切っ掛けは些細な事だった。其れがトリガーとなって、我慢し続けていた筈の器が決壊した。その結果、心が限界を訴えて、涙腺が馬鹿になったみたいに涙が沢山溢れて暫く止まらなかった。
どれだけ泣いた後だろうか。時間にして数時間は経過している。泣き過ぎて脳の奥がぼんやりとしてしまうくらいには水分を浪費してしまったのだろう。こんなに泣いたのは
薄暗い部屋の中、敷きっ放しの布団の上に丸く蹲って、ただ項垂れていた。
ふと、離れの間へと近付く何者かの気配を感じて、隙間程だけ開け放ったままの襖の向こう側を見遣った。
隣室は、審神者としての仕事部屋となっている事から執務室と称して呼んでいたが、そちらの入口前に誰かが訪ねてきたのか障子越しに影が差している事に気付く。程無くして、なるべく音を立てぬようにと気遣われた障子戸を横に滑らす控えめな音が聞こえてきた。
次いで、敢えて気配を消さずにやって来たのだろう者が、隙間程だけ開け放ったままの襖前まで来て口を開く。
「差し支えねぇんだったら、入るけど……良いかにゃ?」
言葉短めに入室を問うてきた声音は、此方の様子を察してか、気遣わしげに和らげられた優しいものだった。その小さな声に促された訳ではなかったが、元々相手の方から会いに来られた場合は拒む気も無かったので、端的に許す言葉を告げる。
「……どうぞ」
すると、思っていたよりも小さく掠れた可愛くないぶすくれた低い声で吐き出されてしまって、自分で発した癖に内心で驚いてしまった。何だ、今の返事の仕方は。仮にも己の部下に対して失礼ではなかろうか。というか、わざわざ気遣って様子を見に来てくれたのだろう相手に向かって、そんな態度を返すだなんてあんまりではないか。
早速自己嫌悪に陥っていると、自分が蹲るすぐ側の傍らに座した彼がその手に抱えた小さな物を此方へ差し出すように寄越してきた。
「主、猫の類好きだったろ? 疲れ切って気力無くしたり元気ねぇ時は、ふわふわした癒しがあった方が気持ちも楽になるし落ち着くって、腐れ縁の長義の奴から聞いてさ。んで、火車切の奴に事情話して、ちょっとの間貸してもらえるよう頼んできた。気分落ち着くまで、此奴抱いてろ……にゃ」
そう言って寄越されたのは、火車切のお供とも言える小さな命を宿した猫のような姿をした生き物だった。
火車切曰く、“ふわふわ”なんだそうだ。ふわふわした見た目の生き物だから、“ふわふわ”。実際は、火車切という刀が斬ったとされる地獄の使者たる化け猫の“火車”の化身なのだろうが。今は、その話はさておくとして。
わざわざ本丸にやって来たばかりの新刃の力を借りてまで慰めに来てくれた彼の気持ちを無碍にする事も出来まい。
「……有難う」
一先ず、か細い声ながらにも言葉短めに感謝の念を伝えて、彼の手ずより受け取った。すると、手の内に触れた生きた優しい温かみを感じて、思わず感じ入るような声が漏れた。
「あったかい……」
両手で包み込むようにして抱えるふわふわは、自分が今すべき役割を分かっているかのように擦り寄ってきた。その温かさが無性に気持ちを高ぶらせて、つい涙が込み上がってきて、ぽたりと一粒小さな滴をふわふわの顔に伝い落としてしまった。
突然降ってきた其れに驚いたふわふわは、きゅっと両目を瞑ってふるふると身を震わせて顔に付いた水滴を弾き飛ばす。其れでも尚、一度許した涙が次々と溢れ出し、またとなく一粒・二粒と続け様に降ってきてふわふわの顔を濡らした。
