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独占欲≒毒占欲



 何とはなしに厨こと台所に立って徐ろに掴んだ包丁を眺めていた。そう、ただ眺めていた。何をするという事も無く、ただぼぉーっと包丁の刃先を見つめて突っ立っていた。さすれば、すわ何事かと勘違いして慌てて駆け付けて来る者も出て来るだろう。此処は、審神者という唯一の人間を閉じ込めた本丸という箱庭。審神者が何か仕出かす前に誰かしらが其れを止めに来る、此処はそういう場所だ。
 ただただ無言で包丁の刃先を眺める事、数分。不意に、後ろからにゅっと出て来た逞しい手に包丁を掠め取られた。包丁を握っていた手とは反対の肩に添えるような手の重みを感じてゆるりと背後を振り向けば、其処には今しがた己の手より包丁を奪い取った刀の姿があった。何某なにがしかを言いたげな浅葱の目が剣呑さを帯びて此方を見下ろしている。
「自死なんぞ、アンタが思ってる程碌なもんじゃないぞ。其れに……敵に攻め入られ陥落寸前の瀬戸際ならまだしも、そんな時でもねぇってのに易易とおのが自ら手に掛けようなんざするもんじゃない。特に、こんな鈍らモンでやろうとするなんざ、考えるだけでも恐ろしい。使うなら、せめて俺みたいなよく斬れる刀にしときな。悪い事は言わん。此奴・・で自分の腹を裂こうなんざ考えるのはやめとけ」
「……誰から聞いた?」
「アンタのお気に入り且つ大層可愛がっているであろう初期刀殿にだよ」
「清光か……。別に隠しもしてない事だから怒りはしないけれども、些か口が軽い事に関しては物申したいところだな。わざわざ新刃刀に対して忠告すべき事でもなかろうに……っ」
「主人の事が心配だから気にかけるんだろう。兎に角、此れは没収だからな」
 取り上げた包丁を速やかに収納場所へと仕舞いながら、「ったく……簡単に目に付くような場所で管理する方が間違ってるだろう。誰だ、置きっ放しにした奴は。御用改めでしょっ引いてやろうか?」などとブツブツ文句を零す。誰と言えば、恐らく厨番の誰かしらであり、何故置きっ放しにしていたかの訳を述べれば、其れは洗った後で水気を切る為に乾かす意図で安置していただけであろう。特別可笑しな事は何も無い。何処の家庭にも日常的によくある事だろう。
 勝手に憤慨している男の様子を見て、女は視線を他所へと逸らして言った。
「別に……心配せずとも、何をする気も無かったから安心して欲しいんだけどな」
くだんの話を聞いた後で心配するなと言う方が無理な話だ」
「そりゃすまんかったね」
「料理をするべくならまだ納得は行くが、そうでもないのに刃物を持っていたなら、行き着く先は容易に察せるだろう? ……何を考えていた」
 男は尚も瞳に剣呑さを帯びたまま問い質す。会話だけを切り取れば、まるで尋問でも行われているかのような空気だった。
 何も悪い事はしていないのに何処となく責め立てられているような気持ちになった女は、肩を竦めて口元を歪め、仕方無しにと吐き出した。
「……ぶっちゃけ、ただ何となく見てただけで他には何も無いよ……。強いて挙げるなら、包丁の刃先がちょっとばかし欠けてきてて年季入ってきたなぁ〜とか、切れ味悪くなってきてるって誰かが漏らしてたからそろそろ研がなきゃいけない頃なのかなぁ〜とか。そんくらい……?」
「……アンタの事を見ていて薄々思っていたが、アンタって奴はつくづく本音を隠すのが上手らしい」
「買い被り過ぎだろ。俺は其処まで出来た人間じゃない。単に言わんで良さそうな事は言わんだけだし、言ってその場を乱すだけの事ならば更々口に出さんだけさよ」
「そういうのを秘密主義って言うんだぜ、主人?」
