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六月の花嫁



其の日は、雨が降っていた。

梅雨特有の天気で、朝からどんよりとした暗い空で、鼠色に染まった雲からぱらぱらと雨が降り注いでいた。

ちょっと前までは小雨だったのに…。

こうも雨続きとなると、何だか気が滅入ってしまって憂鬱だ。

何か気が晴れるような、日常に溢れるほんの些細な小さな事でも良い。

心に掛かった薄暗い靄みたいな気持ちを晴らしてくれる、良い事は起きないだろうか。

時折、道行く人々と擦れ違いながら、雨降る町を歩く。

揺れる傘から水滴が落ちて、足元を濡らす。

跳ねた雫が服に飛んで、服の裾が濡れていく。


『はぁ……雨、一向に止みそうにないな…。』


思わず、口を突いて出た溜め息が、更に気分を暗くさせていく。

溜め息を吐くと幸せが逃げていくと言うが、もう何度吐いたか解らない程吐いたなら、私の幸せってどうなっているのだろう。

もう、私の中からは無くなってしまっているのだろうか?

ふと考え込んでしまい、歩みが遅くなる。

無意識に俯いてしまっていた頭を上げ、正面に視界を戻す。

何となしに、くるりと傘を回して、表面に付いて流れる雨粒を飛ばしてみた。

まるで子供みたいだ、と頭の片隅が呟いたが、ほんのちょっぴりだけ楽しかったので、そのまま数回くるくると傘を回して歩いた。

民家の建ち並ぶ小道へと入る。

辻道に分かれた差路に行き当たり、左側の道を選んで進む。

暫く進むと、木の影に立つ人影を見付けた。

若い男の人のようだった。

傘を持っておらず、どうやら雨を凌ぐ為に、木の下で雨宿りをしているようだ。

山肌に近い其の場所は、少し苔むしていて、梅雨らしく湿っぽい空気を放っていた。

彼は、どこか浮世離れした雰囲気を纏っていたが、薄暗く濡れた周りの空間に上手く溶け込んでいるように見えた。

ぴちょんっ、と木の葉から滑り落ちてきた雨雫が、彼の鼻先へと落ちてきて濡れる。

其れを、彼はふるりと頭を一、二度振る事で弾き飛ばした。

ちょっとだけ猫っぽいと思った事は内緒だ。


『ぁ、あの…其処じゃ、雨雫が掛かって濡れますよ…?』
「……………。」


チラリ、と一度だけ視線をくれるも、すぐに視線を戻した彼。

ポタポタと濡れた前髪の髪先から、雨雫が落ちていく。

彼は気にせず、木の下に立ったままである。

一体、こんな雨の中、傘も差さずに何をしているのだろう。

誰か人でも待っていて、待ち合わせの為に待っているのだろうか。

しかし、彼の周りには、私以外の人は人っ子一人居なかった。

ならば、このままずぶ濡れていく彼を放っておくのも悪い気がして、彼の方へと歩み寄る。

そうして初めて、彼と視線が合った。


「…俺に、何か用か?」


少し気怠げで面倒くさげに発せられた声は、そう口にした。

金色に煌めく双眸が、何だか不思議な色を映していて、吸い込まれそうだった。


『其処だと、雨に濡れちゃいますよ…?雨宿りするなら、もっと良い場所を知ってるので、案内します。』


柔く傘を傾けて、彼がこれ以上濡れないよう防ぐ。


「……悪いが、俺は此処で十分だ。馴れ合うつもりはない。」


据えられた眼は、如何にも面倒くさいと言いたげに見つめてきた。

しかし、このまま放っておけば、確実にずぶ濡れになってしまいそうな空気に、私は再び言葉を発した。


『そのままじゃ、濡れて風邪を引いちゃいます。此処からすぐ近くですから、どうぞ付いて来てください…!』


めげずに尚も食い下がるよう言葉を重ねれば、仕方なしに承諾したようで。

はぁ…っ、と一つ溜め息を吐いた彼は、頷いてくれた。


「…解った。アンタが其処まで言うのなら、好きにしろ。」
『…!はい…っ、それじゃあ、此方です…!』


ゆるりと歩き出した彼を傘の中に招き入れ、一緒に歩き出す。


『雨、止みませんね…。これだから、梅雨の時期は嫌です…。貴方も、そう思いませんか?』
