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希死念慮の時代



 其れは、偶々の偶然が重なった時の事だった。
 早くに一日のノルマをこなし終え、残りの時間は暇な自由時間で。特別遣りたい事も思い浮かばず、何となく適当に飲み物が飲みたくなって、厨まで移動した。そしたら、新しく梅酒を作る為の仕込みをしていた日向正宗と会った。
「あっ、主……! こんにちは!」
「やぁ。毎度精が出るね日向君。其れ、今度新しく漬ける梅酒用の梅……?」
「そうだよ! 前回作ったのも上手く行ったから、次のも美味しく作れたら良いなと思いつつ仕込みをしていたところなんだ。もし上手く出来たら、主にもお裾分けするね!」
「おー、楽しみにしとくね」
 特に意味は無いであろう会話を投げられたので、其れに当たり障り無い感じで応対し、言葉を返す。
 日常会話に潜む、言葉の駆け引きというものは、地味に気を遣うから苦手だ。だけれども、全く駄目という訳でもなく、完全に嫌いでもない。時にはくだらない、中身も無い他愛無い話に花を咲かせる事だってある。でも、その根底には常に苦手意識が蔓延っていた。
 会話は、相手を知る為に対話するという行為だ。生きる上で必要な事だが、会話をする事にすら嫌気が差す事もある人間からすれば、必要以上の言葉を発する事すら億劫になる事もある。だから、話す行為そのものに苦手意識はあれども、嫌いという程までは行かず、程々の感覚で居た。
 所謂、自分から何かを発するのは得意ではないけれど、相手から何かを振られれば答えられなくもない感じだ。しかし、この場合、下手に相手から執拗に言葉数の多さで殴られると途端に辟易してしまう。故の、程々さ加減を好む。
 そういう意味では、自分の元から顕現した刀達は皆主たる審神者の特性を理解し、尊重した上で歩み寄ってくれるので気楽で良い。変に取り繕わなくて良くなるから、肩身が狭くなくて居心地が好い。其れでも、天邪鬼な性格で本当に言いたい言葉や気持ちは建前の裏に隠してしまいがちだけれど。

 ――飲みたい飲み物を用意する為に、冷蔵庫に仕舞ってあった牛乳パックを取り出し、中身を必要な分だけマグカップへと注ぎ入れる。其れを、レンジの中へと突っ込んで適温となるまで温まるのを待つ。その間に温め終えた牛乳に入れる粉末を仕舞った戸棚を漁り、ついでに混ぜる為のティースプーンも調達する。
 レンジがチンと鳴ったら中から取り出して、ジプロックタイプの開け口を開けて大匙三杯程掬って温めた牛乳へと溶かしていく。上手く溶かすコツは、温めた牛乳が冷めない内に綺麗に混ぜ切る事だ。混ぜ入れた粉末と牛乳が上手く混ざり切ったら完成である。
 梅を仕込む傍らからかぐわしい甘い匂いがしてきたからだろう。すんすんと鼻先を鳴らした日向が、作業の手を止めてくるりと首だけ此方を振り返った。そして、審神者の手元を見て、夜空の星を散りばめたような宝石みたいなお目々をぱぁっと明るくして笑う。
「カカオの良い匂い……! この甘い匂いは、ココアだね?」
「正解」
「前は粉っぽいのが苦手だって言って飲まなかったのにね」
「美味しいヤツに出会って、其れから好きになったんだよ。美味しい物は何だって美味いからね」
「同じ路線で行くと……本当はこし餡派だったけど、餡子物を食べたくって、皮が口に残るのが苦手で嫌いだった粒餡のお菓子も食べる内に平気になった――っていう話とおんなじだね! この話については、小豆長光が凄く嬉しそうに喜んでたなぁ」
「要は物の考え方。意識の仕方次第で物事の捉え方は変わるもんよ」
 温めた牛乳の仄かな甘みも引き立って、ふわりと柔らかな香りが鼻腔を擽った。ココアの成分が沈殿せぬよう、しっかりと掻き混ぜながらズズリッと熱々の液体を啜る。猫舌故に、なかなか一気にグビリとは行けないけれども、ちびちびとカカオと牛乳の味わいを楽しみながらゆっくり時間を掛けて飲むのも好きだ。
