此処は、訪れる者達が夢を見る場所。一度踏み入れたが最後、視界にチラつく花々の美しさに魅入られて、虜となり、抜け出すのは困難な処。時の政府より公認の下で、花街という一画でのみ許された生業。妓女も妓夫も、果ては付喪の遊郭まで。選り取り見取りに揃い踏みである。そんな一画に店を構えた一つの店に、娘は勤めていた。
娘が勤めるは、当該支部区内の遊郭の中でも取り分け人気を誇る大店の一軒だった。彼女はその裏方役を生業としていた。つまりは、表に出て客の相手をする訳ではなく、基本専門に担当するのは店全体の清掃等である。何故、表に出ないのかというと、単純に接客に向かぬ性格故に裏方に専念しているだけだ。正規雇用ではなく、アルバイトという形式を取っているのも、単なる小遣い稼ぎの副業のつもりだからで。普段は、本業のお勤めとして、時の政府の臨時派遣職員枠として勤務している。ので、本業もほぼ裏方の事務方を生業としているようなものだ。
一週間の内、月・水・金の三度を遊郭の裏方スタッフとして働く彼女は、今日も今日とてシフトをこなす為、汗水垂らしながら働いていた。客入り前の部屋の床を整え、廊下を磨き上げ、埃一つ逃さぬよう清潔さを大事にしつつ、各部屋毎に充てがっているアメニティ等の備品の補充を行う。一通りの掃除が済めば、受付に終了の報告を入れ、客を入れても良しとの合図を送る。勿論、ただの裏方スタッフ故に、遊郭勤務の際は簡易の面布で顔半分を隠している。個を主張する事なく、誰とも分からなくしてしまえば、いざ接客が苦手でも立ち入れ替わりの際にすれ違ったところであまり気にならない。
今日は本業を終えた後のシフト入りだったので、本日のタイムシフトは夜の十八時〜十一時までだ。上がりの時間となるまではしっかりと働く所存である。客が帰り、使用済みとなった部屋の清掃を行う為、現在清掃中の札を掛け、室内を清めていく。
遊郭とは、何もただ男女または同性の者達が性欲を発散する為だけに組んず解れつと
鼻先より上半分を面布で隠した彼女は、手早く清め終わった部屋を後にすべく、部屋の入口に立て掛けていた札を清掃中を示す使用不可の物から使用可の物へ掛け直す。さて、お次は何処の部屋の清掃担当だったか。手持ちの仕事用端末を懐から取り出し、業務連絡用途でしか使わないアプリを立ち上げ、己への業務連絡を確認していると。ふと、通りすがりの常連客より声をかけられた。
「やぁ、今宵も精が出るなぁ」
「おや……貴方様は、常連の三日月様(極個体の方)であらせられますね。どうも、こんばんは。いらっしゃいませ。今宵も、お気に入りのお姉様の処へ通いに?」
「あぁ。修行より帰ってからというもの、出ずっぱりでな。其れ故、昂ぶりし猛りを鎮めに貰いに来たのだ。御主も、相も変わらずマメな仕事ぶりで何よりだ」
「ふふっ、此処は貴方様のような方が来られる場所ですからね。どうぞ、ごゆるりとお過ごしくださいまし」
誰かと思えば、常連客の内の一名たる御方であった。彼女が働く前より店を利用している、古参客の三日月宗近だ。故に、此方に対しても勝手知ったるやという感じの者である。
彼女は、視線を落としていた端末を一度仕舞い、相手へと向き直ると、失礼の無いよう折り目正しく一礼した。其れに朗らかに微笑むと、孫でも相手するかの如し自愛に満ちた目をして再び口を開く。
「ははっ。御主のような愛らしい者であれば、さぞ客が取れるであろうに、勿体無いなぁ」
「私は裏方専門のスタッフで御座います。特段、現状に不満など抱いてはおりませぬ故、お言葉は嬉しく思いますが、今取る形を変えるつもりは御座いません。どうか、ご容赦を」
「ははっ。またもや袖に振られてしまったか。御主も俺に引けを取らぬ頑固さよ。御主が好きで裏方に付いておる事は承知しているが、はて、現状が何時(いつ)まで保たれるのやら……。“御手付き”とやらになってしまっては、御主とて断れまい?」
「貴方様ぐらいですよ。自ら進んで裏方スタッフの者共へ関わろうとするのは。通常、我々裏方の者はあまり表には出ません。故に、正規雇用の姉様方が相手取るようなお客人から指名を受ける事も早々無いものなのですよ」