「俺のは、単に空気を読んでのただのだんまりなだけだろう? 事実、口だけは達者な姉と口論したって口じゃ勝てねぇの分かってっから、極力黙って嵐が過ぎ去るのを待って事を荒立てねぇようにしてっし。まぁ、其れでもカチンと来りゃ反論くらいはするがな。下手に反論した場合、倍の火の粉が飛んでくるからね。俺は口下手だから、余計な事言わんようにしてるだけだよ。その所為で言葉足らずな事はあるだろうが、本丸の子達は皆大抵は上手く汲み取って理解してくれてるみてぇだから助かるし困らん。此れが他所なら話は別だがね」
「ふふっ、よく言うよ。其れで上手く誤魔化したつもりなようだが、俺の目は誤魔化されんぞ。正直に白状しな」
「疑り深いやっちゃなぁ。本当に何も無いってば」
「なら、同じ事を俺の目を見て言ってみろ」
 そう言って、男が女に至近距離の近さに身を寄せ顔も寄せる。女は目の前の近さに迫った男の顔に一瞬仰け反る風に引く様子を見せるも、男が引かぬ様子を見るや否や、顰め面のまま言われるままに拝んだ。そして、一言。
「孫六さんの目って綺麗な目してんね」
 単なる感想を零した。此れには流石の男も驚いたのか、小さく目を丸くして瞬く。
「あのなぁ、主人。俺は今、アンタに物申したくてこうしてんのに、何で其れを口説こうとするかね?」
「純粋に褒めただけだったんだけど、気に入らなかったかい……?」
「いや、気に入る気に入らないとかの問題じゃなくてだな……っ。あ゛ー……ったく、やめだやめだこんなの! 全く話にならん!」
「何だ。自分から迫っておきながら堪え性の無い奴だね。案外初心うぶだったのはそっちの方だったりしてな?」
「言ってくれるじゃねぇーか……っ。アンタがお望みなら、このまま本気で口説き落としてやったって構わないんだぜ? 其れに堪えられる自信ってのがあるんだったらな!」
「ふむ……そいつぁ流石に困る。君みたいなイイ顔した男に本気で言い寄られちゃ、流石の俺とて照れるし、何なら羞恥度MAXからの脳味噌が沸騰通り越して爆発四散する勢いで無理」
 然程困ってなさそうな口振りで淡々と打ち明けられた事は、何とも信じ難い事ばかりである。未だそんな場面シーンを一度も見た事が無い男は、忽ち胡乱気な目を向けて疑いの眼差しを浮かべた。
「主人が照れたところなんて一度も見た事は無いが……?」
「そりゃあそうだろうとも。俺は無愛想で笑うのあんまり得意じゃないから、基本的にポーカーフェイスという名の無表情を浮かべてますからなぁ。表情変えなかったら能面みたいな無の顔らしいぞ。日本人の特徴だね。外国人が怖がるか誤解するの二択しかないわ」
「確かに、主人はあまり表情を変えない方だな……? かと言って、全く笑わないという訳でもないが」
「だからかね。俺が何気無くゆるっと変な動きすると、奇行種でも見たかの如く二度見されるか凝視されるんだよね。俺だって人間だから偶には変な動きする時だってあるよ。やってるのが深夜のハイテンション時とか徹夜でハイになってる時とかの事が多いから勘違いされるんだろうけど。俺、定期で愉快な事してんだけどなぁ」
「ちょっと待ってくれ……其れはつまり、定期で徹夜してるって事にならないか?」
「そういう事になるね」
「平然と頷くんじゃない! 人間ならちゃんと寝てくれ! 不健康だろう!!」
「不健康なぞ今に始まった事ではないぞ。俺は基本不摂生な生活スタイルがスタンスだからな。だからすぐに体調不良を起こすひ弱で脆弱な惰弱野郎なのだ!」
「真面目な顔して威張るところ其処じゃないだろう!? 頼むからせめて睡眠くらいはまともに取ってくれ!! そしたら少しは寿命が延びるかもしれんから……っ!!」
「必死ですね、孫六さん(笑)」
