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藤花の怪の正体



 当時、小学生の頃、学校の敷地内に藤棚が在った。藤の花が咲く時節になると、毎年美しく鮮やかな彩りを見せ、見るものの心を癒やし、惹き付けた。
 ただ、花の香りに引かれて蜂がよく飛んでくる為、子供の時、藤の花が咲く時節に藤棚の側に近寄る事を好まなかった。

 或る時の事である。
 枝垂れる紫のカーテンの向こう側に、ぼんやりと人影が見えた気がした。花の影に隠れて殆どの姿が見えなかった為、一瞬映っただけの目の錯覚かとその時は勘違いして、不意に呼ばれた級友の声に弾かれるようにその場を後にした。

 また、次の或る時の事である。
 風に吹かれて枝垂れた花先を揺らす紫のカーテンの向こう側に、再び人影を見た気がした。男の人らしき革靴を履いた足元が見えた。微かに見えた衣――位置的にコートか何かの裾先と思しき布地が、ひらり、風に舞ってはためく。藤棚からたわわに枝垂れる花の彩りと同じ色のように見えた。が、一瞬の出来事で、やはり、その後はそんな光景を見た事も忘れて、チャイムの音に急かされるように校舎内へと戻って行った。

 また、次の或る時の事である。
 その日は、雨が降っていた。新緑の匂いに混じって大粒の雨を降らす空に、霧も掛かって、視界はけぶっていた。そんな土砂降りの中、ふと意識が藤棚の方へと向いて、迎えの車が到着するまでの間、玄関先の軒下で待つ暇潰しに何となく遠目からぼんやりと眺めていた。すると、雨でけぶる視界の隅で、枝垂れた藤の花の傘を被った人影を見た。上半分は、丁度位置的に此方側の死角になっていて見えなかったが、下半分の姿は何とか判別出来た。以前も見かけた気のする、藤の花と同じ彩りの衣の裾先をはためかせた、男の人だった。
 今回は、どうやら腰元近くまで見えるようで、傘の下から覗く服装が、普通の洋装とも異なった衣服である事が判った。真深く被った傘の下から唯一見えた手元は、真っ白な手袋をしている風に見えた。蒸し暑くないのだろうか。それとも、潔癖症対策からだろうか。子供ながらにも考え付く事を挙げては考えあぐねる。
 そうこうしている内に、迎えの車が駐車場へと入って来るのが見えた。途端、今まで見ていた不思議な光景の存在など忘れて、土砂降りの空の下、傘を差してバシャバシャと駆けていく。その時、藤棚の近くを通り過ぎたが、視界の隅に映る景色にその人影はもう居なくなっていた。
 こう何度も見かけるとあっては、心霊系か学校に纏わる七不思議ネタか何かかと思い始める。が、悪い気もせず、何方かと言うと清らかな感じを覚えたので、屹度きっと、あの藤棚に宿った精霊の類なのだろうと思い込む事にした。何故ならば、其処に在った藤棚は、自分達が入学する遥か昔に作られた歴史ある立派なものだったからだ。古くから在る小学校の敷地内にある藤棚。花を咲かせる時節になると、毎年美しい姿を見せてくれた、そんなちょっとした季節のスポット。

 或日、毎年藤棚の藤の花が咲く時節に見る人影の事を、仲の良い級友に話したら、意外にも不気味がられて、心配の言葉すら掛けられた。
 この時、その級友より指摘されて初めて気が付いたのだが、毎年人影を見かける度に、見える範囲が徐々に広まりつつあるのだ。初めは足元から始まり、その内、腰元より上へと徐々に見える範囲が増えていっているのである。確かに、改めて考えてみたら、ちょっとしたホラー話みたくに思えても仕方ない。
 その時、級友はこうも言っていた。
「もし、その人影の頭まではっきり見えるようになって、目を合わせてしまったら、そしたら■■ちゃん、その人影の人に連れて行かれちゃうんじゃない……? 悪い事は言わないから、もうその人影の事見るの止めた方が良いよ。何か起こった後じゃ遅いし……っ。何より、■■ちゃんがもし本当に向こう側・・・・に連れてかれちゃったりなんかしたら、あたし、嫌だし、怖いよぅ……っ! だから、もうその人影の事は忘れよう? 代わりに、もっと楽しいお喋りしよう! ほら、この間、■■ちゃんが面白いって言ってた■■■って本、あたしも読んでみたんだけどね! アレ、凄く面白いね! あんまりにも面白いからあっという間に読み終わっちゃって、続きが気になってるんだけど、アレの続きってさぁ……――」
 子供の興味は移ろいやすい。故に、話題なんてすぐに移ろいゆき、さっき話していた藤棚に宿る精霊(仮)の事は、すっぽり頭から抜け出てしまっていくのだった。