濡れるのは嫌だったのか、理不尽に降ってくる其れを躱そうと掌から飛んで肩へと移動してきたふわふわは、審神者の頬を伝い落ちる涙にちろちろと小さな赤い舌を這わせて舐め取ろうとする。彼なりの慰めのつもりだろうか。まるで、「それ以上泣かないで」と言わんばかりの気遣いに、もっと涙が溢れてきて、情けなさから泣き顔を曝すのが嫌で、遂には顔を覆い隠す羽目になった。だけれど、止まらぬ涙に指の隙間からは絶えず涙の滴が溢れて伝い落ちていく。其れを、小さく温かな温度をした舌が舐め取ろうと必死にちろちろと手の甲の辺りを這う。
その間、ふわふわを連れてきた南泉一文字は何も言わず、ただ黙ってその場に留まり寄り添った。
暫くして、涙も引いてきた辺りで、小さな身ながらも健気にも慰めてくれようとした存在に感謝するべく、肩に移動していたふわふわを膝の上へと下ろして頭を撫ぜた。
「気遣ってくれて有難う……濡れるの嫌だっただろうに、涙で顔濡らしちゃって御免ね。泣く気は無かったんだけど……今、何でか涙腺馬鹿になっちゃっててさ。本当御免ね、ふわふわ君」
詫びにもならないであろう言葉と共に感謝の念を伝えれば、意図は伝わったのか、「気にするな」と言わんばかりにふすんっ、と一つ鼻息を
こんな小さな命でも懸命に生きているのだ。火車切という名の刀剣男士と共に降ろされた、小さいけれど立派な力を持つふわふわ。その本性は恐らく、地獄の使者たる火車そのものなのだろう。今は、火車切のお供としてくっついてやって来た存在だけれど。
火車切自身も、
自分がしっかりせねば、本丸は立ち行かない。審神者たる者、
そうして、顔を上げた時、今まで口を噤んで空気を薄くしていた南泉が身を寄せてきた事に気付き、そちらへ視線を投げる。すると、不意に彼の顔が思ったよりも間近に迫っていた事に驚くと同時に、コツリ、と彼の額とがぶつかった。どうして、と問う間もなく、瞬き一つ零すだけ動けずにいれば、そのままの状態で目の前の金色の双眸が此方をひたと見つめたまま徐ろに口を開く。
「酷く落ち込んでる今の主に、“しっかりしろ”って言うのは酷だから、敢えて別の言葉を選んで言わせてもらうが…………偶には、其処までしんどくなる前に吐き出しちまえにゃ。もっと俺達の事頼ってくれても良いんだぜ? じゃねぇーと、
「……うん。有難う、にゃん泉君」
「次は、しんどくなる前に誰かしらを頼れよ。俺でも、此奴でも良いから。……あんたの悲しんで泣いてる姿とか、あんま見たくねぇし。見てっと、俺も悲しくなってきちまうからよぉ。だから、泣きそうになっちまう前に呼べにゃ。俺なら、まだ猫に近いから……少しはマシ、だろ?」
思いもよらぬ言葉を貰って、嬉しく思うのと同時に可笑しさを覚えて、ふと小さく笑いが漏れた。すれば、目の前の顔がフッと和らいで言う。
「おら。泣きべそかくよか、主はそうやって笑ってる方が余っ程似合ってら。安心しな、あんたが泣いてた事は一部の奴等だけの内緒にしといてやっから。じゃねーと、他の奴等が騒ぎ立てて面倒な事になっちまうだろうし、あんたも其れは煩わしくて望んでねぇだろ? どうしても辛ぇ時はしょうがねぇけど、そうじゃねぇ時はなるだけ笑ってろにゃ。俺は、泣き顔よりも笑ってる顔のが好きだからよ。勿論、無理にそうしろって言ってんじゃねーからにゃ。笑ったり泣いたりすんのも、あんたの好きにしたら良い」
「ん……あぃがとね」
「良いって事よ」
その一言で終わりかと思っていれば、南泉はそのまま先程のふわふわのようにすりり、と頭を擦り寄せてきて、甘えの姿勢を見せた。どうやら構って欲しいようだ。
ごつん、とぶつかってくる頭の重みは、力加減されているので然程重くはないが、地味に鈍い痛みを与えてくる。ついでに、薄い色素の柔らかな猫っ毛の金髪が頬に当たってこそばゆい。
仕方なしにその頭へと手を伸ばしてゆるゆると撫ぜた。