「アンタが生に頓着しなさ過ぎだからだろうがっ!! 誰の為を思って言っているのか、少しは反省してくれ!! ……ったく、こんな無頓着な御仁だったとは、そりゃ初期刀たる加州清光も手を焼く訳だ」
 来たばかりの新刃刀ですら手を焼く面倒さらしい。此れは早々と匙を投げるかなと思いきや、そうでもなさげに此方を見てきた。その浅葱色の目に仄かに浮かぶ感情の色が見て取れて、心無しか女は愉悦な笑みを浮かべて口端を吊り上げる。
「おや、もうお手上げかい……?」
「そうだなぁ……アンタがもう少し素直になってくれたら少しは俺の気も楽になろうってもんだがね」
「別に、俺如きに気を揉む必要もあるまいよ」
おのが主人を捨て置く程、俺はまだ落ちぶれちゃいないさ」
 黒き前髪の隙間から仄暗い目を覗かせた男が再び女に迫る。
「折れず曲がらず斬りやすいが売りの最上大業物たぁ俺の事……故に、その柔い腹の肉を掻っ捌きたいってんなら、そんときゃ俺を使いな。そしたら、その腹ん中に詰まってる生温かいはらわたを傷付けねぇように綺麗に斬り裂いてやらぁ。鈍らな包丁なんかに頼らず俺にしておけよ? なあ」
「……此れって口説いている内に入ります?」
「刃物的に言うなら、口説き文句としちゃあ上等な方だと思うが?」
「まさかの斜め上の方向で口説いてこようとは思わなんだわ……。鶴さんじゃないけど、こりゃ驚きだね」
 然程驚いてはいない顔をして平然と嘘を宣う。此れはなかなかに手強い相手である。しかし、だからこそ、そのかんばせが変わる瞬間を見てみたいと男は思った。
 男は欲を宿した目を隠そうともせずに女の顔へ触れた。最初は毀れ物でも扱うように優しく左頬を撫ぜる。次いで、そのまま包み込むように横顔を掴んだかと思えば、女の瞳をよく見ようとでもするかの如く覗き込んできた。この間も、女は動じずに様子を窺うだけだ。この状況で動じないとは、大層肝が据わっている。
「今の今で俺がこの距離に迫っても動じないとは、天晴な度胸だな。少しくらいは動揺してくれるのかとばかりに思っていたんだが……」
「此れくらいで動揺するようじゃあ、審神者は勤まらんだろう」
「フッ……流石は我が主人。審神者のかがみのような事を言う」
「褒め言葉として受け取っておこう」
 男が尚も気安く顔へ触れてきても何一つ顔色を変えない様は、何処か機械的ですらあった。其れがつまらなくったのか、男はその節くれだった掌を首筋へと添えた。其れには流石に視線を手の動く方へと移した女に男は愉悦を覚えた。
「今なら、アンタのこの細い首を締める事もへし折る事だって容易に出来るぞ」
「脅しにすらならんな……やりたきゃ好きにすれば良い。但し、その後お前は俺の刀共に容赦無く叩き折られる運命にあるがな」
「怖くはないのか? 幾ら度胸があり肝が据わっていようとも、人の子であらばこの状況下なら恐怖心を抱くものだろう?」
「相手が他所の刀なら少しはビビッてたかもしれんな。でも、今対峙してるのは自分の刀だし、信頼を置いている以上は怖かないさ。このまま首を絞められようが首の骨へし折られようが構やしねぇよ。死因が何であろうと、自分の刀に殺されるんなら本望だろ?」
「……其れ程の覚悟は既に持っているとの意思表示か」
「俺かて伊達に長らく審神者勤めちゃいねぇーのよ。謀反起こされたなら其れまで。自分の刀の後始末くらい自分でケジメ付けにゃあ話にならん。仮に、自分の刀に殺されるんなら其れまでの人間って事だろう。素直に受け入れて死んだ方が潔い」
「そうかい。そりゃまた見上げた覚悟だ」
 男はまだ手を離さない。女の首に添えたまま、頸動脈の在り処を探るように触れる。すると、ずっとされるがままに許していた女が動いて、男の手に自分の手を添えた。途端、男の手がピクリと揺れる。
「どうした。口では散々言っておきながら、やはり怖くなったか?」