 そうして、また季節は移ろい、月日は流れ、あっという間に六年間という長くも短かった小学生時代を卒業する時節を迎えた。流石に、春爛漫の桜満開の時節にチューリップや菜の花は咲けども、藤の花が咲く時節には少しばかり早い。よく晴れた桜吹雪舞う青空の下で、晴れ舞台を納め、遂に六年間という小学生時代に幕を下ろした。長いような短いような、よく分からない感覚だったと記憶している。

 それから、少し経って、新緑が芽吹き始める時節の、何処にも出掛けずで暇を持て余していたGWゴールデンウィーク頃。退屈凌ぎに卒業した後の校舎を見に行ってみようと、六年間通った懐かしき通学路を自転車チャリンコで駆け抜ける。
 そうして、辿り着いた、懐かしき学び舎。その手前の敷地に植わる藤の木から作られた藤棚は、相変わらず健在のようだった。
 丁度、藤の花が見頃の時期に間に合ったらしく、駐車場の空いたスペースへとスタンドを立たせて自転車チャリンコを停める。つい数年前までは、蜂が怖くてなかなか近寄る事も出来なかったが、それから少し大きくなった今や、不思議と恐怖心も無く近寄れた。たぶん、偶々そこそこに風の強い日だった事も相俟って、蜂が飛んでいなかった事も重なっていたのだろう。
 すぐ側の位置まで近付いた事で、花の香りが風に乗せられて顔のすぐ側まで香ってくるようだった。とても綺麗だった。
 ふと、視界の隅に人影が見えた気がして、其方を振り向く。すると、藤棚より枝垂れて風に揺られる紫のカーテンの隙間から、藤の花の精と言わんばかりに美しい姿をした青年がかんばせを覗かせていた。ずっと、この時節になると、毎年藤の花の影に隠れてなかなかはっきりとは姿を見せてくれなかった人影の、正体見たりの瞬間であった。
 青年は、風に揺られる枝垂れ藤の向こう側から、そっと見つめていた。初めて、目が合ったと思った。その瞬間、嘗て級友の一人に“目を合わせたら最後連れて行かれるかもしれない”と言われた時の話を思い出した。今の今まですっかり忘れてしまっていたが、そういえばそんな事を話した事もあったのだったか。結局のところ、真相は分からず終いで、自己完結するに終えた話だったと思うが。何故、其れが今この時、脳裏に過ぎったのか。答えは、屹度きっと、目の前で此方を見つめながら微笑む青年の姿があまりに浮き世離れした美しさを纏っていたからだろう。
 短い煤けた茶色の髪の毛を風にもてあそばせながら佇む青年は、まこと、藤の花の精霊と称しても違いない雰囲気であった。子供ながらにも、何処となく人為らざる者の気配を悟って、けれど、好奇心には勝てずに、控えめな口を利いて問うた。
「お兄さん……毎年この時期になると、いつも此処に立ってたよね? この藤棚に何かしら特別な思い入れでもあるの? それとも、この藤棚に宿る精霊だから、藤の花が咲く頃にだけ姿を見せてたの……?」
「――強いて言うなれば、故郷を思い出して懐かしくなったから……でしょうか。俺の地元にも、とても立派な藤棚で有名なスポットがあるんですよ。この季節になると、其れは見事に花を咲かせるものです。美しく咲き誇った藤の花が藤棚より枝垂れて、まるでカーテンのようになる様は圧巻の美しさですよ。其れこそ、幻想的な世界にいざなわれてしまったかのように」
「そんなに凄いの……?」
「えぇ、其れはもう。自慢の美しさです」
「へぇ〜……そんなに綺麗に藤の花が咲く場所あるんなら、も見に行ってみたいなぁ。お兄さんの地元って何処なの?」
「福岡です。食べ物も美味しい物が沢山あって、観光名所など見所も豊富ですよ」
