それは、偶々起きた出来事であった。
いつもの如く、執務に集中している主に、こっそりと悪戯を仕掛けてやるつもりで部屋を訪れた時だった。
主の背中…丁度、首と襟口との隙間だったと思う。
ふと、天井から何かがぽとりと落ちてきて、それはあろう事か、その首と襟口との間に空いた隙間へと滑り落ちていったのだった。
主は、虫嫌いだ。
蜘蛛なんかは、見るのは平気でも、触ったりする事だけは苦手であった。
天井から落ちてきたところを察するに、十中八九、虫ならば蜘蛛であろう。
虫でなければ、埃か、はたまた、外から入り込んだ葉っぱか。
どちらにせよ、気付かれない内に取ってやった方が良いだろう。
もし、虫であった場合、知らぬが仏である。
それに、万が一背を這われたらと思うだけで気持ちが悪いし、おぞましい。
すぐさま行動に移した鶴丸は、「ちょっと失礼するぜ。」と一言だけ言うと、返事を聞く間も無く、着物の袂部分からおもむろに手を突っ込んだのだった。
当然、いきなりの事に吃驚した璃子は、鶴の突然の行動に慌てふためき、声を荒げて暴れた。
『なん…っ!?ちょっ、コラ…ッ!!いきなり何すんの!?今すぐこの手退けなさい…ッ!!』
「まぁ、待て…!!すぐに終わるから、ちょっとだけ大人しくしていてくれ…っ!」
『すぐに終わる…!?何を!?やだ…ッ!余計に大人しくなんか出来るかぁ…!!』
「君が何を勘違いしたのかは何となく解るが、誤解だ…!頼むから、あと少しだけ大人しくしていてくれ…ッ!!」
ジタバタと猫の子が暴れるのを抑え込むようにして、何とか背中に入り込んでしまった物を掴み取る。
掴んだら、潰れない程度に掌で握り込むと、スッと差し込んでいた袂から腕を引き抜いた。
暴れた事で乱れた着物は、ガッツリ襟元が開き、合わせの部分も着崩れて、軽く肌蹴てしまっていた。
訳も解らず必死に抵抗していた璃子は、彼が何かを手に握り込んでいるのを見て、襟口との隙間から入ったゴミでも取り除いてくれたのかと気付いた。
「ふぅ…っ、やっと取れたか…。簡単に取れると思っていたんだが、随分と手こずってしまったな。」
『ね、ねぇ…っ、一体全体何の為にこんな事したの…?』
「あ…?不覚にも、君に悪戯しようとしてしまったヤツを、ちょっくら取り除こうとしていたのさ。偶々、君の襟口にすっぽり入っていくのを見てしまったんでな。」
『え…?何、ゴミかなんか、だよね…?』
「見ない方が君の為だと思うが…?コレが服の中に入ってたかと思うと、君、悲鳴を上げるだろう?」
『いや、だからといって、何かも解んなくてどうしろって言うの…?』
「あまりお勧めはしないぜ…?まぁ、君がどうしてもと言うなら見せてやるが…責任は取らないぞ。」
少々渋られたが、掴み取った物を見せてくれると言う。
恐る恐るといった形で彼の掌の中を覗き込めば…。
開いた瞬間、彼女の目の前にピョコンと現れたヤツ。
『ぅぎゃあ…ッ!?く、蜘蛛ぉーッッッ!!』
「だから、止めとけって言っt、」
『ギャアーッ!!嫌ぁーッッッ!!』
「ごふ…ッッッ!!」
彼が予想していた通り、吃驚したのと嫌悪感で盛大に悲鳴を上げた彼女は、咄嗟の反射で手を出してしまった。
そして、その脊髄反射で繰り出された拳がクリーンヒットした鶴丸は、ものの見事に仰け反り、その場にひっくり返る羽目になるのだった。
彼女はというと、吃驚した勢いでそのまま部屋を出て行き、常日頃の頼り相手である光忠の元へと泣き付いていくのであった。