「いや……どっちかと言うと擽ったくなってきて……。俺、首元弱い方だから、あんま変な風に触られっとむず痒くってな……」
「……拍子抜けする程呆れた」
「なら、さっさとこの手を離してくれると有難い。さっきから擽ったくて敵わんからの」
 催促するように男の手の上をペチペチと叩く。凡そ緊張感の欠片など無い風に見えた。男は面白く無さげに嘆息いたが、言われた通りにすぐ離すかと思いきやそうはしなかった。女の頸動脈辺りに手を添えたまま、トクリトクリと女の命が脈打つのを感じていた。真顔で首に触れたままの男の意図が分からず、女はとうとう怪訝な顔を浮かべて見遣った。
「おい、離せって言ったの聞こえてなかったのか?」
「聞いてるよ」
「なら離せよ。俺が思ってたみたいな反応寄越さなかったから、呆れてつまんなくなって構うのにも飽きたんだろ?」
「すぐに離すのも惜しく思えてしまってな……」
「は? 何で……」
「アンタの体温、温いな……。生きてる人間てのは、こんなにも温かったんだな。ただの刀であった頃にゃ分からなかった話だが……触れてみたら、どうしてこうも離し難い程に温いかねぇ」
 しみじみと落とされた呟きは、感慨深いとも言いたげな温度を含んだものであった。お陰様で、二の句を継ごうと思った口を閉じる事すら忘れてしまう程には動じてしまった。
 男は尚も女の首から手を離さずに頸動脈の辺りを擦るように触れる。親指のささくれだろうか、其れが肌に擦れてゾワリとした感覚が背筋を這った。
「ちょっ……いい加減首触んのやめれッ……マジで怒るぞ……!」
「今の今まで平気だった癖にか?」
「何かこのまんま触られ続けるのは流石に変な気分になりそうだと察知したので断固拒否する……!」
 明らかな拒否感を示した瞬間だった。けれども、男からしてみれば、女が漸くはっきりと心を動かしたという風に映った為か、制止の言葉が逆効果として働いたようで。男は、空いていた方の腕を女の後ろへと回して、首裏を支点に支えるような形で自身へと引き寄せた。次いで、先に首へと触れていた手で襟元を開くと、其処へ顔を寄せ、かぷりと噛み付いた。実際は、噛み付くと言うよりは唇で食んだ、と言った方が正しいだろう。事実、歯を立てる事無く唇で触れただけに過ぎぬ其れは、食んだに等しかった。けれど、女に明らかな動揺を与えたのは確かである。
「ひッ!? ちょっ、孫六さん、何して……っ!」
「………………」
 男は無言を返すだけ。首筋へと触れた唇をそのまま頸動脈辺りまで這わした。途端、先程よりも強く走ったゾワリとした感覚に、女は身を捩って男から離れようと藻掻く。けれど、相手はただの男ではない。普段戦場で刀を振るっては血味泥になりながらも平然と野を駆け回れる屈強な体躯を持った男である。ただの人間の女が敵う相手ではない。せめてもの抵抗として目の前の胸板を押し返そうとするもビクともしない。其れどころか、女が反応を示した事に愉悦を覚えた男は、抵抗を示す女の首筋へと舌を這わせた。生温かい湿った感覚が肌に触れた途端、ビクリと肩を跳ねさせた女は意図せず鼻に抜けたような甘い声を漏らしてしまった。
「んぅッ……!」
 直後、ハッとしたように口元を手の甲で押さえるみたく塞ぐ。しかし、既に声を聞かれてしまった後ではもう遅い。男は、耳元近くで呟きを落とした。
「へぇ……そんな声も出せるのか。ますます興味深くなった」
「ッ……! いい加減に……っ!」
「なぁ、欲するのなら俺にしておけよ。後悔はさせんぜ……?」
「ッ……其処で、喋んな……!」
「ははっ。耳も弱いと来たか……どれ」
「ひッ!! や、にゃっ、に……!? やっ、ぁ゙うぅん……ッ」
