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紅蓮の蝶による御手付き(上)



 其れは、時の政府公認で運営を認められた吉原――花街の一角を歩いている最中の事であった。
 店の使いっ走りで荷物を直接手渡しで配達に来た帰り道。同じく使いの者に選ばれた同僚の寄り道に付き合う傍らで、ふと空の色が気になって上を見上げた時だ。ふと、目の先に映った一つの光景に目が留まった。
 其れは、とても美しい美丈夫だった。燃え盛るような紅蓮色の御髪に、鋼色の如し涼しくキリリと澄まされた目元の御仁は、二階の窓辺より、ぼんやり考え事でもしているかのような物憂げな表情をして外の景色を眺められていた。何とも絵になる美しさだと思った。もし、今、己の手に紙と筆に画板が有れば、急ぎ筆を走らせていた事だろう。まぁ、実際のところは、の有名な画家のような絵の才能も持ち得なければ、画力なんてものも持っていなかった故に、網膜に焼き付ける他無かったのだが。
 偶々見上げた先で視界に入れた御仁は、兎に角其れ程にまで美しかったのだ。まるで、その時ばかりは時が止まってしまったかの如く時間を忘れて見惚れてしまった。すると、煙管を吹かせていたその御仁が、ふと眼下へと視線を移し、己の存在を視界に入れる。瞬く間に視線がぴたり真っ直ぐと交わり、互いの存在がその場から浮き彫りとなった。だが、此方は特に意図も無く、ただボォーッと手隙に眺めていたに過ぎない。
 程無くして、寄り道の買い物を終えたのか、己を待たせていた同僚からの声がかけられる。其れに弾かれるように視点を上から下へと下ろして、「はぁい」と言葉短めに返事を返した。使い先で土産にと持たされた反物の入った箱を落とさないようにしっかり持ち直してから、店先から出て来た同僚の後を付いて行くよう、地下足袋を履いた足を動かし始める。
 自身が声をかけるまで己の関心が余所事へと逸れていた事を察したのだろう。横並びへとなったタイミングで、同僚の者はこう切り出してきた。
「私が買い物中、どうにも何かに見惚れていたようだけれど、何に見惚れていたのかしら? 良かったら教えてよ……!」
「何に見惚れていたのかと訊かれたら……蝶に見惚れていた、と言えば良いでしょうか」
「蝶って、あの綺麗な羽を持つ蝶々の事……?」
「そうで御座います。貴女様のお買い物を待っていた間、偶々見上げた先の空にあまりにも美しい蝶が舞っていたものですから、つい見惚れてしまっていたのです。あれは、誠に美しきものでした……っ」
 本当に見ていたものは、人型を模した御仁だったけれど。“蝶”と称して差し支えない相手であったので、訂正の必要は無いだろう。大空を羽ばたく蝶の如く大層美しい有り様であったのは確かだから。
 そうこう考えていたらば、今の返答を受け取った同僚が欲しい物を買えてホクホク顔で再度口を開いた。
「あら。そんなに綺麗だったなら、捕まえて虫籠にでも囲ってしまえば良かったじゃない」
「いえ……あの手合いのものは、人の手などに縛らず囲わず、自由に空を飛ばせている内が華で、自由に舞っている姿こそ美しく見えるものだと思うのです。故に、私はそのままにしておく事を選びました」
「勿体無い。私なら、気に入ったものは手元に置いておきたい主義だから、網でも何でも使える物は使って捕まえて、綺麗な箱にでも入れて毎日観賞するわ」
「ふふっ、貴女らしくて良いと思います。けれど、此ればかりは人それぞれかと。人の好み程、千差万別というものはないですから」
「其れもそうね。こんな事で不毛な言い争いするのも莫迦ばからしいし。そんな事よりも……っ、この後まだ時間に余裕があるのなら、もう少し付き合ってくれない? 丁度帰りの通り道に新しく出来たばかりの甘味処があるの! 最後に其処でお茶でも一服しながら美味しいお菓子でも頂きましょう! 其れくらいの寄り道は許されるでしょう?」
「全く、貴女という御方はいつも寄り道してばっかですねぇ。そんなだから姉様方に怒られるのですよ?」
「だぁって、お店のお使いとは言え、折角せっかくお洒落して来ているんだもの……! 楽しまなきゃ損よ、損! さっ、一つ先の角を曲がればお店はすぐ其処だから! 帰りにお茶の一つや二つしたって許されるわよ! だって、一応お使いは済ませてるんだしね〜っ!」
「もうっ……仕方ない御人ですね。分かりました、最後までお伴致します」
「ふふっ、そうこなくっちゃ……!」
 歳近ではあるものの、己よりもお転婆が過ぎる同僚に付き合って、お使いの帰り道にまた一つ追加で道草を食う羽目になりそうだ。この同僚に付き合うと毎度こうなるのだ。最早何度目かも分からない我が儘に付き合う事幾度目故に、慣れた感じで付き従う。どうせ、この後は自分の勤める店への荷物を運び入れ次第直帰だ。少しくらいお茶を楽しむ余裕はあろう。
 買い物袋を提げた同僚に並ぶようにして歩きながら、くだんの茶屋処まで他愛もない話を交わして裏番街の通りを過ぎ去った。そんな己の背を追い駆けていく視線があるとも知らずに。


 ――視線のぬしは、煙管を吹かせながら、見下ろした通りの先で見たばかりの人物に思い馳せ、口元を弛ませた。そして、開け放った窓辺より差し出した指先から自身の霊力で編んだ式を呼び出し、一頻り掌の上で遊ばせた後に囲いの外へと解き放つ。の者が“蝶”と称した美丈夫の手より解き放たれた美しき一匹の式は、今しがた通りを去って行ったと思しき者を追って飛んで行く。
 男が式を飛ばしたのは、ほんの気紛れの事だった。このところ暇を持て余してばかりだから、せめてもの手隙を埋める何かを得たかった。其れだけの思いである。理由を挙げるとしたなら、恐らくはそんなところ。ただ、一心に真っ直ぐと自身を射貫いてきた視線に興味が湧いただけだ。仮に理由付けするならば、そんなところだ。
「大包平様、ご指名が入りました」
「分かった。すぐに支度を整え、其方へと向かおう」
「すぐ近くで控えておりますので、ご支度が済み次第お声がけください。間もなく、お嬢様をお連れ致します」
「了解した」
「では、また後程」
 不意に、男の居座っていた部屋の戸が開き、三つ指を付いて畏まった様子の童が姿を現し、口を利いた。其れに頷いてやりながら、男は手慣れた手付きでさっさと煙管の火を落とし、片付ける。そして、寛がせていた前身頃をきちんと合わせ、仕事着へと身を通し、部屋を移動していく。
 これから勤めを果たすべき部屋へと向かう道中、男は手遊びにまたとなく顕現させてみせた小さな式達を戯れに身に纏わせ、笑みを浮かべた。
「……願う事なら、あの瞳とまた相見えてみたいものだ……。その為には、他の虫が付かぬようにしてやっておかねばな。ふふっ……お前達には俺の眷属として務めを果たして貰うぞ。そら、行け。あの瞳のぬしの元まで翔んで行くが良い」
 男はそう呟き、指先で遊ばせていた紅き燐火のような式をまた一匹、二匹と解き放った。全ては、自身の望みを叶える為に。
 男は不敵に微笑む。益荒男ますらおと言わしめるに相応しき雄の顔を浮かべて。まこと、花街に輝く一つの華であった。


執筆日:2024.01.21