「…俺は、寧ろ好ましいと思っているが…。何しろ、雨は大地を潤す、天からの恵みだ。地が潤えば、草木や花も元気になる。紫陽花も綺麗に咲く…。植物にとっては、良い事だが…アンタにとっては、違うのか…?」
『確かに、雨は、農家の人達からしても恵みの雨だって言われてますけど…私は、嫌いですね…。だって、気分が落ち込むし、何より、洗濯物が乾かなくなります…っ。』
「…彼奴が言いそうな事だな…。」
『アイツ…?』
「…何でもない。アンタが気にする事じゃない。」


黙ったまま歩くのは、何となく気が引けて、それとなしに話題を振ってみたら、意外にもきちんと返してくれた不思議な人。

もしかしたら、話しかけた最初みたいに無言を返されるのかとばかりに思っていたから、ちょっとだけ驚いた。

さっきまで憂鬱だった気持ちが、少しずつ晴れていく。

明るくなり始めた心を弾ませ、雨雫の落ちる音に耳を傾けた。

先程よりは、少し弱くなったようである。

傘に打ち付ける音が蛙の鳴き声と相俟って、まるで一つの音楽を奏でているようだった。


『…あ、着きましたよ。此方です。』


少し先を歩いた処に在った、お屋敷らしき軒下。

今は誰も住んでいないらしく、空き家だ。

長屋で先程の場所より、大きく広めの屋根が雨を防いでくれて、誰かを待つにしても雨宿りをするにしても丁度良い場所だった。


『此処なら、さっきまでの場所よりも雨を凌げる、ぴったりな場所だと思いますよ。それなりに大きな家ですけど、今は誰も住んでいなくて空き家らしいんです。なので、あまり住人や人目を気にしなくて済みますよ。』
「…嗚呼、確かにな…。すまない、世話になった。」
『いいえ、見た処、傘をお持ちでは無かったようでしたので…。丁度良い場所を案内出来て良かったです。では、私はこれで。機会がありましたら、またお逢いしましょう。』


不思議な人とは、其処でお別れして、帰路に着く。


不思議な人との縁は、其の日以来、何度か続いた。

彼と逢うのは、決まって雨の日で、いつも傘を持たずに初めて逢ったあの場所に立って誰かを待っている。

だから、其の場所へ通りかかると、いつものように雨宿り出来る屋根の下へと連れていってあげた。

特に理由は無かったけれど、何となく放っておけなかったのだと思う。

雨降る日にだけ逢えるというのも、何だか不思議だと思ったけれど、其れは其れで良いのかもしれないと思った。

日に日に、彼と逢う日も多くなって、また幾度目かの雨の日の逢瀬となる。

まぁ、梅雨の時期故にではあるが。

逢う日が重なる毎に、彼の態度は軟化していって、今では、手を差し伸べれば其の手を握ってくれるようにまでなってくれた。

それでも、相変わらず不思議な空気は変わらなくて、どことなく浮世離れしている雰囲気だった。


『あ〜あ、また雨降ってますねぇ…。此処のところ、雨続きでやんなっちゃいます。まぁ…梅雨だから仕方がないんですけど。』
「…アンタは、いつも其ればかりだな…。」
『だって、あんまりにも雨続きなもんだから、洗濯物が山程溜まっちゃってるんですもん…。コインランドリーに持っていきたくても、此処からじゃ遠くて車出さなきゃならないですし、仕事から帰ってきたら疲れてて其れ処じゃないですし。週末にでも、まとめて持っていくしかないですね…面倒ですけど。』
「ご苦労な事だな…。」
『本当ですよ〜…。頼むから、明日くらい晴れてくれませんかねぇ…?』


雨が打ち付ける傘の上を見上げて思う。

そんな間も、彼は静かに隣で此方を見遣っていた。

程なくして、いつもの雨宿り場所へと着く。

此処へ案内し終えれば、彼とはお別れだ。

いつもの如く、短い雨の日だけの逢瀬の時間は終わる。


『ハイ、着きましたよー。いつもの雨宿り場所です…!もう何度も案内してるんですから、良い加減、誰かを待つなら、此方で待つようにしてくださいよー。』
「…彼処に居れば、またアンタに逢える気がしてな。」
『ぇえ…?何ですか、それぇ…っ。』