 ぬちゃり、耳朶に這った感触に堪らず身を震わせた女の抵抗が弱まる。其れを喜々として見つめ、戯れに耳介へ歯を立てた。すると、分かりやすく身悶えするような声を漏らすではないか。此れは気分が良い。
 普段気の強さを誇る女がしおらしく己の手の内で悶えている様のなんと艶らしい事か。男は喉を鳴らして笑みを湛えた。
「可愛らしい声も出せるんじゃないか。非道いなぁ……そんな一面も持っていた事をひた隠すとは。意地らしいじゃないか」
「んッ……ふ、っ……や、めて……!」
「そんな抵抗で俺を御せると思っているのか……? だとしたら、何とも見くびられたものだなぁ」
 耳裏の辺りを狙い付けて口付け、じゅっと音が鳴るように吸い付いた。直後、軽く唇を浮かせて見れば、薄くも赤く花の咲いた痕が付いたのが目に入る。其れを目にした途端、敵を屠り捨てた時以上の快感とも呼べる感覚が体の奥深くの芯へ走るのを悟った。
 男は興奮を抱いていた。自身の主人たる女へと劣情を抱いてしまったのだ。
 もっと自分の色へと染め上げたい。そんな刹那的とも言える低俗な欲が顔を出しかけた時だった。パンッ、と乾いた音が鼓膜を揺らした。ついでに、音がしたと共に派手に視界が横へとブレ、遅れて左頬へと痛みが走った事に気付く。見れば、女が肩を怒らせた状態で手を上げたまま固まってた。不貞を働いた罰として主人たる女が己に手を上げたのだ。
 女も抵抗の一つとして男をったのだろう。だが、予想に反して、女としては手を上げるつもりはなかったらしい。その証拠に、男を打った時のまま固まり、驚いた表情を浮かべていた。恐らく、反射的に手が動いたのだろう。まさかうっかり相手の頬を打ってしまうとは思わなかったようで、半ば混乱の境地に立っていた。
 うっかりついでに思わず霊力も乗っかってしまった所為か、平手打ちに打たれた男の左頬には綺麗な紅葉が咲いていた。だが、今の衝撃で我に返ったらしい男も己のやらかした事の重さに気付き、顔を青褪めさせて咄嗟に口を開く。
「す、すまん……! 途中から俺も些か正気を失っていたようで、無体を働いた……っ。本当に悪かった、すまない……っ!」
「……いやぁ……俺も、その……咄嗟の事とは言え、自分の刀に手を出しちまった事に、少なからずショックを受けちまっててな……。こんな悪い驚きは勘弁願いたいんだぜ……」
「いや謝るべきは俺であって主人じゃないだろう!? 気は確かか!??」
「はははっ……正気失ってたって、冗談だろう……? 頼むから、冗談だって言ってくれよバーニー……」
「バーニー!? そんなんどっから出て来たんだ!? 俺は孫六兼元であって、そんな妙ちきりんな名前じゃないぞ……っ!! 本気で大丈夫か!?」
「そもが、初めから大丈夫ならこんなショック受けてねぇわクソが……っ」
 張り詰めていた緊張の糸が解けたのだろう。ボロクソな罵倒を口にした途端、女はずるずるとその場に尻餅をついて座り込んでしまった。慌てた男も女の目の前に屈み込んで様子を窺う。
 惨めたらしく泣き出す程ではなかったものの、抵抗する間に生理的な涙は浮かんでいたのか女の目は潤んでおり、溢れずに溜まった涙を湛えた眦には拭われずのままの小さな粒が光っていた。其れに気付いた男は、途端に物凄い罪悪感を覚えて項垂れた。
「誠に申し訳ない……っ。まさか、こんな事になるとは俺も思ってもみなくてだな…………って、あ゛ー……此れじゃ物凄く言い訳がましいな。悪い……っ」
「いや……俺も、もっとちゃんとした抵抗らしい抵抗をすれば良かったんだが、其れをせずに居た訳だし……。言霊で縛る事も出来なくはなかったけれども、その手に出るのは余程の緊急時だと思って、出来なかった。……無理に相手を支配下に置くってなぁ、どうも気が進まなくてだな……」
「主人……」
 下手に気を遣わせてしまったと気付いた男は、罰が悪そうにかんばせを歪めて溜まり切った後悔を深々とした溜め息と共に吐き出した。
