ふと、目が覚めた。真夜中の事だ。
嫌な夢を見たらしい。暫しの間、夢に引き摺られて呼吸が乱れるも、頼りの縋りを見付け、頭の中でただ
しかし、少しして厭に絡み付く夢の尾も引いて、重ねに重ねた布団の中から抜け出る。一度、頭の中を空っぽにしたくも其れが容易に出来たらば苦労はせぬと、細く溜め息を吐き出すに留め、部屋の戸を開けた途端、冬の夜の冷たい空気が纏わり付いてきた。けれど、今は夢に魘された熱を冷ますのに丁度良い。少しだけ夜風に当たって気分も部屋の空気も入れ換えようと、気持ち大きめに寝室の襖を開き、隣の執務室を通り抜け、廊下とを隔てる飾り障子の戸まで開け放った。室内よりも、外と変わりない廊下の空気の方が夜に満ちてキン、と冷えていた。其れが逆に心地良かった。
ほぅ、と白き息を吐き出して、縁側の先より拝める庭先の景色へ視線を投げる。特に何も意図は含まない。ただ、目の前の景色へ何となく視線を投げただけだ。
今は、ただ、寒くて身も凍りそうなこの冬の空気に触れていたかった。その方が、夢に魘されていた体の熱が冷まされて、夢の残滓すらも消えて行ってしまいそうだったから。
ふと、頭の奥に鳴り響いた音色に、閨の壁に立て掛けたままの存在を思い出して、「嗚呼」と思った。導かれるように手に取り、夜も更けて深い刻なのも気にせず母屋からは離れた端っこの居室だからと、この冬の時期外に面していて寒いのもお構い無しに床板へ何も敷かずのまま座し、手遊びに弦を弾いた。すると、忽ち“びぃん”といった良い音を鳴らすから、
――“びぃん、びぃん”と、物悲しくも美しい音色を響かせる琵琶の音が夜闇の隅で鳴く。憐れにも夢などに心掻き乱された人の子が可哀想で、ほんの慰めになれば良いと、冬の寒さに凍えながら手足の指先を赤く染めながら真白の息を吐き出す人の子に寄り添って鳴く。“びぃん、びぃん”と、
すると、どうだろう。琵琶の音色に惹かれてやって来た一人の
「今、何時だと思ってやがる……夜中の三時半も過ぎた頃だぞ。丑三つ刻も過ぎてんだよ、夜更かしも程々にして寝やがれ」
「……今は、ちょっと眠りたい気分ではなくて……」
「あぁ……? 何かあったのかよ」
「嫌な夢を、少し……」
「嗚呼、だから俺の名を縋るように何度も呼んでたって訳か……。あんた、嫌な夢見るといつもそうだもんな。夢から覚めても、脳裏に夢の欠片が張り付いてズルズル引き摺っちまうって。成程……道理でこんな夜も深ェ真夜中なんぞに、上も羽織らず寝間着のまんまで琵琶なんか弾いてた訳だ」
「あんたもあんただぜ。久しく鳴らしてもらってないからって、触ってもらいたいが為の口実に此奴の事
――“びぃん”、と。また、
指摘の通り、女が鳴らしていたこの琵琶、その正体は、実は付喪が宿った化け琵琶だったのである。
「だから、デカイ音鳴らすなって言ってんだよ
「そう怒らないでやって。この子に呼ばれた気がして、実際に手に取って鳴らしていたのは俺だから……っ」
「はぁ〜ぁ……っ。あんた、俺達みたいな類に甘過ぎだろ……。俺達はあんたの物であり、あんたが所有する武器だから好きに使ってくれて構わねぇが、其奴等は俺達とは些か異なる存在だぞ。完全に手綱を握って操れると思ったら大間違いだぜ」
「ふふっ、そんな事は百も承知さね。……だが、今は眠るよりも、呼ばれるまま、導かれるままに夢以外の何かに触れていたかったんだよ。夢の淵で何度も君の名を呼んだ所為で起こしてしまったのは悪いと思っているけれども」
「……まぁ、夢見が悪い事の
「あやすだなんて……俺の事を赤子か其れに連なる幼子みたく思ってる?」
「どっちみち似たようなもんだろ? 俺達からしてみりゃ、あんたは赤子も同然だ。今更んな事で拗ねんなよ」
「拗ねないよ。子供じゃあるまいし」
「つーか、俺があんたと名を交わして、此れで何度目だっけか? もう何度目かも忘れちまう程回数が多過ぎて分かんねぇ」
「いつも世話掛けてすまなんだね、
「はッ。其れこそ今更過ぎんだろ」
琵琶を腕に抱いていた女が冬の真夜中には相応しくない薄着の格好でクツリ、喉を鳴らして微笑む。其れに、顎を一瞬だけクッ、と上げて相槌を返した
「有難う。お陰様であったかいや」
「そりゃ、んな薄着のまんまでこんな処居りゃ寒いに決まってんだろ。あんた、莫迦なのか?」
「莫迦とは酷いね。まぁ、莫迦なのは認めるけれど」
「結局認めんのかよ……」
「ふふ、だって事実ですもん。俺は偽らないよ。そういう事に労力を割くのは疲れたからね……。素直に有りの儘の自分を曝け出すさ」
男が自分の羽織っていた半纏も脱いで女へと着せる。触れた頬が、指先が、思った以上に冷え切っていたからだ。彼女はただされるがまま、男から与えられる優しさを享受していた。痩せっぽちの薄着の身を隠すように、此れでもかと言う程真っ黒な布地を被せられ、鼻先すら余りまくる襟巻きで埋めた女は擽ったそうに笑みを漏らす。つい先程まで夢に魘され心を漣立てていたのが嘘のようだ。
女の求めに応じて参上
“悪夢よ去るが良い”――そう願って鳴いた音は、どうやら天に届いたようだ。代わりに、愛しの存在が彼女を慰めに抱き締めにやって来た。此れにて我の出番は終い
此処から先は、恋人達だけの世界だ。部外者が水を差すのは野暮と言うものだろう。
執筆日:2024.01.09