「成程。確かに、本来であらば、俺達客側の者達と御主等裏方の者達が顔を会わせて言葉を交わす事自体稀な事よな」
「まぁ、貴方様は常連の中でも古参中の古参、且つ、下々である私共にまで気を遣ってくださる太客で御座いますから。異例中の異例という感じでしょうか」
「店内中を掃き、床を清め、使う者達の為に尽くすは裏方の者達だ。御主等の働きなくば、客側も気持ち良く利用は出来まい。そういう意味では、毎度この店へと訪れる度に感謝しておるよ。いつも綺麗に整えてくれて有難うなぁ」
「勿体無きお言葉、痛み入ります」
再度、慇懃にも頭を下げていれば、顔を上げたタイミングでまたもや会話を投げられた。
「其れはそうと……御主も隅に置けぬ者のようだな。知らぬ間に誰ぞから気に入られでもしたか。まぁーきんぐ、とやらをされておるようだなぁ?」
「えっ……“マーキング”、とは……一体何の事で御座いましょう?」
「ほれ、御主の肩から付かず離れず舞っておる
「えっ? 式……?? わっ、本当だ。蝶……? いつの間に引っ付いて来たんでしょう。これ、私の肩から離れなさい……っ。何処から来たのかは知らないけれど、元の場所へお帰り。帰る場所が分からなければ、取り敢えず店の外を目指してお行き。ほら……っ」
いつの間に留まっていたのだろうか。常連客の三日月に指摘されるまで気付かなかった存在に驚きつつ、やんわりと肩から払おうと軽く手で追い払うような仕草を取って、己の肩から離れるよう促した。けれど、燐火のようにゆらゆらと存在を主張していた紅き蝶は、払ってくる掌を躱して肩へと居座り続ける。意地でも退かぬ気のようだ。
払っても払っても離れてくれない蝶に、早くも困り果てた彼女は、面布の下で困った顔を貼り付けて零す。
「どうしましょう……。幾ら払ったとしても全く離れてくれる気配が御座いません。まだ今日はシフトが残っておりますのに……っ」
「ふむ。どうやら、その式は余程御主から離れたくないようだ。一見、見たところ、害は無さそうである故、一先ずは安心しても良かろう」
「ホッ……。害が無いのであれば、そう心配する必要は御座いませんね。ご指摘くださり有難う御座います。それでは、私は業務が残っております故、此れにて失礼させて頂きます」
「うむ、とくと励むが良い」
そう告げて別れた後、暫しその場に残り佇む常連の三日月は、「ふむ……」と一つ吐息を漏らして去って行った彼女の背を見つめるように考え込んだ。
「
自身も払ってやるのを手伝ってやろうと手を伸ばした途端、明らかに翅を荒々しくバタつかせ、
――結局、あの後も作業の合間に何度も振り払ってみせたのだが、全く離れる様子は無く、寧ろより肩にしがみついて離れなくなってしまった小さな存在に溜め息を吐き出した。
「何で頑なに離れてくれないの、お前…………ッ」
嘆きを落とすも知らん顔。時折気紛れにパタパタと翅を動かして近くを浮遊するだけ。何故己なぞに付き纏うのか、最早考えても詮無き事と捉え、早々に諦めてしまった。
シフト勤務も終え、住まいにしている社宅の寮まで移動しても付いてくるように肩から離れずのまま。こうなったら、視界の邪魔にならない分には装飾品の一部か何かのように思い込む事にしよう。諦観を抱くままに再度溜め息を吐き出して、彼女は呟いた。
「全く……自宅にまで付いてくるだなんて、お前も物好きだね。飽きたらすぐに自分の住処へ帰るんだよ。常連客の三日月様が
紅の蝶は、パタリ、翅を動かし、肩から頭へと移動して彼女と一緒に住まいの寮の中まで入っていく。そして、彼女が床に就いて寝るが寝るまでも離れず付きっきりで側に付いているのだった。
同刻、例の娘へと式を飛ばした男は、己の元へ舞い戻ってきた別の式を指先に止まらせ、其れ等が見聞きした情報の報告を聞いていた。彼女に付けている物とは別に飛ばした式等は、所謂密偵役を担っていたのだ。自分が目を付けた相手に近付く輩が居るか否か、其れを見定める為の監視役でもあった。
