて構わん。言葉は無くとも伝わる想いはあるからな……。今は、ただ俺の告白を聴いていてくれたら、其れだけで十分だ」
 言外に“瞳を見るだけで分かる”と愛を囁いた男は、そうして私のおとがいを掬い上げ、静かに唇への口吻を落とした。男の癖にふにゅりと柔い其れはすぐに離れて行ったが、私からの咎めが無いと分かるや否や、もう一度、二度と触れ合わせた。不思議と閉じていた目蓋を開けば、視界に溢るるは銀の星月であった。
 ――嗚呼、私は、この瞳に惚れ込んだのだな……。
 知らず知らず募らせていた想いが開花したかのように、私の瞳から零れ落ちていく。其れを余す事無く受け止めるは、目の前の男のみである。
「俺を愛してくれて、感謝している。どうか、この先も変わらず俺を愛し愛でてくれ。俺も、お前の事を愛したい」
 慈しみたくて仕方ないといった風な口吻が顔中の至るところへ降ってくる。嫌な気は全くしない。寧ろ、幸福感すらあった。
 誰かに愛されるとは、こんな感覚なのか。また、誰かを愛するとは、こんな感情なのか。
 愛する事が分からなかった女は、己を愛すると誓った男の手によって生まれて初めて知ったのである。同時に、愛されるという事も。

 ――愛とは、愛するとは、至極温かな感情の事を指すものである。その感覚や感触は、受け取り手によって様々だが、決して不快でないという事だけは確かである。……少なくとも、彼より与えられる溢れんばかりの愛を受ける身としては。


執筆日:2023.10.17