「知ってる。だって、ウチのお母さんの地元だもん。お母さんの病院行きで定期的に福岡行くけど、色んなお店沢山あって飽きないよね! ラーメン美味しいし、梅ヶ枝餅も美味しいし、あとお土産も種類いっぱいあって嬉しいけど、羨ましい! ウチの地元は、福岡と違って田舎だから、特別コレって言える物あんま無いし」
「そうですか? 俺は、自然豊かなこの土地も素敵な場所だと思いますよ。特に、地元を思い出させてくれるこの立派な藤棚が在るという限りでは」
「春は、色んなお花がいっぱい咲いてて綺麗だよね。卒業式の頃は、桜とチューリップと菜の花が咲いてて、今は藤の花が咲いててさ。もうすぐしたら、新緑の季節に移り変わるんだよ。初夏って言われる季節! 緑が青々しく元気に茂る季節で、風に乗って緑の匂いが香るようになるんだって。お父さんが、この間散歩から返ってきた時に、家の裏山見た感想でそう言ってた」
「季節の移ろいを四季の彩りや、匂いなどといった五感から楽しまれているんですね。良い事です」
「四季それぞれの景色を見れるのは日本独特の文化だから、誇って良いと思ってる……! 何せ、“春夏秋冬”って遊びがあるくらいなんだもん!」
「はははっ……子供は元気が取り柄ですからね。よく遊んで、よく食べ、よく学び、そして、よく眠って大きく成長していってください」
「うんっ! ……ところでさぁ、お兄さんの名前何て言うか訊いても良い?」
 会話を始めてからずっと気になっていた問いを投げかければ、青年は一瞬だけ虚を突かれたような表情になった後、すぐに取り繕って少しだけ困った風に眉を下げながら、柔らかな笑みを浮かべて人差し指をそっと自身の唇に押し当てて言った。
「……其れは、今はまだ内緒にしておきましょう。いずれ、また会う日が来る、その時まで……俺の名前を明かす機会は取っておきましょう」
「え〜っ! 気になるじゃあん!!」
「今は、まだ・・、お互い知らない者同士で居た方が良い。ですから、時が来るまで待っていてくださいね?」
「むぅ……っ。本当に、その時が来たら教えてくれるんだよね?」
「えぇ、勿論。ですから、今は俺も貴女の名前を訊きません。――さて、用も済んだところで、俺もそろそろ帰らねば……」
「あれ。お兄さん、帰っちゃうの?」
「はい。俺には、帰るべき大切な場所が在り、其処に命に代えても守りたいと思う大事な人を待たせているので」
「そっかぁ。じゃあ、早く帰らなきゃだね!」
「そうですね。では、俺は此れにて失礼致します」
 そう言って、藤の花の精霊のような青年は別れを告げ、初めて藤棚の下より踵を返して側を離れる素振りを見せた。
 完全に背を向けて行ってしまう寸前に、青年は、ふと思い出したかのように言葉を付け足す。
「……あぁ、最後におまけと言ってはなんですが、これから俺が帰る場所にも、此処に負けず劣らず美しく壮観なまでに咲き誇る立派な藤棚が在るんですよ。いつか、観光の機会が御座いましたら、俺自らご案内致しますね。その時は、是非とも、その御手を取って歩かせてくださいね? それでは、今度こそ左様なら。また会う、その日まで……どうかお元気で」
 青年が去る直前、ぶわりと一際強い風が吹いて、堪らず目を庇って瞑ってしまった。巻き起こるように吹き抜けていった風は、枝垂れた紫のカーテンの花弁を散らして辺りに舞い上がっていく。
 風が落ち着いた頃を見計らってそぉっと目を開けた時には、青年の姿は何処にも無く、風に攫われるかの如く掻き消えてしまっていた。
 中学一年生に上がり立ての立夏の時節の頃、何とも不思議な出来事であった。