また一匹、男の手へと舞い戻ってきた蝶がパタリと翅を動かし、報告を告げる。言葉は無い其れにピクリと米神を反応させた男は、途端不機嫌そうに顔を顰めてどろりと醜い嫉妬心を露わにした。
「おのれ、三日月宗近め……っ。俺の獲物に手を出そうなど、片腹痛いわ! 天下五剣がどうしたと言うのだ! 俺は、池田輝政に見出された、美の結晶だぞ!! 俺こそが真に美しい刀なのだ……!! 貴様なぞに横取りさせるものかァ!! ええいっ、今に目に物を見せてやる……!! 行け、お前達ッ!! 俺の獲物に指一本たりとも触れさせるな!!」
直後、男は憤慨した様子で舞い戻った式を再び解き放つ。発破を掛けられた式達は慌てた様子でパタパタと忙しなく翅を動かしてマークした標的の元まで飛んで行く。
怒鳴り散らした男は、肩を怒らせたまま息を
「そういえば、マークしたあの瞳の
男が喧しくも大音量で高笑いを上げた直後、来客の来訪を告げる「ピンポーンッ♪」という軽快なチャイムが鳴った。絶妙なタイミングの其れに訝しみつつも、客を待たせるという事を嫌う
男がドアを開けて出れば、来訪者は男の返事の言葉を遮って開口一番に口を開いて言った。
「こんな時間にd、」
「声が
怒涛の勢いで苦情を訴えられた男は、分かりやすくバツの悪い顔をして謝罪した。
「す、すまんッ……次からは善処しよう。お疲れのところ睡眠を妨げるような真似をしてしまって悪かった。後日、改めて菓子折りを持って行こう……っ」
「要らん世話だ。用件は其れだけなんでな。じゃあな。お前も明日仕事なら早く寝ろ」
「あ、あぁ……っ。本当にすまなかった……」
バタンッ、と勢い良く閉められたドアに何とも言い難い気持ちを抱えて部屋へと戻ろうとしていた手前で、うっかりロックを掛けるのを忘れていたと振り向いたところ。再びガチャリッと勢い良く開いたドアに、その先を見遣ると、今しがた苦情を訴えてきた相手が立っていた。
徹夜で連勤していたと言っていたのは間違いない――という風体なくらいにはやばい感じで寝不足と疲労困憊の
「迷惑ついでに教えとくが……俺達刀剣男士が個刃的な私情で力を行使する事は規約違反だからな。破ったら、懲戒処分は免れないぜ。まぁ、其れを抜きにしても、色恋ネタには興味がある。このところ仕事漬けの日々で浮ついた話題はからっきしだったからなぁ……端的に述べて潤い不足だ。刀さにネタを提供してくれるってんなら、協力しない事もないが、どうする? ぶっちゃけ断られても勝手に協力するからな。鶴さん今ハチャメチャに刀さに成分が足りないんだよ。一ミリでも良いから吸わせてくださいお願いします……ッ」
「と、唐突な切実な訴えに驚きを隠せんが……っ。そういえば、お前は情報科学処理課所属の個体だったな。そういう意味では、政府内に関しての情報には詳しいんだったか」
「そうだぞ。俺は情報通なお鶴さんだ。だから、刀さに成分を吸わせてくれるというなら労力は惜しまん。何でも聞いちゃうぞ」
「最初と言っている事が矛盾しとるが、其れは良いのか……?」
「良いんだよ、この際細かいこたぁ。職権乱用と言われようと何のその。刀さに吸えるなら鶴さん死んでも頑張るぜ」
「うむ、取り敢えずお前という刀が酷く消耗している事は分かったから早く寝ろ。五月蠅くしてしまった事は謝るから……っ」
「寝落ちる前にちょびっとだけでも刀さに成分吸いたい……!!」
「良いから自分の部屋へ戻って寝ろ」
面倒臭い絡まれ方をしてきたものだ。咄嗟に面倒臭い気配を察知して冷たくドアを閉めてしまったが、今にも死にそうな顔を貼り付けておいてまだ動く気かと思わなくもなかったので、たぶん今の自分の行動は間違っていないと思われる。一先ず、盛大な溜め息を吐き出して、今度こそきちんとロックを掛けてから部屋に戻る。
それから、シャワーで軽く汗を流して、髪を乾かし、寝間着を着て布団へと入った。隣の鶴丸国永に言われた通り、明日も仕事が入っている。ならば、夜更かしなどせず早く寝付くに限る。
紅蓮の頭を枕へと擦り付けて、目蓋の裏に先日バイト先の窓辺から見た例の瞳の
(早く、お前を我がものに……)
宵は更け、やがて朝となり、朝告げ鳥が時を告げる。