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正宗らしく在る刀



 何となく。そう、何となくだ。全て吐き切ってしまおうと思った。
 肺腑に吸い込んでいた空気を、胸の内に溜まった淀みを吐き出すように。ふぅーっと、意識的に全て吐き切ってしまおう。
 人間、意識しないと呼吸は浅くなりがちだ。だから、時折、意識的に行ってやらないと芯の部分が駄目になる気がした。故の、吐き切る行為。意識的に行う、常より長い息の吐き出し方。
 溜まっていた分を全て吐き切って新たな新鮮な空気を取り込むと、胸の内に溜まってしまった淀みが浄化されていくような感覚を覚えた。まぁ、所詮こんなものは気休めに過ぎないのだけれど。


 ――悪い夢が顔を覗かせた途端、パチンッと弾けた睡魔。同時に、折り重なった布団の中でバチリと目を開く。悪い夢を見そうだと判断した本能が無理矢理意識的に眠りから覚めさせたような感覚だった。幸い、悪い夢が顔を覗かせた瞬間、パチンッと弾けたから変に引き摺らずに済んだ。けれど、夢見が悪かった時の独特の居心地の悪さは残った。比較的軽度に済んだから、いつものよりは物凄くマシな方だけれども。
 まだ睡眠が不足していると訴える体には申し訳ないが、寝覚めの悪さから一度布団から抜け出て厠に立つ。そして、部屋へと戻る手前で、枕元に預かっていた近侍の刀本体の持ち主へと礼を述べる為に、近侍部屋に顔を出した。すると、此方が部屋を起き出た気配を察していたのだろう、美童の見た目をした短刀がちょこんと腰を据えて佇んでいた。
「あら。主様、もう起きられてしまったの……?」
「一瞬の事だが……悪い夢が顔を覗かせかけたんでね。其れで目が覚めたんだ。幸い、すぐに目が覚めたから気持ちの部分としては軽く済んでいるが……夢見が悪いのは、何度経験してもあまり気持ちの良いもんじゃないね」
「わたくしを御守りに置いて寝たにも関わらず夢見を悪くするだなんて、主様は余っ程ですのね。其れだけ疲れが溜まっているという証拠でもありますけれど」
「でも、君が斬ってくれたから、俺はすぐに夢から覚める事が出来たんでしょう……?」
「ふふふっ。勿論、当然の事ですわ。貴女がわたくしを側に置いてくれた限りは、きちんと役目を果たしませんと。貴女はわたくしの大事な主様ですもの……主様を脅かすものは、何であろうと赦しませんわ」
 赤い薔薇が似合う正宗の短刀である美童は、蠱惑の笑みを浮かべて微笑った。
 刀剣男士として顕現したからには一振りとして女子おなごは含まれぬと分かり切っているのに、見た目があまりにも中性的且つ端正な顔付きで、おまけに声音も他の者達に比べて一等高いから、勘違いを起こしてしまいそうだ。ただでさえ、何処ぞの御令嬢のような気品に満ち溢れている。其れでいて、深窓の刀としての振る舞いが尚一層性別不問に見せる。まぁ、刀というからには武器であり、器物。物に性別の概念を押し付ける事の方が間違っているのだが。
 美しく微笑う、赤と黒の装束を身に纏う美童が囁くように口を開く。
「ご安心くださいませ。主様の安眠を守るのも、近侍であるわたくしの務め……。主様の安眠を妨げる悪い夢は、わたくしが斬って差し上げますわ。ですから、もう少しごゆるりと横になられていてくださいまし」
「……ふふっ、流石は正宗の短刀。斬れ味が鋭いね。お陰で、いつもより気分が良いよ」
「其れは何よりで御座いますわ」
 どんな刀であろうと、己の刀として降りた神様達は皆一様に例外無く審神者に尽くす。其れが、眠りの番であろうと、刀は刀。夢だろうと忽ち斬ってしまえるのだ。深窓の刀とて、其れは同じ。刃の斬れ味は、正宗を謳うに相応しく、鋭い。己の刀に変わりはない。改めて、其れを認識した。
 悪い夢に顔を覗かれた割にはマシな顔付きをしている審神者に向かって、けれど、その心中を慮って言葉を選び取って口にする。
「秘蔵の刀として長らく籠もっておりましたので、俗世には疎いかもしれませんが、悪い夢を斬る事くらいわたくしにだって出来ますわ。だって、今やわたくしも主様の刀の一振りですもの。正宗の斬れ味は如何でした……?」
「文句の付け様も無い程に鋭く冴えたものだと思ったよ」
「ふふふっ、其れは僥倖ですわ。主様は口下手な方ですから、あまり言葉数は多くないですけれど、必要と思った事はきちんと口に出してくださるから好き。寂しいなら寂しいと言ってくださるし、仮に口で言わなくとも行動で示してくださるから分かりやすいですもの」
「俺は、こう見えて存外寂しがり屋だからねぇ」
「素直は美点です事よ? 特に、主様みたいな本音を隠したがりな御方は。寂しいなら寂しいと、怖いなら怖いと、素直に口にする事は何も悪い事ではありませんわ。仮に、其れを咎める者が俗世に居ようとも、此処に居るわたくし達は誰一人として咎めません。神は縋る者にこそ祝福を与えるのです」
 彼を教祖か聖母に例えるならば、彼が高説垂れる今この時は布教の時間となるのだろう。宗教じみた空気が流れたが、彼等は真の神に名を連ねた者共故に、言葉の力は偉大となる。そも、彼等は人の心より励起された者共だ。言葉がもたらす力は一等強さを増すであろう。
「縋るものがあるならば、手を差し出すのが名族たる者の役目に御座います。ですから、どうか、わたくしを頼ってくださいまし。わたくしは、正宗の短刀であり、主様の短刀なのですから」
 華奢な手が此方に伸びてきて、審神者の手を掬い取る。そして、両手で乞い願うように包み握られた指先に祝福の口付けが落とされた。
「良い夢を、主様」
 此れ程までの祝福を受けたのだ。余程力有る者の手が及ばない限り、安眠出来る事は間違いなしだろう。
 深窓の刀は見目麗しいままに美しく美しく微笑みを湛えて、ルビーのように赤きまなこを妖しく輝かせて見つめるのだった。


執筆日:2024.02.01
公開日:2024.02.02