「そういう時は、躊躇う事無く使える手段は何でも使って抵抗してくれ……っ。例え、相手がアンタが配下に置く刀の時でもな。自分の身が危機って時にまで相手の事を気遣ってちゃ世話無いだろう? 頼むから、もう少し警戒心を持ってくれ……っ」
「とか言われてもねぇ……。本当の危機でもないのに、んな真似出来るかよって話なんだが」
「其処は心を鬼にでもして抵抗を見せない限り、相手が付け上がる元だぞ。主人はもうちょい自分の身を労る努力をした方が良い……。でないと、周りの気苦労が絶えん」
「そんなにか……」
「あぁ、いや、そういう事を言いたくてしたんじゃなくって……って、此れ堂々巡りだな。……はぁ。全く、参ったね。まさか、こんな形で俺の欲望を炙り出してくるとは……っ。心底驚いたよ」
 此方が何も理解する事無く自己完結させたらしい男が、今度は呆れながらも口端を吊り上げて笑う。次いで、女の眦に残る小さな粒を優しく親指の腹で拭った。
 女は未だ理解の追い付いてない風な顔を浮かべて見つめる。その左耳に掛かる髪を敢えて退けるようにすれば、丁度耳裏に隠れるような辺りに小さな赤い痕が薄っすら花を咲かせるように付いていた。其れを確かめるようになぞって、またどろりとした眼差しを視線に乗せた。
 そんなところで、突如男の頭を何かしらの衝撃が襲った。固い材質の何かで叩かれたような其れに、男は怪訝な顔を浮かべて背後を見遣った。すれば、厨の陰で蹲るようにして屈み込む二人に影を落とすように佇んでいた者が口を開く。
「――僕達の大事な姫君に何やらかしとるんだ、其処な坊主は」
 いつの間に背後を取っていたのやら。全く気配に気付かなかった男は、ヒクリと口端を引き攣らせた。
 其れもその筈。男を見下ろす視線があまりにも恐ろしいものだったからである。
 幾ら錬度は横並びとなったにせよ、顕現してからの経験値は背後を取る者の方が遥かに上だ。顕現するに当たる成り立ちが似ている故に似た者同士であり、元より強き縁を結びし者相手ならば、当然今現在彼が本気で怒っている事も空気のみで察せられた。
 普段こそのほほんと好々爺を演じてみせる金髪の一文字の祖たる刀は、その手におのが刃の代わりに扇を携えて見下ろす。その射殺さんばかりの視線たるや、現役と見紛うばかりの鋭さを帯びていた。
 物が物なら、今頃男は御陀仏となっていただろう。その事実に気付いた男は、忽ち冷や汗を溢れさせて目を泳がせた。
「い、いやぁ〜、此れには理由ワケがあってだなぁ……っ」
 咄嗟に口を衝いて出た言葉は何とも言い訳がましさに溢れたものな上に、動揺からか妙に震えたものだった。此れに、更に眼光の光を強めた彼はその目を細めて言う。
「ほう。では、その理由とやらをお聞かせ願おうか。何故、僕の可愛い主がこんな処で尻餅ついて涙目なんぞになっているかを。よもやよもやだが、邪な考えで主に無理矢理詰め寄った訳ではあるまいよなぁ? 其れこそ、主に無体を働いたとして僕等に罰せられたとしても可笑しくはないと、分かった上での事なんだろう……? そうだろう、関の坊主よ」
「ッ……この度は、主人に向かって大変失礼極まりない真似を仕出かしました事を、此処にお詫び申し上げます……!!」
「素直でよろしい。……だが、次は無いと思えよ小僧」
 平安に生まれた刀らしく、その御身に纏う覇気たるや、なんと恐ろしき事かな。生まれて初めて壮絶なる危機感を覚えた男は、速やかにその場を立ち上がり女の目の前から退いた。代わりに、緩やかに金髪を靡かせた彼が腰を落として口を開く。
「大丈夫か、主よ? 驚いたろう。怖くて声も出せなんだったかい?」