 それから十数年と幾年を経て、子供だった少女は大人となり、成人を迎えたのちに、審神者となった。刀に宿る付喪神を励起し、歴史を守る為の戦争の最前線基地で指揮を執る将となったのだ。其処で、彼女は、かの者と再び相見える事となる。
「――へし切長谷部、と言います。主命とあらば、何でもこなしますよ」
 桜の花弁と共に舞い降りた神父風な装いの刀は、あの時に見た藤の花の精霊と思しき青年、その人であった。今より遡って年月を数えると、本丸黎明期の最初期の頃で、顕現順から数えて二拾四番目に泥刀でやって来た刀だった。
 その後、何やかんやとありつつ、本丸設立から早数年目へ突入した折に、元織田信長の愛刀であり、黒田長政の元へと渡った刀は、修行の旅へと出た。そして、己と向き合い、過去を清算し、清々しい顔付きで帰ってきた。
「へし切長谷部。戻りました。俺の刃はただ、今代の主の為だけにあります」
 黒田家所縁の刀としての証を誇らしげに身に纏う男は、皮肉屋な面は健在ながらも、主人格の人間へ尽くす忠誠心の高さは増した様子で、以前にも増してベッタリと審神者にくっついて来るようになった。
「何でも言ってください? 俺は気位だけ高い連中とは違いますから」
「他の連中がどうかは知りませんがねぇ……俺程主の命に忠実な奴も居ないと思いますよ」
 此れ等の台詞こそが、この審神者にしてこの刀在り、という感じがして実に愉快だが。一つ気付いた事に、審神者は男へと尋ねる。
「ふと思い出したけど……お前さぁ、がまだ審神者んなる前のうんッッッと昔のガキん頃に、会いに来た事あったろ? 普通、刀剣男士が用も無しに現世へ遠征なんて出来る訳ないから、恐らく極修行ん過程ん時辺りだと踏んでるけど。違うか??」
「はて、何の事やら俺にはさっぱりですね」
「とぼけるな、はぐらかすな。白々しい嘘までいちゃってさぁ。そんなに俺の事大好きマンだったんか、お前よぉ??」
「其れはもう、言わずと知れた事かと」
「いけしゃあしゃあと言うようになったやんけ」
「俺は既に修行を終えた身ですからね。主が居てくれるのならば、何処へとて参りましょう。さぁ、折角せっかく天気も良い事ですから、日光浴ついでに少し庭先まで散歩にでも出ませんか? 丁度、藤棚の花も見頃ですよ」
「二十四節気の立夏の景趣である藤の花、何度見ても綺麗よな」
「えぇ、俺が貴女に見せたかった景色を今一度見せる事が叶って、俺は果報者ですね」
「つまり、やっぱあん時のお前やった、っちゅー事かいな」
「ふふっ。あの頃と比べると、すっかりお口の治安が悪くなられてしまいましたが……無邪気さは相変わらずなようで安心しました」
「世の荒波に揉まれた事で失ったものと引き換えに得た逞しさと言え」
「俺の事は、“藤棚に宿る精霊”でしたっけ……?」
「ガッツリ覚えとるんやんけ。クッソ……!」
「まぁ、神域に連れ去る――所謂“神隠し”だなんて大それた事までは致しませんが、本丸という半ば閉鎖的な聖域へ囲ってしまっているという意味では、結局似たようなオチになっていてアレですけど。子供の勘というものは侮れませんね。あのように聡い者が居ると、忽ち正体がバレてしまいかねません故、些か肝を冷やしました」
「別れ際、堂々と会話して満足気に去りおった奴が何を言うんじゃい」
「あの時に見た子供が、こんなにも素晴らしい大人の女性へと成長するんですから、時とは恐ろしいものです」
「別に、今更おべっかかかんでも宜しくってよ」
「お世辞だなんて、そんな……っ。全部本心からですよ。――さぁ、御手をどうぞ、俺の主。あの時の続きを、今からでも付き合って頂いても……?」
 恭しく差し伸べられた手に、迷い無く己の掌を重ねて受け取って言う。
「勿論、俺の長谷部に案内してもらえるのなら、喜んで!」
 結局のところ、今となっては、相手の名前は知れたが、立場上、己の名前を明かす事は真名を明かす事と同義とされ、出来ていない。が、其れで良いのだ。何せ、こんなにも美しい藤の花が見れる景色を、かの者の手を取りながら眺める事が出来ているのだから。
「丁度、花盛りの時節ですし、折角せっかくですから、夜のライトアップされた時間帯に川辺を散歩しながら花見でもしませんか?」
「良いね! 夜桜ならぬ、夜藤ってか? どうせなら、装いも変えて楽しもうか!」
「主から賜った軽装を着る機会を貰えて、嬉しいです」
「へへっ。俺も、ちょっと頑張って女子力上げておめかししちゃおうかなっ! 衣装は歌仙かみっちゃんに見繕ってもろて、着付けは篭手君や前田君達に手伝ってもろて〜、化粧メイクは清光と乱ちゃん達に頼もっかな……!」
「おやおや。ただの散歩に付き合って頂くだけなのに、そんなに気合いを入れて着飾ってくださるのですか?」
「ただでさえ、べらぼうに美人なイケメンが軽装という名のお洒落してんのに、芋臭い格好したちんちくりん状態で並べる訳ないやろ」
「俺は、素のままの主も好ましく思っておりますよ。主らしくて」
「み……しょ、しょんなストレートに褒められると照れるにゃ……」
「ふふっ、どんな姿の主もお綺麗ですよ」
「お前にゃ負ける」
「ははっ、何処で張り合ってるんですか? 貴女は貴女です。屹度きっと何時いつ見たとしても、俺の視線が釘付けになるのは花よりも貴女の方ですから……。――ぁ、此れは失敬……っ。つい、空気に呑まれて余計な事を口走りましたね。桜の時と同様、花は時折此方をも酔わせて困ります」
「まぁ、此れだけ見事な咲き誇り様なら、酔っちまっても仕方あるめぇよ」
「……主は、酒も無しに酔ってしまっても良いと……?」
「偶になら、な」
 そう受け答えれば、男は、藤の花と同じ色をした瞳を蕩けさせて至極嬉しげに微笑うのだった。


執筆日:2025.05.08
公開日:2025.05.09
加筆修正日:2025.05.10