『ふえぇ〜っ、みっただぁ〜…っ!』
「うわ…っ!?どうしたの、その格好…!着物グシャグシャじゃないか…っ!!」
「何があった…?」
『うぇぇ…っ、伽羅ちゃぁ〜ん…っ!』
縋り付くように抱き付いてきた彼女を優しく宥める光忠と、共に内番をこなしていた大倶利伽羅が訳を問い質す。
思わず、泣き付いてしまったが、主としてもう少しちゃんとせねばと向き直り、涙を拭う。
『うぅ…っ、鶴さんが…っ。』
「鶴さんが…?どうしたんだい…?」
『執務中、いきなり部屋にやって来て…袂から腕を突っ込んできたの。』
「へえ〜ぇ…っ。袂から腕を差し入れたと…背中にって事かな?」
『う、うん…っ。』
「…おい、光忠…顔が怖いぞ。目が笑っていない。」
「んふふ…っ、顔の事は気にしないで、続けて…?」
鶴の名前が出てきた途端、恐ろしく怒りのオーラを纏い始めた光忠。
さながら、彼の後ろに般若を見ているかのようだ。
普段から厄介事しか起こしていない彼の事だ。
悪戯ばかりしている普段の行いが、こういう場で災いを呼ぶ。
『それで…っ、背中に入っちゃったっていうちっちゃい蜘蛛を取ってくれたんだけど、吃驚して動揺しっちゃって…つい手が出ちゃって、鶴さんの事殴っちゃった…っ。』
「「…………。」」
普段の行いが悪いせいだ、と二人して思った事は言うまでもない。
今、彼の事を心配してくれる者は、誰一人として居ないようだ。
「何だ…、鶴さんの意地悪な悪戯で泣かされた訳じゃなかったんだね…?」
『え?あ、うん…っ。ごめんね、私もテンパっちゃってたから、解りづらかったよね…?』
「いや、大方予想は付いていたから良い…気にするな。アレが被害を受けたのは、自業自得だ。アンタが気に病む必要は無い。そもそものところ、アイツが何も言わずにやったのが悪い。」
「そうだよね…!いきなりそんな事されたら、璃子ちゃんじゃなくても吃驚しちゃうし、勘違いしちゃうよ…っ!!よしよし、怖かったね…?もう大丈夫だから、安心して。鶴さんの事は、後で僕達がキツく叱っとくから!」
『え…でも、鶴さん悪くない…っ。』
「幾ら、蜘蛛を取り除こうとしたんだとしても、女の子の君の着物を此処まで肌蹴させるような事をして、その上、泣かせてしまったんだから、然るべき対処だよ!」
「ほら、アンタはさっさとジャージに着替えて来い…。着物のままで居て、また蜘蛛やらゴミやらが入ったら堪ったもんじゃないだろう…?それに、光忠がかなりのお怒りだ。とばっちりを受ける前に逃げておけ。」
『へ…?あー、うん…そうする…。』
して、彼女が部屋に戻り、動きやすいジャージの方へと着替えていると。
彼女が部屋に戻ると同時に引っ捕まえられた彼は、抵抗空しく強制的に連れていかれ、その先の伊達部屋で、盛大なるお説教会が開かれるのだった。
「違う…ッ!!今回のは、本当に不可抗力なんだ…!!俺は決して、疚しい事も悪戯もしていないし、仕掛けてもいない…ッッッ!!」
「どうだか…っ。なら、彼女は何で泣き付いてきたのかな…?説明してみてよ。」
「それは…っ!思わず手から飛んでしまった蜘蛛に驚いてだな…っ!!」
「本当かどうかも怪しいな…。実のところは、その蜘蛛を悪戯に使おうとして、仕掛ける前に失敗しただけなんじゃないのか…?」
「本当だ…ッ!信じてくれぇー…ッッッ!!」
何とも憐れで不憫な鶴なのであった。
「日頃から良い行いをするように努めましょう!」との訓示でした、まる。
執筆日:2018.05.27