「いや……驚きはすれど、怖くはなかったよ。飽く迄も俺の刀相手だったからね。その点については、さっきも同じ事を其処のやらかし犯に言ったがね」
「そうかい。流石は僕の主だ。肝が据わっていて結構。だが……幾ら己の刀と言えど、用心するくらいの心得くらいは持っておきなさい。お前さんにゃ、其れが欠けておる。信用するのは構わんが、信用し過ぎるのは良くない。多少の警戒を持つくらいはしておくのが身の為だぞ」
「忠告痛み入るよ。今、其れを学んだばかりだ」
 涙目ではあるものの、思ったよりも平気そうな様子に内心安堵して、扇を肩に担ぎながら問う。
「立てるかい……?」
「あぁ……助かるよ、有難う」
 差し出された手に短く礼を口にして立ち上がる女。其れを助けようと力強く引き上げてしっかりと立たせる。
「ところで、何でまたこんな処で座り込んでたんだい?」
「其れは……まぁ、ちょいと色々ありましてね。大した事じゃないから、そう心配は要らんよ」
「ふぅん……色々・・、ねぇ」
 敢えて濁されたであろう言葉にその真意を読み取った彼は、視線を斜め後ろに控える男へチロリと向けた。肩越しの流し目を寄越された男は、相変わらずの冷や汗モードである。
 此れは、敢えて問い質したところで上手い感じに手の平で転がされて流されるだけに終わるだろうと踏んだ彼は、嘆息くのみに留めて咎める。
「はぁ〜……僕の主は大概頑固だからなぁ。僕が言ったところでそう易易と考えを変えてくれるとは思っちゃあいないが、いつかその驕りで痛い目を見ない事を祈るぞ」
「有難い忠告を有難う、御前」
「全く、どうしてこうも強かになっちまったかね、ウチの主は……」
 難無く立ち上がった女に、他に異常は無いかと確認して、ふと目に入った襟元のはだけに再びその目を眇めて一つ断りを挟んで訊く。
「ちょっと良いか? その襟元はどうした?」
「あー、此れ……。其処の誰かさんに首元擽られた際に少し弄られただけだよ」
「そうかい。其れで襟が少し乱れていたのか。はてさて、自分の主人ともあろう者の首元を擽ろうとは、なにゆえの由があっての事か、聞かせてもらいたいところだな。嘘偽り無く吐け」
「……正直に白状したら、ちょいと魔が差したが故の戯れのつもりでした……っ」
「ちょいと魔が差したでこんな独占欲の塊みたいな痕が付くもんかね。白々しい嘘は別の時に付くんだな、小僧」
 扇の先で左耳へ掛かるようにして垂れる横髪を払って告げる。その責に、男は苦笑を滲ませて言葉を返した。
「はは、……返す言葉も御座いませんとは、まさにこの事だな……っ」
「分からいでか。此れでは、“毒占欲”と称しても変わらんくらいのものだぞ。何に急き立てられたかは知らんが、主に対し下手に邪な感情をぶつける事だけはやめてもらおうか」
「今回ばかりは、誠に面目ないと現在進行形で猛省しているよ……」
「其れならば良い。今後は気を付けるように」
 扇の先を下ろした彼は、己が乱した髪を整えてから言葉を付け加えるように口を開いた。
「主よ。其処の馬鹿が付けた痕を隠したいんなら、暫くは髪を下ろしておくと良いぞ。主が気にならないんなら、そのままでも構わんが。人目を気にするのなら、一応隠しておいた方が余計な詮索をされずに済むぞ」
「じゃあ、一応髪は下ろしておくとしようか。鏡見てないから自分じゃ分からんし」
「鏡を覗き込んだくらいじゃ分からんだろうが、ウチの目敏い連中相手には小細工でもせん限りすぐにバレるだろうな」
「其れは面倒だな……。よし、暫くは髪下ろしとこう。うん、そうしよう」
 素直に彼の言葉を聞き入れた女は、一纏めに括っていた髪留めを解いて髪を下ろした。ついでに、軽くかぶりを振ってしまえば、広がった髪に隠れて分からなくなるだろう。