片手にはふわふわが、もう片手には南泉が。猫好きには堪らない両手に花の状態であった。
泣き過ぎた所為で少しばかり頭が馬鹿になったのだろうか。もうこの際何でも良いやと思えた矢先に、二つの頭を抱えて寝転べば、何方ともなく擦り寄り甘えてきた。こんなに可愛くて愛しい存在に甘えられて馬鹿にならない者が、果たして居るのだろうか。
結局、その後はふわふわと南泉という一匹と一振りと仲良くくっついて午睡に微睡んだのだった。
目覚めを促したのは、ふわふわを回収すべく訪ねに来た火車切と、南泉を呼びに来た山姥切長義の起床を促す声であった。あったかい体温が側にあったお陰様で、短い睡眠ながらもとても素晴らしく快眠であった事は、現場を目撃した者達だけの知る秘密だ。
泣き過ぎて頭痛を起こした翌日。
審神者の私室前の縁側でごろりと横になって伸びる南泉が居た。季節柄、朝晩の冷え込みは激しいが、昼間は日が出ている限りまだ暖かい方なので、日当たりの良い場所は昼寝に最適な場所なんだそう。其れ故、ここ最近はよく見かけるようになった光景である。
「最近はよく懐いてくれるね、にゃん泉君」
「んぁ……?」
「前は、もうちょい警戒心剥き出しにして、今みたいな距離までは近寄ってこなかったでしょ? でも、今はこんなにも距離を許してくれてる。俺としては嬉しいけども……何で? どういった心境の変化あっての事だい?」
「あ? ……んなモン、敢えて言わずとも分かってんだろーがよ」
「分かんないから不思議だなぁ〜と思って訊いてんだけどにゃあ」
「あ゙ー……ったく、面倒臭ぇ奴だにゃ」
寝転んでいたところの傍らに屈み込んで、真上から寝顔を覗き込むようにしていたからだろうか。徐ろにのそりと半身起こした南泉の鼻先が、ちょんっ、と審神者の鼻先と触れ合った。
猫みたいな金色の双眸は、先日同様の目をして此方を見つめてきている。其れを至近距離で受け止めつつ、呆然と感想を垂れた。
「君、そんな事するような子だったっけ……?」
「俺が修行に行くのを許可したのはあんたで、極めて帰ってきた俺を懐に許したのも、主であるあんただぜ」
「……え、今のこの状態もそういうアレからのアピールだったん……??」
「俺を猫扱いすんなら、示された態度で懐き度くらい察しろよ……にゃ」
猫の鼻と鼻でキスをする、所謂“鼻チュー”行為は、親愛の証だ。まぁ、人間で言うところの挨拶みたいなものだろうが。其れを、人の身を器に戴く刀剣男士の彼がするのか。其れは、どうなんだろうか。勘違いしてしまわないだろうか。彼に、思ったよりも好かれていた……だなんて。
そんな事を平然を装って考え込んでいると、再び鼻先を寄せてきた南泉が言う。
「あんましそうやって無防備曝してっと、喰っちまうぞ」
「えっ……?」
冗談か本気か分からない事を言われて混乱している内に、控えめな力で鼻先へと牙を立てられた。正確に言えば、がじり、と鼻先を噛み付かれたのである。勿論、力加減のされている甘噛程度ではあったが。驚きを与えられるには十分なものだった。
今度、猫の甘え方は何通りあるのか、本で調べておこうと思う。果たして、彼を猫扱いで済まして良いのかは定かではないが。彼自身が其れを許してくれている内は、今まで通りの接し方で居よう。その方が、此方としても遣りやすいだろうから。
取り敢えず、今しがたの鼻先を触れ合わせてきた行為を“甘えられた”との認識で解釈する事にし、猫可愛がりするように彼の頭をわしゃわしゃと両手で撫で繰り回す。撫でられる事自体は満更でもないのか、ゴロゴロと喉を鳴らす彼はご機嫌な様子なのであった。
加筆修正日:2024.11.15
公開日:2024.11.15