可笑しな事を言う人だと、クスクス笑ってしまった。

それでも、微動だにしない彼は、不思議な人だ。


『それじゃあ、また。私はこれで…、』
「アンタに一つだけ訊きたい。」
『え…っ?』


去り際に、そう唐突に言われ、足を止めて振り返る。

彼の金色をした双眸が、此方を真っ直ぐに見据えていた。


「どうしてアンタは、甲斐甲斐しくも、毎度俺を此処まで案内してくれるんだ…?」


雨特有の空気が、風を受けてゆらりと揺れた。


『…どうしてって…どうしてでしょう?私にもよく解りません…。けど、何故か放っておけない気がするんです。何となくですし、特に理由は無いんですけど…。』
「…そうか…解った。引き留めて悪かったな。」
『はぁ…。』


何故、唐突にそんな事を訊かれたのかが解らなくて、首を傾げた。


また次の日も、雨が降っていた。

どしゃ降りだった。

其の日は、仕事が休みだった為、外に出る事は無かった。

だが、何となく彼の事が気になって、何度も窓の外の景色を見遣った。


翌日は、晴れとはいかないが雨は止んで、曇りだった。

しかし、時折雨が降る事があると予報士のお姉さんが言っていたので、折り畳み傘を持って出掛けた。

仕事から帰ってきた時も、雨は降っていなかった。

だが、今にも降りそうな気配だ、と空の雲を見上げて思う。

雨が降れば、また彼に逢えるのかな…。

そう思っている内に、ぱらぱらと小雨が降ってきて、顔を濡らした。

慌てて、鞄の中から折り畳み傘を出して差した。

そのまま、辻道に分かれた差路に差し掛かり、左側の道を選んで進む。

そうしていると、いつもの場所に辿り着く。

小雨程度にしか降っていないから、今日は逢えないかな…と思っていたら、居た。

いつもの如く、傘も差さずに、木の下で誰かを待っているかのように立っていた。


『こんにちは。また逢えましたね。』
「…アンタか。」
『小雨が降ってる程度でしたから、今日は逢えないのかと思ってました。今日も、誰かを待ってるんですか…?』
「嗚呼…アンタが来るのを待っていた。」
『ぇ……っ、私を…?』


訳が解らず、瞬きを繰り返して見た。

彼の眼が、不思議な色を映して煌めく。


「アンタの名を聞きたかった。アンタ、名は何と言う…?」
『え…名前、ですか……?』


其処で、初めて名を訊かれた。

これ迄幾度となく顔を合わせてきたものの、所詮顔見知りの赤の他人程度のものだと思っていたから、敢えて名を名乗る事をしていなかったのだ。

故に、何故今、唐突に名を訊いてきたのだろうと不思議に思いつつも、律儀に答えた。


『私の名前は、花江璃子ですけど…。』
「璃子、か…。アンタらしい名だな。」
『え?あ、ど、どうも…。』


吃りながらも、褒められた事に対して礼を言う。


「俺の名は、大倶利伽羅と言う。この辺りに棲まう、龍神だ。アンタの人と成りを見ていた…だから、敢えて黙っていた。」
『ぇ………。』
「璃子、俺はアンタを迎えに来た。俺の嫁として、側に居てくれないか?」


突然の告白に頭が付いていかなかった。

だけど、いつも逢う度に不思議な空気を纏っていて、どこか浮世離れしているように感じていた理由が漸く解った。

其れは、彼が人ではなく、神様だったからである。


「俺の番として、共に来てくれるか…?」


彼が再び私に問いかけてきた。


『……私なんかで良ければ、喜んで。』


私は、躊躇う事無く、差し出された雨に濡れた彼の手を取った。

不思議と迷いなんかは感じなかった。

手を取った瞬間、初めて彼が微笑みを浮かべた。


「アンタの事は、俺が幸せにすると誓おう。」


―雨降る日の逢瀬を重ねた結果、私は、龍神様の花嫁になる事となりました。

六月の梅雨の季節の事でした。


執筆日:2018.06.21