 一連の一部始終を見守っていた男は、思っていたよりも女の態度が普通に戻っているのを見て、少しばかり安堵したようで。気まずげな態度はそのままに改めての謝罪の意を表明した。
「さっきは、その……色々と不敬を働いてすまなかった。改めて謝罪しよう。主人の制止も聞かず、下手な真似をして申し訳なかった」
「ふむ……一先ずは許してやるとしよう。でも、痕付けられるとは思ってなかったから、その点においては反省してくれると有難い」
「肝に銘じておこう……っ」
 あっさりと許された事には驚きつつも、全くのお咎め無しではなかった事に免じて彼も口を挟む事無く頷く。
「良かったな、坊主。主が寛大な心の持ち主で。そうでなくば、お前さんは今頃刀解待った無しの沙汰が下っておったところだぞ。寛大な主に感謝するんだな」
「嗚呼……全く以てその通りだ」
「それじゃあ、僕はもう行くが……また困った事があれば、今度こそ誰かに頼れよ主」
「うぃっす、了解ッス」
 一頻り小言を告げて満足したのか、彼は踵を返してその場を去って行った。てっきり問答無用に引き摺られでもして女から引き剥がされ、そのまま説教部屋にでも連れて行かれるとばかりに思っていただけに拍子抜けである。男は腑に落ちない気分のまま女を振り返り、口を開いた。
「特に用が無いなら、俺達も行くか」
「そっすね。部屋に戻って茶でもしばくとしますか」
 男の促しに、女も従って厨を出る。
 途中、部屋へと戻る道すがら、女はポツリと吐き出した。
「――さっきの話の続きだけど……本当に本当の事を言ったら、ウチが使ってる包丁に関の物は無かったなぁ〜……的な事を考えてたんだよね。ウチの本丸で使ってるヤツは、俺の実家で使ってるヤツも含めて、市販で売ってた何処にでもあるようなステンレス製の安物だったからさ。関の包丁みたいな切れ味は無いんだよね。まぁ、別にそんな触媒無くても君はこうして来てくれた訳なんですが」
「アンタなぁ……っ、何っでそういう事を今この場で言うかね……!」
「逆に、今しかないと思ったからだが?」
「勇者なのか!? 今この場でそんな事言って調子に乗ったらどうしてくれる……ッ!!」
「君は其処まで馬鹿でも浅はかでもないだろう? 何せ、途中で我に返る程には理性を持っていた俺の自慢の刀なんだから。……嗚呼、心配せずとも、あの場で自殺しようだなんて意図は全く以て無かったから安心してくれて良いぜ。そも、包丁なんてモンで自殺なんぞ考えた暁にゃ、俺の刀共が容赦無く止めに掛かるからな。しようにも出来んっつー事なのよ。一度、リアルに其れで止められた訳だしなぁ。まぁ、そんな前科があるから敏感になってんのかもしれんね、ウチの御刀様は」
 よくもまあいけしゃあしゃあと言ってくれるものだ。平然と口にするには重い言葉を淡々と言ってのけた女に、男は顔を顰める事で返事と成した。
 女は尚も言葉を続ける。
「……まぁ、君が望むなら、俺の介錯人の役目は君に任すとしようか。『折れず、曲がらず、よく斬れる』が売りの君なら、人の血肉を裂くくらい朝飯前だろう……?」
 女は妖艶な笑みを浮かべて微笑んだ。其れをまともに食らった男は、再度その目に悦を浮かべて口端を歪めて笑った。
「嗚呼ッ……今代の主人は、全くなんて……俺を喜ばせるのに長けた御人だ――!」
 危うげな在り方をするのは、果たして何方か。はたまた、両方か。妖しげな欲を宿した四ツ目は見つめ合い、何かを通じ合ったようにクツリと喉を鳴らして笑い合う。
「そういえば、この頬に見事に咲いたであろう紅葉への手入れは……」
「地味にお似合いで面白いから、今日一日はそのままでお願いします」
「アッ、ハイ……そうですよね……ハイ、どうも生言ってすみませんでした……ッ」


執筆日:2023.11.20
公開日:2023.11.21
加筆修正日:2023.12.02