 周りを気にせず、湯気立つカップにふうふうと息を吹き掛けつつ飲んでいたらば、ふと作業の手を再開させていた彼が再び口を開いてきた。
「そういえば、今更な話になるけれど……主って、今もまだ偶に死にたいという感情に囚われたりする事はあるの?」
「マジで今更な話やけども……あるよ。其れもしょっちゅう不定期でな。其れがどないしたん?」
「いや、僕と主とじゃ、生きる事や死ぬ事への考え方や価値観が異なるから不思議だなぁ〜って。ほら、僕達戦国の世で生きてきた物にとって、死というものは常に隣り合わせなものだったから……何方かと言うと、生きる事に精一杯で、止むを得ない事情を除けば、自ら命を絶とうだなんて考えもしなかったよ」
「そりゃ、君達の時代じゃ当たり前だろうさな。今と違って、生きていくだけでも苦労の連続で、“何としてでも生き抜いてやる……ッ!”――ていう概念が強かっただろうからね。其れを思うと、今の生と死問題の扱いの軽さ加減にゃ重みも何も違ってくるだろうよ」
「えっと、言ってしまえば、主の生きる時代では“希死念慮”の念が強い……という事になるのかな?」
「まぁ、ホンマにざっくり言うとそうなるんかな。命の捉え方が昔よりも軽くなった分、扱い手によって考え方も変わるし、扱いの仕方にも個人差が生まれる。その差は千差万別という、人口が存在する分差はあるんじゃないかと思ってるよ。ちな、厳密に言うと俺のは“希死念慮”じゃなくて“自殺念慮”の方だけどね」
「どう意味が違うの……?」
「“希死念慮”とは、“死にたい”と強く思いつつ、具体的な方法までは考えていない状態の言葉らしい。対して、“自殺念慮”とは、この世から去る為の具体的な方法を考えている、もしくは準備を始めた、または準備が完了している状態を指す言葉らしい。“希死念慮”と比べると、“自殺念慮”は更に危険性が高いとも言われてんな。まさしく俺の事を指す言葉だわにゃあ。何時いつ何方に転ぶかも分からん危うさを持ってるという点では。……まぁ、ぶっちゃけどっちも含むんだろうし、“希死念慮”を抱く時点で自殺する可能性有りという危険因子リスクファクター扱いになるらしいけど」
 喋っている僅かな短い隙間時間でさえ沈殿したココアを再びティースプーンで掻き混ぜて、カップに口を付け茶色の甘くて栄養価の高い液体で喉を潤す。ココア独特のザラザラとした粉っぽさが舌に残るけども、其れも慣れれば楽しめる要素になる。
 ズズリッ、また一口ココアを口に含んで、ふわり口の中に広がるカカオの風味を楽しむ。ホットチョコレート程甘ったるくはなく、飽きの来ない塩梅加減。凡そ、会話の重たさなど微塵も感じない甘さだった。
 そんな甘さに舌鼓を打ちながら、梅の仕込みを続ける彼の作業をダイニングテーブル付きの椅子に腰掛け眺めていたらば、梅のヘタを取り除く作業をしていた彼が徐ろに口を開く。
「そっかぁ……。それなら、また何処かで主は死ぬ事を考えちゃうのかもしれないんだね」
「まぁ、その意識が抜け切らない内はな。精神が安定してる時は心配要らんよ。けども、情緒不安定期に入っちまうと、忽ち精神病みがちになるから、そんときゃ注意が必要と言ったところかね」
「案外、他人事みたいに言うんだね」
「敢えて自分を客観的に捉えた上での発言てやつかな。あまり褒められたものじゃないがね。故に、口にする相手は選ぶようにしてる」
「其れで行くと……僕は話すに相応する相手として見込まれた、という事かな? だったら、嬉しいなぁ」
「おもっくそ重てぇ話してんのに嬉しいの?」
「主とのお話なら、何だって嬉しいさ。もし、この先のまだ主が“死にたい”という気持ちに駆られたとしても、今話を聞いて知っていたら、対処出来るかもしれないからね。必要とあらば、何処か遠くへ逃がしてあげる事も出来るよ。勿論、其れを主が望んだ時は、だけどもねっ」
 一通りヘタを取り除く作業が終わったのだろう。ころころと丸く転がる梅の実を氷砂糖と一緒に容器へと詰め始めていく。穏やかな顔付きで囁かれる言葉は、何とも優しいものであった。
「僕は、残念ながらこの本丸へは後の方にやって来た刀だけども、修行も終えて自分という存在を確立させた今なら分かるよ。僕は、出来る事なら主――君の事を生かしたい。例え、其れを君が望まずとも……。生きていれさえすれば、いつか必ず報われる時は来る。だから、諦めず命を繋いでいて欲しい。……此れは、僕の独り善がりな我が儘に過ぎないけれども、其れでも、僕は君を生かしたいんだ。君が一人孤独に生きる事が辛いと言うのなら、僕は何処まででもお伴するよ。だって、君は僕の大切な主だもの。大丈夫、僕を信じて。今度こそ、屹度きっと上手くやってみせるよ」
 力強い言葉だった。いっそ、言霊すら乗っていたくらいには。
 星の瞬く宝石みたいな瞳を輝かせる懐刀のそんな言葉を、容易に鵜呑みに出来る程出来ちゃいない愚か者の審神者は、天邪鬼を発揮して、曖昧に濁す事に決めた。一先ずは、今は。
「…………もし、その時が来たなら、の話だがね」
「うんっ、勿論分かっているさ! ただ、伝えておきたい事は今の内に伝えておこうと思っただけだよ。他意はない」
「そうかい。何とも逞しく育ってくれましたな、ウチの御刀様共は」
「ふふふっ、そりゃあ主の刀だもの。強くもなるさ」
 可憐な美少年の見た目をした美童だが、その実は元の主にの有名な戦国武将を持つ、審神者が所持し短刀の一振りである。
 今でこそ緩やかに梅などを弄っているが、本業は歴史修正主義者なる敵対勢力が送り込む時間遡行軍を戦で討ち取る鋭き刃だ。その刃の冴えは、修行を経て尚鋭さを増している。そんな者等を審神者は己の配下に臣下として置く。そして、戦の指揮を執り、彼等を使役して采配を行う。
 謂わば、審神者と刀剣男士の関係性は主従であり、一心同体にも等しき間柄なのだ。将が折れれば刀も折れ、存在出来なくなる。だからこそ、安易に命を散らしてはならぬ立場にあるのだ。
「出来た……! 此れで一先ず梅仕事は完了だね!」
「おぉ、お疲れさん。君もココア飲むかい? 飲むなら、作ってやらん事もないが」
「わぁっ、やった! じゃあ、此れを片付けてる間にお願いしても良いかな?」
「ちなみに、お好みは? 俺はホットミルクで作ったけども、お湯でも普通に作って飲めるからね。好きな方を選びなせぇや」
「じゃあ……主と一緒でホットミルクの方で!」
「あいよ。量は適当で構わんね?」
「うん、有難う主!」
 そもが、この審神者は、元より彼等によって生かされているような命だ。彼等を失えば、立処に呆気なく儚く逝ってしまうであろう程に脆い生き物だ。其れでも戦場という場所に生を見出し、生きている。彼等を支えに今も尚ズルズルと生を貪っている。
「ほれ、出来たぞ。よく掻き混ぜて飲みな」
「ふふっ、とても美味しそうな匂いがする……! 頂きます!」
「はいよ」
 希死念慮の時代に生きるが故に、死ぬ事よりも生き続けていく事の方が余っ程難しい時代となってしまったけれども、どんなに生きづらい時代であろうとも、この審神者は生き続けていく。自らが心許した本丸の刀達が居る限りは。
「あっ、そうだ。梅酒用の氷砂糖がちょっとだけ余っちゃったから、梅仕事を見守ってくれた上にココアまで淹れてくれた御礼に分けてあげるね! ハイ、少しの量だけど、どうぞ」
「氷砂糖かぁ。宝石や鉱石の欠片みたいで綺麗だよね」
「砂糖の塊だから、食べると物凄く甘いけれどね」
「ふふっ。なら、此れは是非とも珈琲のお供にでもしようかね。大した事はしていないけれども、まぁ貰える物は貰っておくとするよ。有難う日向君」
「えへへっ。氷砂糖を分けた事は僕と二人だけの秘密だよ……!」
 そう言って美しく笑った彼は、甘やかな砂糖の塊の如く甘い顔をして密事を交わすのであった。


執筆日:2024.01.25
公開日:2024.01.28